先週の金曜日はOpen Dayでした。小雨が降る中、私たちの学校に入学を希望する保護者や子どもたちがやってきました。
2021年度の新入生枠220+は既に埋まっています。22年度も埋まっているので、入学を希望される方々には長い空き待ち名簿に入ってもらうことになります。試験ではなく面接を通して入学が決まるので、220名を越える子どもたちや彼らの保護者は学校にとっては数ではなくそれぞれの顔や感情、得意不得意を持った個人です。一方の名簿の各人にもそれぞれの理由や希望が明確に記されています。 質問です。
"The death of one man is a tragedy. The death of a million is a statistic." は1953年までSovietの最高指導者だったStalinが言ったとされていますが、真偽のほどは別にして、私たちの数に対する感覚を的確に表現しているように思います。ひとりの知人の死に悼みいることと同じ程度の感情を紛争地や被災地での被害者や彼らの家族に向けることがあるでしょうか。 毎日私たちは世界中から発信されるCOVID-19の感染者数に触れています。これらの数値の中から人々の感情や事情、社会の可能性や危険性を感じ取ることはできるでしょうか。組織や国を運営する人々には、そのような具体的なものを拾いあげる感性と適切な措置を迅速に用意する判断力と行動力があるでしょうか。 "The moment we are able to make tangible that which had previously been a study or a chart, the moment a statistic or a poll becomes a real living person, the moment abstract concepts are understood to have human consequences, is the moment our ability to solve problems and innovate becomes remarkable." Simon Sinek (2017) Leaders Eat Last 「それまでは研究論文や数値表だったものから具体的な明確なものを見つけ出した瞬間が、(中略)私たちの問題を解決し新境地を切りひらく能力が発揮される瞬間になります。」 具体的なものを見つけ出す鍵となるものは一般の人々への共感のように思います。
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今月の初めにWhy Be Happy?という新刊が出ました。著者は臨床心理学者で作家のScott Haasという人で副題はThe Japanese Way of Acceptanceです。
様々な出来事や日常を容認することUkeireruが幸福への鍵と説いています。たとえば日常生活の中の沈黙や物事を観察する場合もUkeireruことと解説にあります。英語的に発音すると日本語の「う」にはなりにくいUから始まる言葉をあえて選んでいます。 質問です。
先日の九州豪雨で被害を受けた男性が、苦笑ではない穏やかな笑みで状況を話されている様子がこちらでも報道されました。そして、阪神淡路や東日本の大震災後には海外の多くの記者が日本人の「穏やかさ」を取りあげていたことを思い出します。 The sense of vulnerability has bred a stoicism that can be seen in the streets of Kobe today. "Shikata Ga Nai," the Japanese say, "that's just the way it is; it can't be helped." Natural disasters may just be a matter of "unmei" - fate - a word that, when it is written, is composed of the characters for movement and for life. (The New York Times, 1995年1月22日) 日本の社会で育ち仕事もしさらに外から観ると、人々の持つ柔軟性や忍耐の幅は相当広いと感じます。風土や文化がそのような芯の強さを醸し出したことは確かですが、社会が無意識のうちにその幅や程度を要求している場合もあるように感じます。子どもたちの通学を例にあげると、1年生から自分の責任と周囲の期待をしっかりと「受け入れ」ています。先生方が自主的に「受け入れ」られている献身的な勤務実態について言えばもはや海外の比ではありません。 日本の社会や組織の中で決定権を持つ者、指導的立場にいる者は、人々が様々な物事を受け入れることを当然のことと期待しないこと、適切で平等な措置や方策を用意すること。一方人々は物事を容認する前に事実や道理と照らし合わせること、そして不明確な点は質問をする習慣を持つことで日本社会の持つ強さの相乗効果が増すのだろうと考えます。 World Happiness Report (2016-2018)では日本は58番目でした。感覚的な解釈ではなく本当に人々が幸せだと感じなければ意味がありません。 教師になりたての頃に読んだ評論の中に、日本全国どの家庭でも即席で作った同じ味のカレーを食べているのはおぞましいことだという指摘がありました。教育の画一化の問題が盛んに議論されていた時期でもあり、社会が認める価値観や人々の嗜好までもが知らないうちに画一化されているのだなあと漠然と感じたことを覚えています。
