Challenge Based Learning (課題解決型学習)の紹介と導入を目的としたworkshopで都内の高校2年生と時間を共にしました。まず5学級に共通の入口話題を提供しました。a 私たちって時間 poor?b 自分に自信ある?c 環境にいいことしてる? d カラダにいいことしてる? e ヨノナカとつながってる? 4人一組になって、これらの話題から話し合いを始めますが、課題を導く可能性の高いつぶやきが出てくるとしめたものです。「その意見はスイッチが入りそうだなあ」などと声をかけてあげます。それをきっかけに関連する意見が続き、グループ全員の課題意識のスイッチがパチっと入る発言が出てきます。そうすると解決するべき課題を一文でまとめることができます。
それぞれが挙げた課題は現実的で必然性の高いものばかりです。のっぴきならない問題を高校生も抱えていことを痛感しました。とりわけ目を引いたのは「私たちって時間 poor?」から課題を導き出したグループの切実な時間欠の現状です。電車酔いのため電車内で勉強できない、自分のプライベートな時間がとれない、教科の先生によって勉強のモチベーションが変わる、授業の仕方が自分と合っていない、使用する教材をそれぞれに合うものにしたい、学校を20時まで開放してほしい、昼休みを長くしてほしい (やらなくてはならないことが多すぎて) 昼食を食べられない、他人の心配をしすぎて自分自身のことを考えられない。 質問です ① 子どもたちに胸の奥にしまっている正直な意見や洞察を表現する機会や方法を与えたら、学校はどのように変わるでしょう。 ② 教師が子どもたちの声を正面から受け止めて、対等の立場で話し合うことを始めたら、子どもと教師の関係はどのように変わるでしょう。 このグループに「先生によってモチベーションが変わる」ということについて少し掘り下げてみることを提案しました。他のグループを一巡して再び戻ってくると、学習への動機が上がる具体例の一覧ができつつあります。そこには特別なことではなく、極めて基本的・基礎的で人間性のあふれる教師の姿が記述されていました。 解説しながら板書する、関係のある小話を挟む、ハキハキしゃべる、生徒に質問を投げる、無駄な情報がある、授業のまとめをする、生徒の話を拾ってくれる、板書を万人が読める字で、問題の本質から説明している、一人ひとりを見ている、生徒の視線と向き合える、名前と顔を覚える。 約2時間のworkshopはこれで終わりです。この高校2年生たちが提起した現状や問題点を今後どう扱うか、それはわかりません。しかしながら、先生方には表現されないで埋れている生徒たちの声を聞きとる感性と謙虚さを持ってほしいと感じました。
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日本の多くの学校や先生方は学習は一人でするものという学習観を持たれているように感じます。従って、子どもたちの学習を評価する場合の観点は、各自が既習事項を覚えているかいないかの証拠をつかむことだけに執着しているように感じます。
小学校3年生の算数の教室です。この時間はテストなので、まず机の移動から始まります。学級の半分は校庭側、あとの半分は廊下側に向きました。左右の机とは等間隔の距離を確保して、テストが配られました。机の上にあるものは鉛筆と消しゴムだけです。 質問です ① このようなテストのための「準備」の強要は子どもたちに何を伝えているでしょうか。 ② もし、教科書やノート使用可のテストだったら、周りの人と相談可のテストだったら、数人でやり遂げるテストだったら、子どもたちにどのような機会を与え、どのような能力を測ることができるでしょうか。 先生が提示する課題や教科書にある問題を解くことは一人でやるのが当たり前の教室です。子どもたちは無言のまま機械的に作業に打ち込みます。画一的な一斉作業の効率を上げるために、子どもたちの机は縦横きちんと列をなし、正面の黒板を向いています。 4つの机を合わせて班で学習している教室が時々ありますが、一人ひとりが個別の作業をしているので班にする意味はないようです。「班で…をする」ではく、「班(員)と…をする」にしてみれば子どもたちの声で満ちた内容の濃い学習になるでしょう。中学3年生の社会科の教室です。ここではJigsaw法を使って資料の読み込みをしていました。先生にうかがうと、初めての試みだそうです。子どもたちの間にも不慣れな印象を受けましたが、続けていくうちに話し合いを重視するこの方法の特長が活かされてくると思いました。 別の中学校の2年生社会科の教室です。学習の終わりに先生が「自己評価カード」を記入するように指示しました。記述式の「わかったこと」、A, B, C を選択する「自己評価 」、2行以上という基準が示された「総合評価」という項目です。さらに、先生が決められたと思われる学級目標「学級の最低点を50点にする」がカードの一番上にあります。それを目にしていくつかの疑問が浮かびました。① 学習も評価も学習集団として機能していない学級が全体の到達目標を立てる意味は何か。② 子どもたちに向けた「最低点」は、教師である自分の職責ではないか。③ 50点という数字の根拠は何か。④ 足切り点に到達しない可能性のある子どもたちのことを配慮したか。⑤ 自分のことを言われていると感じている子どもが既にいることを察したか。⑥ この目標が子どもたちにどのような意識や影響を生むか考察したか。⑦ 社会科の教科としての学習目標とは無関係の目標に必然性はあるのか。紙幅が尽きたので、このあたりで止めます。 |
Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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