11年生の生徒が今まで履修したことのない教科を取りたいと言い出しました。この生徒は大学進学を希望しているので、その科目は受験科目の一つになります。しかも新学期が始まって7週目になっています。自分にはやり遂げる能力と自信があると一歩も引きません。まさに突然開眼し悟りの境地に至った修行僧のようですが、根拠がありません。
私たち教師は理路整然と現実的でないことを諭しますが聞く耳を持ちません。母親の言い分はというと、「すべての子どもに選択の自由がある。」さらに「すべての子どもに失敗する権利がある。」と言ってのけて子どもの主張を支持しています。 結局、この生徒は希望通りに科目を変更しました。荒唐無稽で特異な事例ですが、母親の「失敗する権利」という言葉が頭に残っています。自分がもしこの生徒の立場だったら絶対にそのような無謀な選択肢を選ぶことはないし、もしそれが自分の子どもだったら強権的に阻止するでしょう。 この生徒にとって、おそらく奇跡は起こらないでしょう。しかし、未熟な決断ですが根本的な動機はその教科を必死に学びたいという欲求です。今日の学校、教師、保護者が子どもが失敗をしないように導く「常識」の正反対を貫きました。 質問です。 ① 私たちは子どもたちが試験や試合に成功すること、良い結果をあげることだけを期待している傾向があるでしょうか。 ② 良い結果があらわれなかったとき、希望や予想通りに物事が進展しなかったときに子どもたちに的確な助言や援助を提供しているでしょうか。 ある教師から11年生に課した単元末テストで0点に近い生徒が2名出たという報告を受けました。少人数のclassなので、2名という比率は低くありません。いくつもの疑問が浮かび上がりました。①そのような結果を予想することができなかったのか。(できたはずだ) ②時期は正しかったのか。(正しくなかった) ③毎時間、あるいは、毎週生徒たちの理解度を測定していたのか。(していなかった) ④毎時間一人ひとりの学習の過程を診断していたのか。(していなかった) ⑤そもそも生徒たちの能力の差を認識していたのか。(していた) ⑥その差に対応した指導をしていたのか。(していなかった) ⑦それではあなたは教師としてどんな仕事をしていたのか。(Curriculumにある内容を伝えていただけ) それらの疑問を胸の中に留め、その生徒たちへの救済策を考えることを頼みました。生徒たちの成功は、教師の持つrecipe(成功のための材料と調理法)に寄るところが大きいと感じます。
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黒澤明監督の映画はこちらに移り住んでから観る機会を得ました。そして世界的に評価の高い映画監督であることを実感しました。
今日本国内で大きく報道されている事件から誰もが感じる違和感は、黒澤作品の一つ『悪い奴ほどよく眠る』にあらわれる権力や財力を持つ人間たちの黒々とした行動と同類であると解釈すれば腑に落ちるでしょう。 閑話休題、最近の日本語から感じられる違和感の続編に移りましょう。起業家などが新しい事業を始めると必ず使われる動詞が「立ち上げる」です。私はこの表現方法に強い違和感を感じます。定食のお膳にあるご飯が右側に置かれているような不自然さがあります。その理由は、元の動詞「立ち上がる」が自動詞であったのが、いつの間にか目的語を伴う他動詞化されたことによります。前述の「眠る」も目的語を取らない自動詞です。 質問です。 ① 日本語ではどういう場合に自動詞を使う傾向があるでしょう。 ② 他動詞ではなく自動詞で物事を表現するとどんな違いが生まれるでしょう。 「もらう」や「あげる」も聞き苦しい例が多い動詞です。感動などという大切な心の動きを即物的に表現することへの抵抗感があります。それらの尊敬語や謙譲語も今や大混乱時代です。車内や店内放送の「本日もご利用いただき~」は当たり前の表現です。 感性を豊かに言葉や文章に接していくことが、自分の言語や文化を豊かにしていくことにつながると思います。そこから何かを感じる感覚を持ち続けたいと思います。週末に読んだ文章に「こしらえる」という動詞がありました。久しぶりだなあという感慨と同時に、日本で公立小学校の教師をしていた頃、校門の前にあった寿司屋の女将さんの口癖を思い出しました。学校の良き支援者であると同時に率直な「意見」を述べる旦那の店へ大勢で入って行くと、女将さんが裏から「今何かこしらえますからね」と言って煮物やらを運んできてくれました。