先生方と話していた時に、偶然話題がDialogueにすすみました。その語源は何だろうという単純な疑問が持ち上がりました。そのことが頭の片隅にあったので帰宅後に調べてみると、dia ‘through’ + logos ‘word’ というラテン語の語源が元になっていることがわかりました。そしてこの語源通りに、自分自身が言葉を通して考えたり表現したりすることをどれほど大切にしているかを振り返るきっかけになりました。
前回はmicro-aggressions (微小攻撃)について考えてみましたが、自身の意識の中にある偏見に気がつくという内省的な行為が大切であることが明らかになりました。日常的な行為として私たちはdialogue (対話)をしているでしょうか。 質問です。 ① 私たちの生活の中にdialogueを通してより良いものを創りあげる習慣やシステムが健全に働いているでしょうか。もし機能していないとすると、その理由は何でしょうか。 ② Monologue (独白、一人芝居)が独り歩きを始めてしまい、dialogueの成立を抑えている場面や実例を感じる場面はないでしょうか。 Debateの根本的なルールは、自分の主張を突き通して相手の主張や議論を崩すことにあります。今の私たちにそのような攻撃性が必要かどうか。正解がひとつではなく、どの選択肢も正解になり得る可能性がたくさんあることに気がつくと、ひとつの主張を推し進めることにほとんど価値がないことに気がつきます。それほどにOpen-endedな課題があふれているということは、社会に存在する課題が複雑化したこと、社会の多様性の度合いが進んだからかもしれません。 対話が成立しない理由、MonologueやDebateになってしまう理由を、最近考えています。今日は、ここ数週間の命題について考えていると奇しくもまったく異なる文献に心理学者Daniel Kahnemanの引用を見つけました。 “Overconfidence arises because people are often blind to their own blindness, sincerely believe they have expertise, act as experts and look like experts.” 「自信過剰が生じるのは、人は往々にして自分の盲点に気づかず、自分には専門知識があると心から信じ、専門家として振る舞い、専門家のように自分を見るからです。」 私たちが職業としての仕事に従事する中で、自分の経験や学びが限られたものであることを認識できるかどうか、その謙虚さを身につけることはむずかしいことです。さらにそれを他者に気づかせることはとてつもなくむずかしい技です。
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Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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