私たちは、この現在から同一線上に未来があると認識している場合が多いような気がします。新学年の準備や話し合いをしていく中で、今年度の内容や方法を継続するという判断に至る場合も現在(今年度)と未来(来年度)はつながっているという意識が根底にあるように思います。
継続は力という表現があらわすように続けることで安定が生まれ確実な成果につながりますが、一方で、潜在的な課題に気づかずに、解決せずに、あるいはさらに良いものを追求するという意識を持たずに現状を安易に維持する可能性も高いことに気づく必要があります。 昨年のWorld Economic ForumのAgendaにAndreas Schleicherがあげていた問いかけの一部から選んだ質問です。 ① How do we reconcile new goals with old structures? 新しい目標と古い構造をどう調和させるか。 ② How do we support globally minded and locally rooted students and teachers? 世界的な視野を持ち、地域に根ざした生徒や先生をどのように支援するか。 ③ How do we foster innovation while recognising the socially highly conservative nature of education? 教育のあり方が社会的にかなり保守的であることを認識しつつ、どのようにして革新を生み出すか。 ④ How do we leverage new potential with existing capacity? 既存の能力で新しい可能性をどう導き出すか。 ⑤ In the case of disagreement, whose voice counts? 意見が対立した場合、誰の声が重要か。 どれもがこの一年間に直面し解決策を模索し続けた課題ですが、教育に何らかの革新を生み出そうとすると、その営みは構造上や社会的な矛盾の上で展開しなければならないことに気がつきます。 学校現場ではとりわけ③の質問にあるように、人々の思考や行動形態が保守的であると同時に振り返りの習慣が弱いので新しいことを始めることがむずかしい現実があります。たとえば、目的や意味、価値が不明確であったり、明らかに時代の枠組みから外れた学習活動を繰り返しやらせている例を目にします。 ある日の放課後図書館である課題に取り組んでいるグループが2、3ありました。一見すると皆が集中して努力している理想的な学習風景ですが、そのうちの一人に声をかけると、一言「作業です。」 来週はOECDが仮説としてあげている未来の学校のシナリオと、学校では何が本当に学ぶ価値のあるものなのかについて考えてみたいと思います。
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“What if we were obsessively learner focused in schools? We can easily focus on test scores, curriculum, programs, or even technology, but when we stay focused on the learners, all of these tools and measurements become secondary—part of what we do but not why we do it. We can have the latest technology or the best curriculum, but if we are not obsessed with who learners are, how to best serve them, and how to partner with them to move forward, we can fail to make the impact that we desire and are working so hard to achieve.” Katie Martin (2017) Learner-Centered Innovation
「もし、学校で学習者に徹底的にこだわるとしたらどうでしょう。テストの点数、カリキュラム、プログラム、そしてテクノロジーにさえも焦点を当てることは簡単ですが、学習者に焦点を当てれば、これらの道具や測定はすべて二の次になります。私たちの仕事の一部ですが、なぜするかということではありません。最新のテクノロジーや最高のカリキュラムを導入しても、学習者とは誰か、学習者にどのように貢献するか、学習者とどのように協力して前進するかということにこだわらなければ、私たちが願い、実現に向けて懸命に努力しているインパクトを与えることはできません。」 子どもたちのために、子どもたちを第一にという表現に触れることは珍しいことではありません。けれども、教師が仕事の究極的な目的、意味、対象を見失っていることに気がつくことはないでしょうか。 質問です。
欠席している子どもが今どこで何をしているか、安全な環境にいるのかをまず本人や家族にたずねるでしょう。そして学校に来られない理由を探り始めます。この時に質問が向く方向はどちらでしょうか。 校内外での人間関係や出来事についての質問はその子どもに向けられますが、それ以外の多くの質問は教師である自分に向くだろうと思います。五感を通して何かしらの兆候をいつも感じ取っていただろうか、信頼関係を築いただろうか、考えていることや感じていることを聞く時間を持っただろうか、困っていることや直面している課題があるかどうか確認しただろうか、そしてそのための十分な支援をしただろうか。 学習者が中心にいるということは、その周りにいる教師の守備範囲が広いということに他なりません。 世界のどこの学校でも学年の年度末はあわただしく忙しいものです。けれどもその時期がどの季節にあるかということは、子どもたちや教職員の心身の健康に大きな影響があると感じています。