寿司が苦手な私にはそういう料理が並ぶとうれしく感じました。 そんなことを思い出しているうちに、さらに下って子どもの頃のことも蘇ってきました。友だちを遊びに誘うときは玄関先で「遊びましょ」と歌うように呼びかけていました。相手の都合が悪いと「あーとーで」と返ってきます。そして、お使いを頼まれて店に行くと、店先で「くださいな」と抑揚をつけて言ったものです。 子どもたちのそういう習慣はいつ頃消えてしまったのでしょう。 Technologyが教育の分野に盛んに取り入れられるようになった十年ほど前、英語圏の国々から発信される教育に関係する専門書、論文、記事や発言には ubiquitous, leverage, intuitive, exponential などの言葉が溢れました。
英語にもある時期に特有の言葉が頻繁に使われることがありますが、特定の領域と読者に限られる傾向があります。日本語の場合は万人に共通し、誤用や不適切な使い方であることが多いと思います。そして言葉(単語)よりも会話の文末表現にその例を見ます。 90年代から婉曲表現が増えました。当時聞くたびに違和感を持った文末表現は「~じゃないですか。」です。敬語を用いるのと同じような効果を感じながら話し手は使っているのでしょうが、押し付けがましい印象を受けました。一般的な日本人の婉曲表現はさらに悪化しています。例えば「~かな」を聞かない会話は稀です。公共放送にあらわれる公人のinterviewでさえ「~かな」は溢れています。 質問です。 ① 言葉や表現方法を意識することの意味や利点は何でしょうか。 ② 豊かな言語生活をおくるためには言語の使い手としてどんな能力が必要でしょうか。 断定表現を避けようとするあまり、「です」の替わりに「~になります」も濫用されています。「春になる」のように自然にその状態になる場合に使われるべきですが、注文した料理を運んできた人は躊躇なく「~になります」を使います。他にも文末に無理矢理添えられる「~みたいな」、相槌を打つ時には「そうなんですね」など、対象となる物や話者の実像が完全にぼやけています。 大岡信さんは現代日本語で日常的に使われている語彙数が極めて少ないことについて次のように述べています。「現代人が繊細な感覚を失ったわけではないと思います。ありきたりの「美しい」という言葉でいってしまいたくないような感覚があって、それに代わるべき言葉をその人その人が探しているという場合もあるのではないでしょうか。(中略) ただここで強調しておきたいのは、日常生活の挙措動作、また社会生活において、繊細な気づかいや言葉づかいを持たない人が、それでもなお繊細な感覚を十分持っているとは言えまいということです。(『日本語相談』1990年) あれほど耳障りな「~かな」も看護士さんが患者さんに、学校の先生が子どもに話しかける時に使われているのを耳にすると、何か思いやりの深い優しい心遣いがこちらにまで伝わって来ることがあります。しかしながら、同じ人が第三者の私に同じような婉曲表現でものを伝える時には、専門性や意志の低い頼り甲斐のない人物だと感じられてしまうのは避けられない事実です。 知り合いのItalianが奥さんと経営するrestaurantで食事をするときには、menuにはありませんが 3-course dinnerを頼んでおきます。そうすると彼の創造力や創作力が十分に発揮されて、すばらしい料理が運ばれてきます。そして料理に合うwineも提案してきます。数日前から旬の食材や市場で何が手に入るか調べて料理を決めてくれますが、たいていの場合、彼の創作意欲は広がり続けて3品では収まらず5-course dinnerになってしまいます。
彼にとってはmenuに載っている料理は、標準的でありすぎて新しいものを創り出そうとする発想を産み出さないのかもしれません。お客もまた一般的なItalia料理を思い描いていて、それを期待しているのでしょう。 教室という限られた環境の中で、教科書や指導計画という学習の道筋や内容が規定されている環境では、生徒たちが伸び伸びと想像力と創造力を広げて学習活動を進めていくことは難しいように思われます。しかしながら、批判的・構造的思考活動Critical thinkingや創造的な思考活動Creative thinkingを学習活動の中核におくことを阻んでいるものは、決められた内容を伝達し(教師主導の授業)、期待通りに再生産させる(暗記に基づく評価)ことが職務だと信じている教師の教育観ではないでしょうか。 