15年ぐらい前の『暮しの手帖』に、ある人の紀行文のような記事がありました。そこで紹介されていた場所は、私たちが生活をし仕事をしているAustralia, Rockinghamでした。とりわけ目を引いたのは、市内の海岸のほとんどはプライベートビーチになっていて自由に泳ぐことはできないという記述でした。実際は、南北に約42km伸びる海岸線はどこでも泳ぐことができます。
この週末に流し読みをした朝日新聞のdigital版に Poland, Kraków の旅行案内がありました。第二次世界大戦で戦闘の影響をうけなかったので、古い建築物が残り世界遺産に登録されているという説明と市内の名所を紹介しています。中世から発展したこの美しい街を語る際に、ここに住んでいたJewishが最初にAuschwitz強制収容所に送られたこと、Oskar Schindlerという実業家が自分の工場でJewishを雇って助けたという歴史的事実を抜きには描写できないという感情がこみあげてきます。 これらは書き手の調査不足や思い込み、意図的な内容の取捨選択の例ですが、私たちが目にし耳にする情報には常にそれらの危険性、不完全性があるということを思い起こさせます。 情報通信機器を使ってsearch engineで瞬時に知りたいことを調べる、旧媒体(本や新聞、テレビなど)から情報を得る、どちらのresearchの場合でも得られるものは他者の思想、価値観、視点、環境に影響を受けた二次的な情報 (Secondary information) です。私は学校でのSecondary informationの収集を主としたresearch活動に疑問を感じています。とりわけ小中高生の学習活動の中では、一次的な情報 (Primary information) を自分たちで収集する作業をさせ、そこから得られた情報や数値を分析するという活動に時間をかけることの方がより深く主体的な学習活動になるように思います。全国を足で歩いた民俗学者の宮本常一さんは「私の方法はまず目的の村へ行くと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。」ことを貫きました。 質問です。 ① Research活動の際に、情報の収集の科学的、合理的な方法を指導しているか。 ② 情報の信憑性を調べる方法や異なる情報源からの資料の比較の方法を指導しているか。 ③ 自分の目で確かめる、聞き込みをするなどの一次的情報を集める作業をさせているか。 今週は9年生のChallenge Based Learningのいくつかのgroupが自分たちの目と耳と口と足で色々なことを調べています。
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試してみたい Café restaurant があるから行ってみようという息子の誘いにのって、日曜日にのぞいてみました。白と水色が基調のさわやかな店の窓際のtableで、渡されたmenuに珍しい英語を見つけました。
Sushi、teriyaki などはすでに堂々と英語の顔をしています。Panko も最近仲間入りをはたしました。Menu にあったのは“edamame”でした。ある料理の説明で edamame をあしらって盛り付けをしているというものでした。日本食人気もここまで来たかと感じながら、しばらく考えを巡らしました。 このmenuを書いた人、おそらく料理長か支配人は、 ① 日本人客や日本に長期間住んだことのある客、相当日本食に精通している客以外はedamameが何であるかは知らないという事実を認識している。 ② 店の料理の独創性や創造性を示すために意図的に大衆が未知の言葉を使用した。 ③ edamameという言葉をmenuに見つけた客の反応を予測している。(反応1:店員に意味を尋ねる、反応2:Googleなどで自分で調べる、反応3:とりわけ気にしない。) Café restaurantのmenuでの出来事ですが、ひるがえって「教える」とか「学ぶ」ことの本質的な意味を含蓄しているように感じました。詳しく説明しないことは一見傲慢な振る舞いとも受けとめられますが、果たしてそうでしょうか。人間の思考力や感覚・感性は、丁寧な説明がないことで鍛えられ研ぎすまされるのではないか、という仮説が頭の中で盛りあがってきます。さらに、情報通信機器が常に身の回りにある私たちの生活環境では、「調べる」作業は誰かに尋ねることよりも速くて正確でしょう。必要性が高いもの、興味・関心が高いものを自分の意志で知ろうとすることを「主体的な学習」と呼んでも良いように思います。 教師としての日常の行動を考察してみましょう。 ① 「教える」行為が「教え込み」や「答えをあたえること」になっていないか。 ② 教師が教えている時の生徒の頭は一体どんな働きをしているのか。 ③ そもそも教師の「教える」行為が必要か。 ④ 教師の行為が生徒たちの「できること」の範囲を狭めていないか。 ⑤ 教師主導の「教える」行為に取って代わるべき学習者中心の知的作業は何か。 料理が運ばれてきました。