Australiaの学校は12月に学年が終わるので、一年の中でも一番快適で日差しや風が心地よい中で多忙期を迎えます。そしてその先にはクリスマスと長い休みがあります。一方の日本では寒く冷たい季節の最中に大きな試験や年度末の仕事が重なってやってくるので、当事者にはお気の毒なことだと感じてしまいます。 私たちの活力と感情(気分)の状態を4つに分類する診断法があります。どれが今の状態をあらわしているでしょうか。 質問です。
“The survival zone is when your energy is high, but negative. When we feel threatened or devalued, control of our nervous system shifts from the prefrontal cortex to the sympathetic nervous system and we move into fight-or-flight mode. People in this zone are anxious, impatient, irritable, fearful, and self-critical.” Tony Schwartz (2022) Harvard Business Review 「サバイバルゾーンとは、活力は高いけれども精神状態が良くない状態のことです。 私たちが脅威や軽蔑を感じると、神経系の制御が前頭前野から交感神経系に移行し、闘争・逃走モードに移行します。 このゾーンにいる人は、不安、焦り、苛立ち、恐怖心、そして自己批判的になります。」 折しも人々を不安にさせる材料がたくさんある中で、精神的な安定を保つことは一層むずかしくなるでしょう。そこで、多くの子どもたちや先生方がこの状態にいるのではないかと予想されます。一方で、多くの人が自分なりの対処法をいくつか持っているのではないかとも推測しています。 昨年4月からの新しい環境の中で定着した習慣をご紹介します。まず、月曜日から金曜日までをひと区切りにしてそこに集中すること。金曜日にはmental bonusを用意します。そして週に一回は学ぶ時間、何かを吸収する時間を持つこと。さらに、一週間の周期の中にいくつかの創造的な作業を入れることを心がけています。そうすることで survivalやburnout の状態に陥ることをどうにかまぬがれています。 土曜日の朝に聴いていたpodcastの中に興味深い指摘がありました。
“There is a new wisdom that is growing in the 2020s, that it's not either/or, but it's both/and, that if we do look after people, well, they will perform better.” Sir Anthony Seldon 「2020年代には、どちらか一方ではなく、両方であり、人を大切にすれば、パフォーマンスは上がるだろうという新しい社会通念が育ってきています。」 質問です。
両方とも可能だという考え方や習慣の実例としてすぐに思いつくのは、COVIDの影響が出始めた2020年から急速に広がった仕事や会議の仕方の多様性でしょう。大きな変化ですが、公共性の高い学校現場では具体的な改革は少なかったようです。教職員の勤務形態を個人や学校単位で決めることは非現実的という認識が一般的だったのでしょうが、決して不可能ではないと私は思います。 両方とも可能だということ、選択肢があり子どもたちに選択権があるという考え方や実践は、数年前から提案されているStudent AgencyやCo-agencyの考え方につながっています。そしてこの過程を通して、子どもたちが非認知能力を豊かにしていくことは証明されています。 迎合ではなく学習者の権利として、学習や評価の内容、方法、基準について話し合い複数の選択肢が常に存在するという学習環境を創ることを2022年の目標にしたいと考えています。入学のための選考方法も決して例外ではないと思います。 先日12年生が卒業写真の予行練習?をしていました。4月からマスクをつけた顔しか知らないので、マスクのない顔を見ていったい誰なのかわからないという不思議な体験をしました。マスク着用の義務、つまり選択肢がないことで学校の安全を保つことができています。 2025年までに国内で販売される新車はすべて排気ガスを出さない車というNorway政府の最近の決定や、同じく2025年にはたばこの販売が禁止されるNew Zealandの方針にあるように、どちらか一方を敢えて決めるという決意も十分に理解し共感することができます。 昨年末にお届けしたIdeasでは「希望」について振り返ってみましたが、2022年を迎えてさらに「希望」について考える機会がありました。
“It’s not a warm, fuzzy emotion that fills us with a sense of possibility. Hope is a way of thinking—- a cognitive process.” Brene Brown (2021) Atlas of the Heart 「それ(希望)は、可能性を感じるような、温かくてぼんやりした感情ではありません。希望とは、考え方のひとつであり、認識プロセスなのです。」 その認識プロセスは3段階、goals, pathways and agency、から構成されるという説明がありました。実際に私たちが思い描く「希望」を例に調べてみましょう。 質問です。