質問です。 ① なぜ人間にとって創造的であることが必要なのでしょうか。 ② 批判的・構造的思考の正反対にあるものは何でしょう。 1860年以降のParisで興った印象派の絵画には日常の瞬間をとらえた感覚的な美しさがあります。印象派が現れるきっかけとなったものが当時開発された錫製のtubeにはいった絵の具です。画家たちはこれを持って外にとびだし戸外制作en plein airが可能になりました。既成の枠や制限を取り除けば、豊かな想像力をもとに創造的(思考)活動が可能になることの例でしょう。 Technologyはまさに持ち運びが可能になった絵の具のように、創造的活動に無限の可能性を示してくれました。Podcastやslide show、生徒たちの記録映像、多面的な機能を持つ学習資料、生徒たちを中心とした深い相互学習活動、的確な形成的評価など、意志さえあれば何でもできます。学校には既に相当数のICT機器があります。教師の机の上にはlaptopが載っています。そして生徒たちの鞄の中にはsmartphoneがあるはずです。 絵の具を持って外に出なかった画家たち、ICT機器を最大限活用していない教師たち、どちらも共通しているのは「行動力」のような気がします。 Ideas 52でEmotional Intelligence (EI・EQ)についてふれました。対象となる能力・知性は自己認識、自己管理、共感・同情、人間関係の4領域に渡ります。人間どうしの関わり方が希薄になり、誰もが言いたいことを自由に表現するような世の中になると、大人といえどもそれらの能力・知性が未発達である場合が多くなるように感じます。一方子どもたちには、日常生活に急速に浸透しているTechnologyの存在も反作用をもたらしているだろうと感ぜずにはいられません。
そういうことをぼんやりと考えているときに、最近様々な大学で導入した講座についての記事を目にしました。ひとつはTechnologyに関わる倫理、もうひとつは人間の幸福についての講座です。知識というよりは生活力として、意図的かつ構造的に指導する必要性を最高学府が判断したという事実が現代の社会や人間生活の危うさを象徴しているとも読み取ることができるでしょう。 学校で生徒たちや保護者と関わる中で、教職員と仕事をする中で、EQに課題があると直感することがあります。一昔前だったら「常識がない」などという表現で片付けていた物事でしょう。今週唐突な要求を突きつけてきた母親とmailや電話でやり取りをしました。この人は明らかにそのEQの能力に問題がある例です。残念なことに隣の市で教師をしています。 質問です。 ① 子どもたちにEQの4領域を公平に的確に育てるには、どのような仕組みが必要でしょうか。 ② 教育活動として最も近い位置にある「道徳」はEQの4領域を育むための役割を全うしているでしょうか。 生徒たちが見せる様々な問題行動に対して対症療法的な応急処置をとるのではなく、成長過程にいるすべての生徒たちがEQの能力を身に付けることを目的とした系統的な学習活動や体験の場を用意することが大切だと思います。Kolbe Collegeでは週4時間ある宗教を中核として、奉仕活動、縦割りのホームルームなどがその役割を担っています。 毎日必ず出張や体調不良で欠勤している教員に代わってclassを受け持ちます。昨日は8年生の理科でした。4人1組のgroupで弾性についての実験をして結果をまとめるという学習活動です。一つのgroupは初っ端から女の子2人と男の子2人が言い争いをしていて、実験が進みません。例えば、誰のiPadを使ってボールの弾む様子を撮るかということについて折り合いがつかないのです。このgroupは、けれども、言い争いを続けながらも誰も諦めずに何とか実験を終え、終了の10分前ぐらいから結果をまとめはじめました。私の仲介を得ずに、自分たちで口論の一山一山を越えて課題をやり遂げたことはすばらしいことです。理科よりもEQの力をつけるための良い体験学習だったと思いました。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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