白いお皿の上に散りばめられた一粒ごとのedamameの鮮やかな緑と艶やかさは、sauceの色にも沈まずに存在感を出しています。edamameの斬新な使い方です。さっぱりとした味も新感覚でした。 Kolbe Collegeでは10月18日が卒業式です。大学進学を希望する生徒たちはその2週間後に大学入学試験が始まります。卒業式は午後7時からですが、日中はいろいろな集会や準備があります。その中で一番大切な集会は6年間過ごした Pastoral Care Group (PC 、縦割りのホームルーム)でのお別れ会です。7年生から11年生がお金を出し合って、卒業記念のプレゼントやカードを用意し、スピーチとともに渡します。卒業生の方でも後輩へお礼のスピーチとプレゼントを渡します。卒業式よりも家庭的で個人的な集いで、生徒たちも思わず涙をこぼしてしまう瞬間です。
今週の水曜日の放課後にPC の10年生とプレゼントを買いに行くことになっていました。一人当たり5ドル持ってきてもらうことになっていましたが、手元にあるのは100ドルに届きません。今年は12年生は6人いるので、かなり厳しい予算です。学校を出る前に何が適当か再度話し合って、スクールバスに乗って出発しました。 この活動の中でたくさんの発見がありました。
12年生の2名の女子にはシクラメンの鉢、4名の男子には笹の鉢、それぞれの鉢の受け皿を買った後で、約束のアイスクリーム屋に向かいました。好きなものを買っていいよとお金を渡すと、一目散に店内に入って行きました。しばらくして、一番安いフローズンコークを手に笑顔で出てきました。 私たちは生徒と学習活動や教科外活動、休み時間や放課後に毎日関わります。一人ひとりの生徒についてある程度の知識と情報を得ますが、それでも知らない部分の方が多いと認識した方が良いようです。一般的な教科の成績では他の10年生はかなり高いのですが、この日の作業ではBSが判断力、選別力、決定力、実行力などで抜群の能力を発揮しました。 それらの能力に加えて、協働力、発表・発言力、情報収集力、創造力、構造的・批判的思考力は教科の学習内容(curriculum)と同等の重要性があることは周知の事実です。21世紀の社会の構成員を育てる学校で勤務する教師として、それらの能力を特化して育む課程と評価する仕組みを整える責任を感じた午後でした。 第四回研究講座では一般的に使われる「学力」という言葉について話し合いました。明らかになったことは、「学力」の定義が曖昧であることです。教育行政に携わる人々、学校関係者、教育産業に関わる人々、保護者、子どもたちが使う「学力」という言葉は単に「国語と算数・数学」の力を表すように取れる節がままあります。文科省が実施する「全国学力調査」はその典型的な例です。狭義の「学力」の定義と安易な使用は OECD が3年ごとに実施している PISA (Programme for International Student Assessment) の和訳「国際学力調査」にもあらわれます。原文には「学力」にあたる言葉はありません。
欧米豪では学習を可能にする基礎的能力を Literacy and Numeracy と表現します。豪政府が毎年実施するテストも NAPLAN (National Assessment Program - Literacy and Numeracy) と呼ばれ、教科の「国語と算数・数学」とは一線を画しています。実際にMaths と Numeracy はどこが違うのでしょうか。 National Numeracy (2013)には、簡潔に違いが 述べられています。 Numeracy can be seen as the ability to use maths in real life, for example; problem solving, following a recipe or reading a bus time table. Maths can be seen as equations that we can use beyond numeracy and everyday things such as; calculus, quadratic equations and statistical analysis. 学習した算数・数学的な知識と技能を実生活の中で使う能力を Numeracy と呼び、学習指導要領にある「算数的活動」と同意とみて良さそうです。一方の Maths はより抽象化された事象を扱い絶対的な正解を求める学習活動をさしています。 考察の視点を挙げます。 ① 「学力」という言葉の安易な使用、とりわけ狭義の定義は、どんな潜在的な問題があるのか。② 「Literacy and Numeracy」にあたるような日本語の言葉は何か。 ③ 「学力」という漠然とした表現ではなく、人間の能力を広くとらえるより適切な表現は何か。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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