自分が学校に通っていた頃に描いていた希望を思い出してみると、実現しなかったものは①と②が欠けていたことに気がつきます。そして、社会人になってかなわなかったものは、主として③が欠けていたことに気がつきました。同時に、実現しなかったとは言うものの、ある一時期にその希望に向かって努力した過程や味わった敗北感や挫折感は貴重な体験として自分の中に蓄積され、その後の機会に活かされたような感覚もあります。 “Children with high levels of hopefulness have experience with adversity. They’ve been given the opportunity to struggle, and in doing that they learn how to believe in themselves and their abilities.” Brene Brown (2021) Atlas of the Heart 「希望にあふれる子どもは、逆境を経験したことがあります。苦労する機会を与えられ、その中で自分自身と自分の能力を信じる術を学んできたのです。」 子どもにとっての逆境を考えると、3年目に入ったこのPandemicやもうすぐ始まる入学試験なども含まれるかもしれません。それらをくぐり抜けて育つ子どもたちに「心に太陽を持ち、くちびるに歌を持つ」ようなたくましさが育つのでしょう。大人の役割は、現実を子どもたちに合わせるのではなく、直面する現実に子どもたち自身が適応できるように育てることにあります。子どもたちへの一貫性のある接し方と過保護ではない支援を心がけたいと思います。 一年の終わりが近づいてきました。年の初めに願ったこと、思い描いたことが達成できてもできなくても、一人ひとりに平等に新年がやってきます。そして新年をきっかけとして再び新しい希望を持つことができます。慌ただしい日々の生活の時間をしばらくとめて「希望」について振り返ってみました。
“Grit depends on a different kind of hope. It rests on the expectation that our own efforts can improve our future. I have a feeling tomorrow will be better is different from I resolve to make tomorrow better. The hope that gritty people have has nothing to do with luck and everything to do with getting up again.” Angela Duckworth (2017) 「Grit (やる気、根気) は、別の種類の希望に依存しています。それは、自分自身の努力によって未来をより良くすることができるはずだという期待にかかっています。「明日は良くなる予感がする」と「明日を良くする決意」とは違うのです。Gritが持つ希望は、運とは無関係で、すべては「再び立ち上がること」なのです。」 “This is the era of just redemption We feared at its inception We did not feel prepared to be the heirs of such a terrifying hour but within it we found the power to author a new chapter To offer hope and laughter to ourselves So while once we asked, how could we possibly prevail over catastrophe? Now we assert How could catastrophe possibly prevail over us? We will not march back to what was but move to what shall be” Amanda Gorman (2021) 「今こそ 正義を取り戻す時代 私たちは それが始まることを恐れていました 私たちは その役割を受け継ぐ準備ができているとは思っていませんでした このような恐ろしい時代の しかし その中にあって私たちは力を見出したのです 新しい章を書くために 自分自身に希望と笑顔を提供するために かつて私たちは問いかけたことがあります 大惨事に打ち勝つにはどうしたらいいのだろう? 今 私たちはこう断言します 大惨事が私たちに勝てるわけがない 私たちは過去に戻るのではなく あるべき姿に向かうのです」 “Feeling hopeful does not mean to be optimistically naïve and ignore the tragedy humanity is facing. Hope is the virtue of a heart that doesn't lock itself into darkness, that doesn't dwell on the past, does not simply get by in the present, but is able to see a tomorrow. Hope is the door that opens onto the future. Hope is a humble, hidden seed of life that, with time, will develop into a large tree.” Pope Francis (2017) 「希望を感じるということは、楽観的に愚直になりきって、人類が直面している悲劇を見ないふりをすることではありません。