これは効率化と標準化を第一の目標とする工業型社会が浸透することの実例でしょう。画一化という点で観ると、豊かさ、美しさ、幸せ、成功というような抽象的な価値観は虚像が実像として共通認識される社会になりつつあるように感じます。現状はさらに悪化していると言えるかもしれません。 料理家の土井善晴さんは正反対の価値観をお持ちです。「ポテトサラダを混ぜないことを、「触らんでよろし」と言うてるのです。お店は、均一なものを作らないと叱られます。こっちにきゅうりが多い、ハムが少ないではあきませんからね。そういう商品文化が家庭にも入ってきているのです。そもそもレシピというのも、均一な、同じものを作るためにあるんです。でも、同じものを作ることに、本当は価値はありません。手作りの魅力は別のところにあります。民芸のものもそうですし、本当にいいものを作るために、「均一で同じ」であることは必要じゃないし、全く重要じゃない。家庭料理はばらつきがあってよいのです。」(暮しの手帖 2017年) 質問です。
土井さんは純粋に料理家の視点で語られていますが、その内容には普遍性があります。「味つけについてですが、まず私は基本何もせんほうがええと、どっかで思ってるんですよ。」という部分はRousseauの自然主義に共通しています。「結局、わたしたちの味覚は単純であればあるほどいっそう普遍的なのだ。(中略)子どもにはできるだけその最初の好みをもちつづけさせるがいい。食物はありふれた単純なものにし、口をあっさりした味だけになれさせるように、そして好き嫌いが生じないようにすることだ。」(Emile 1762) NETFLIXのChef’s Tableというdocumentary seriesには創作に一種の哲学を持つ料理人が出てきます。その中で異彩を放っているのがGrant Achatzというchefです。彼が最初に持つ発想が常識の枠を越えています。彼のように食材(学習内容)を調理してお客様(子どもたち)に出したら、食事をする(学習をする)ことがまったく別の次元の体験になるだろうと思います。 混ぜないポテトサラダを作ってみました。おすすめです。 Google Meetで日本の若手の先生方と近況を話し合いました。その中でひとりの先生がCurriculumの書き換え作業を始められることを話されていました。大がかりな仕事ですが、学ぶこと教えることのWhatを定義する中核的な領域です。
一般的に私たちはHowどう教えるかということが教師としての仕事の準備のように受けとめてしまいます。教育実習ではそのように教えられ、新任の数年は教科書と教科書会社が用意した指導計画と指導案を拾い読みしてその場を凌ぐ技術を身につけます。中堅になると自分自身の型が定まり職人芸の域に達します。そして自負を得ますが、それだけでは専門性の成長はそこまでとなってしまうでしょう。 学習内容は、決して聖域ではありません。子どもたちの学習に直接かかわる者として精選したり強弱、軽重をつけることは必要な仕事でしょう。子どもたちが何を学ぶのかということWhatについて考えを練り議論を重ねる過程は、Howどう教えるかについて時間をかけることと同様に大切なことです。そしてもうひとつ、Whyなぜ学ぶのか教えるのかについての究極的な思考と議論が加わって三位一体を成します。 質問です。
なぜ、何を、どうやっての三つの問いは世の中のすべてに当てはまる基本的な思考段階だと思います。 Organisations that change both the world around them and the world within them in significant and positive ways don't start the conversation with what. Rather, they always start with why. Why do we exist? Why do we matter? Why should we change? Why would people care to follow us? Why do we keep getting up to come to work in the morning? (Simon Sinek 2009) 世の中や組織内を決定的にしかも肯定的に変える集団は「何」から会話を始めません。常に「なぜ」から始めます。 学校教育目標や教育方針が本当に21世紀の社会の方向性と合致しているかどうか、全教育活動がそれらと同一線上にあるかどうか精査することが、組織内のWhyの機能を審査する最初の方法だと思います。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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