OECD Scenarios for the Future of Schoolingは「未来像の仮説であり予想や推奨を含んでいない」と前置きがあります。
“Scenarios are fictional sets of alternative futures. They do not contain predictions or recommendations.” けれどもここにあがっている4つの未来の学校像を観ると、かなりの確率でその方向に動くだろうという可能性を感じます。たとえば、1の学校像は学校教育の構造と過程は変わらないという点でおそらく日本(の教育行政)が継続させる方向性でしょう。一方で、国際的な協働や個別的な学びがひろがるという点では、学校教育の目的の幅が狭い傾向の日本では、体系的な実践を実現するのは容易なことではないと予想がたちます。2の学校像は、日本では教育産業が新たな市場開発と公教育に対抗して優位な立場を獲得するために展開するbusiness modelのように感じます。 質問です。 ① OECDが描く未来像は今後20年間の幅を想定しています。20年前の日本の学校と現在の学校の仕組み、目的、機能、教育内容・方法を比較するとどのような進歩や発展があったでしょうか。 ② 現在の学校で子どもたちがかかわる学習活動の中に、本当に学ぶ価値のある内容として共感できる知識、能力、資質は何でしょうか。 ③ 未来の学校では、学ぶ価値のある内容として取り上げられるものは現在の学校で扱っている内容とは異なるでしょうか。 3の未来の学校像のprototypeは世界の各地の学校にあらわれています。今でも強烈な印象と共に思い出すのはDenmarkの小さな港町にある中等教育学校です。入口から入るとすぐに地域の人々も集うカフェテリアがあります。在校生は10代の若者から70代の年配の方まで多種多様な「学生」で構成されています。 Australiaの大学は生涯学習の場としての機能を持っているので、社会人が多く学んでいます。そのためにキャンパスの様子も日本の大学で見るような同一年代の学生が集まる光景とはまったく異なっています。 4の学校像はOnlineで学ぶ機会を提供している大学やLearning platformですでに展開されています。The Open University、Cousera、edX、Udemy、Udacityなどでは世界中から受講生を集め、入門コースから大学院レベルまで受講できます。それらは日本の大学の通信教育課程にはない柔軟性と多様性を備えています。 未来の学校の姿を想像すると一種の期待と興奮が込みあがってきますが、日本の社会にはまだ「教育先進国」の水準に達していない未成熟さを感じることも事実です。
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私たちは、この現在から同一線上に未来があると認識している場合が多いような気がします。新学年の準備や話し合いをしていく中で、今年度の内容や方法を継続するという判断に至る場合も現在(今年度)と未来(来年度)はつながっているという意識が根底にあるように思います。
継続は力という表現があらわすように続けることで安定が生まれ確実な成果につながりますが、一方で、潜在的な課題に気づかずに、解決せずに、あるいはさらに良いものを追求するという意識を持たずに現状を安易に維持する可能性も高いことに気づく必要があります。 昨年のWorld Economic ForumのAgendaにAndreas Schleicherがあげていた問いかけの一部から選んだ質問です。 ① How do we reconcile new goals with old structures? 新しい目標と古い構造をどう調和させるか。 ② How do we support globally minded and locally rooted students and teachers? 世界的な視野を持ち、地域に根ざした生徒や先生をどのように支援するか。 ③ How do we foster innovation while recognising the socially highly conservative nature of education? 教育のあり方が社会的にかなり保守的であることを認識しつつ、どのようにして革新を生み出すか。 ④ How do we leverage new potential with existing capacity? 既存の能力で新しい可能性をどう導き出すか。 ⑤ In the case of disagreement, whose voice counts? 意見が対立した場合、誰の声が重要か。 どれもがこの一年間に直面し解決策を模索し続けた課題ですが、教育に何らかの革新を生み出そうとすると、その営みは構造上や社会的な矛盾の上で展開しなければならないことに気がつきます。 学校現場ではとりわけ③の質問にあるように、人々の思考や行動形態が保守的であると同時に振り返りの習慣が弱いので新しいことを始めることがむずかしい現実があります。たとえば、目的や意味、価値が不明確であったり、明らかに時代の枠組みから外れた学習活動を繰り返しやらせている例を目にします。 ある日の放課後図書館である課題に取り組んでいるグループが2、3ありました。一見すると皆が集中して努力している理想的な学習風景ですが、そのうちの一人に声をかけると、一言「作業です。」 来週はOECDが仮説としてあげている未来の学校のシナリオと、学校では何が本当に学ぶ価値のあるものなのかについて考えてみたいと思います。 “What if we were obsessively learner focused in schools? We can easily focus on test scores, curriculum, programs, or even technology, but when we stay focused on the learners, all of these tools and measurements become secondary—part of what we do but not why we do it. We can have the latest technology or the best curriculum, but if we are not obsessed with who learners are, how to best serve them, and how to partner with them to move forward, we can fail to make the impact that we desire and are working so hard to achieve.” Katie Martin (2017) Learner-Centered Innovation
「もし、学校で学習者に徹底的にこだわるとしたらどうでしょう。テストの点数、カリキュラム、プログラム、そしてテクノロジーにさえも焦点を当てることは簡単ですが、学習者に焦点を当てれば、これらの道具や測定はすべて二の次になります。私たちの仕事の一部ですが、なぜするかということではありません。最新のテクノロジーや最高のカリキュラムを導入しても、学習者とは誰か、学習者にどのように貢献するか、学習者とどのように協力して前進するかということにこだわらなければ、私たちが願い、実現に向けて懸命に努力しているインパクトを与えることはできません。」 子どもたちのために、子どもたちを第一にという表現に触れることは珍しいことではありません。けれども、教師が仕事の究極的な目的、意味、対象を見失っていることに気がつくことはないでしょうか。 質問です。
欠席している子どもが今どこで何をしているか、安全な環境にいるのかをまず本人や家族にたずねるでしょう。そして学校に来られない理由を探り始めます。この時に質問が向く方向はどちらでしょうか。 校内外での人間関係や出来事についての質問はその子どもに向けられますが、それ以外の多くの質問は教師である自分に向くだろうと思います。五感を通して何かしらの兆候をいつも感じ取っていただろうか、信頼関係を築いただろうか、考えていることや感じていることを聞く時間を持っただろうか、困っていることや直面している課題があるかどうか確認しただろうか、そしてそのための十分な支援をしただろうか。 学習者が中心にいるということは、その周りにいる教師の守備範囲が広いということに他なりません。 |
Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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