希望とは、暗闇に閉じこもらず、過去にとらわれず、現在をただやり過ごすのではなく、明日を見据えることのできる精神の美徳です。希望は、未来に開かれた扉です。希望は、謙虚でひそかにたたずむ命の種であり、時がたてばやがて大きな木に成長します。」 新年がみなさまにとって希望と喜びに満ちた良い一年でありますように。 女性解放活動家で作家のbell hooksさんの死亡記事がありました。筆名を小文字で書くところにこの方の信念が伝わってきます。特に脈絡があるわけではありませんが、詩人の石垣りんさんや茨木のり子さんを思い出しました。
“Dominator culture has tried to keep us all afraid, to make us choose safety instead of risk, sameness instead of diversity. Moving through that fear, finding out what connects us, reveling in our differences; this is the process that brings us closer, that gives us a world of shared values, of meaningful community.”bell hooks (2003) A Pedagogy of Hope 「(社会の中で)優位を占めている文化は、私たちを恐れさせ、リスクではなく安全を、多様性ではなく同質性を選ばせようとしてきました。その恐怖を乗り越え、私たちをつなぐものを見つけ私たちの違いを楽しむ。これこそが、私たちを近づけ価値観を共有する世界、意味のある共同体を生み出す過程なのです。」 質問です。
校内の様々な教育活動やその評価方法を注意深く観察すると、先生方の頭の中では同質化を最大の到達目標としているのだろうという予想が明確になってきます。必然性も根拠もない漠然とした「もの」に寄りかかって安全を得ようとする心理が働いているようにも見えます。 安全や同質性を選ぶ傾向、その思考回路と行動形態は多くの人々の中にdefaultとして棲みついているので、新しい考え方や方法を冷静に客観的に調べてみようという過程さえもむずかしくしている場合があるのが現状でしょう。 茨木のり子さんの作品の中に「落ちこぼれ」という詩があります。 落ちこぼれ 和菓子の名につけたいようなやさしさ (中略) 落ちこぼれ 結果ではなく 落ちこぼれ 華々しい意思であれ 意思として同質化を拒むという選択肢を人生の中で何回か選びました。実際には他の選択肢がなかったというのが事実ですが。 先入観や偏見について、中等部の子どもたち全員と話し合いました。7年生は「背が高いからスポーツをしているだろうという先入観を持たれる」、「男だからこれくらいできるだろうと偏見を持たれる」、「めがねをかけているから頭が良さそうと言われる」などのようなつぶやきがあり、8年生からは「服装で運動ができる人と思われている」、「ホームレスの人が悪いと決めつける人がいる」、「数学だけが苦手なのに他の教科も苦手と思われている」という発言がありました。9年生からはさらに深い体験を共有してくれました。「せんぎょうしゅふと聞くと『専業主婦』しか思いつかない人がいる」「髪型や服装で警察官から職務質問を受けた時に校名を伝えても信じてもらえなかった」「帰国子女=英語ペラペラ」「朝の電車で『こいつ金髪やほんまに学校行くんか?』みたいな目で見られる」
多くの子どもたちが先入観や偏見を持たれて苦々しい体験をしている事実を改めて認識するきっかけになりました。自分も学校に通っていた頃や社会に出てから、他の人に対して持ってしまった先入観や偏見を思い出し、また他の人から持たれてしまったこともよみがえってきました。 質問です。
1130冊の児童書をAIを活用して人種、年齢、肌の色、性別に関して先入観や偏見がどのようにあらわれているかを調査した研究が最近発表されました。 AIの分析が明らかにしたものは、たとえば、好ましい登場人物は肌の色が薄い場合が多いというような予想がつきやすいものですが、子どもたちの読み物の中に先入観や偏見を生むきっかけになる要素が多く潜んでいることがわかり、本を選ぶ際に大人が気をつける必要があることが明確になりました。 子どもたちの学習に関しては先入観や偏見はあってはならないものですが、指導する人が評価もするという環境では、様々な主観的な要素に影響を受ける場合が多いように感じます。客観性をあげるためには診断的、形成的評価を頻繁に実施することが重要になってきますが、入口・出口質問のような簡単に実践できるものを日常的に活用するだけでも客観的事実や証拠を集めることができ、同時に無意識のうちに持っている何らかの先入観を排除することができるでしょう。 共感EmpathyはDesign Thinkingの出発点ですが、学習活動も子どもたちへの共感が第一歩のように思います。共感があるところに先入観や偏見が忍び込む可能性は低いように感じます。 2020年1月以来中断していた研究講座を先週の日曜日に再開しました。同じ場所にいて、顔だけでなく相手の姿や仕草を見ながら話し合うことは本当に良いものだと感じました。
今回の講座は学習者の学びや知的成長を保証するための個別最適化が主題でしたが、一般的に使われる表現ではなく Differentiation 2.0 という造語にしてみました。1.0ではないのは、最近の海外の Differentiation に関する実践研究が少し変化してきていることを感じたからです。それは教師が様々な準備をするのではなく、学習者の子どもたち自身が自分の学習を創るという student agency の考えに基づいています。Equality 平等が大切なのではなくEquity 公平が個別化の基本姿勢ですが、さらに進んで、Option 選択肢を与えるのではなくChoice 選択権を与えるという考え方に動いています。 まず最初にアマチュアとプロの違いについて先生方に話し合ってもらいました。子どもたちは、無意識のうちに学習活動の中で様々なサインを出しています。教師にとってはそれらを感じ取る感性のアンテナの高さが重要になってきます。一人ひとりに目や手が届いているかどうかということが Differentiation の証拠であるならば、教師に必要とされる専門性の中では教科や指導法と同様に重要な資質でしょう。 質問です。
教師になりたての頃、土曜日の夕方に学校を出て都心の有名ホテルのロビーに座ってそこで働いている人々の様子を眺めることをよくしていました。広いロビーにはそれぞれの役割を持った人々がいて、無駄のない適切な動きをしています。そこで働いている人々の目的と意識はひとつのこと「お客様に最大の満足を感じてもらうこと」に集中していることは明確でした。 学校や教室も同様に、その存在理由である子どもたちの知的・社会的な成長に責任を持つという使命に忠実になればなるほど専門性は上がるでしょう。責任を持つということは、すべてを背負うというのではなく、何が可能でどうすれば良いかという思考から始まると思います。個別化をする必要性は誰もが認識している事実ですが、なぜ実践できないのかを振り返ることが専門性を高める一歩のような気がします。 今回の研究講座のpresentationはこちらをご覧ください。 久しぶりに見る深まる秋の風景は、四季の区別が明確な場所に住む楽しみのひとつだということを感じさせます。今朝イチョウの葉でおおわれた道を歩きながら Lin Yutang (林語堂) の文章を思い出しました。
"I like spring, but it is too young. I like summer, but it is too proud. So I like best of all autumn, because its leaves are a little yellow, its tone mellower, its colours richer, and it is tinged a little with sorrow and a premonition of death. Its golden richness speaks not of the innocence of spring, nor of the power of summer, but of the mellowness and kindly wisdom of approaching age. It knows the limitations of life and is content. From a knowledge of those limitations and its richness of experience emerges a symphony of colours, richer than all, its green speaking of life and strength, its orange speaking of golden content and its purple of resignation and death." 「その黄金色の豊かさは、春の無邪気さや夏の力強さではなく、年齢を重ねたときのまろやかさややさしい知恵を物語っています。」 折りしも「やさしさ」について考える機会がありました。 質問です。
産業医の先生との話し合いの中で、相手にやさしく接することは感情が入ることの危険性があるという指摘がありました。そこで、丁寧に接して互いの感情が入らないように一線を画すことが職場でのやり方という結論に至りました。 数日前に届いた Adam Grant からの Newsletter でも丁寧さとやさしさの区別についてが主題でした。 “Being polite is saying what makes people feel good today. Being kind is doing what helps people get better tomorrow. In polite cultures, people bite their tongues on disagreement and criticism. In kind cultures, people speak their minds respectfully.“ 私は考えていることや心の中にあることを相手を尊敬しながら話すやさしい (親切な) 文化を支持したいと思います。 遠目に見る山肌の色がこれからさらにどのように変化するか楽しみです。 |
Author萩原 伸郎 Archives
4月 2024
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