大阪の中央であった午前と午後の会議に出席して学校にもどる途中、公園を通り抜けました。
広々とした草の上を歓声をあげて鬼ごっこをしている子どもたちの一団がありました。近づくと中学生であることがわかり、さらに近づくと私たちの生徒たちであることがわかりました。 放課後の活動が中止になって、彼らはここでBackpackを放り投げ自由な時間を楽しんでいるのでした。 質問です。
始まる前の名刺交換という儀式に見られた活気とつくられた笑顔とは対照的に、会議が始まると参加者の表情はすぐに色彩を欠き、誰もが好んで参加しているのではないことが明らかです。 私は、このPandemicの中になぜonlineでやらないのか、なぜ紙の資料を配布するのか、一体この集まりの目的は何なのか、なぜ参加者はこの愚行に耐えているのかということを考えていました。 次回は私たちが当番校なのだそうで、引き継ぎ資料が入っているというCDを渡されました。紙ではないということに自慢気でしたが、残念ながら私はCDを読み取る道具をとうの昔に廃棄しています。 私たちの番にはどの程度変えることができるか予測がつきませんが、会議の意味を明確にしたいと考えています。家事をしながら聞いていたpodcastの中に “Unpack nouns into verbs” という習慣について述べている部分がありました。 会議という名詞をその場で行う行動が何であるかを吟味して的確な「動詞」に置き換えることは、目的を明確化する行為であるように思います。そうすれば会議そのものが必要なのかどうかということも明確になるでしょう。 私は今までに参加することが楽しみで、実際に楽しかった会議の経験がたくさんあります。それらは振り返ってみると「共に学ぶ」「共に遊ぶ」集まりだったように思います。
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私が現在勤めている学校にはPTAではなくPA(保護者会)があります。私もその仲間に入っていて、木曜日にonlineの定例会がありました。新役員による第1回の前の0回にもかかわらずたくさんの保護者の方々のaccessがありました。
しきたりのひとつとして伝えられたことは会員はあだ名で呼びあうことでした。そこで、私は小学生の時に呼ばれていて、日本で小学校の教員をしていたときにもそう呼ばれていたものを思い出の引き出しの中から引っ張り出してみなさんにお伝えしました。まさかこのあだ名が復活するとは思いもよらない出来事でした。 質問です。
Deloitteが発表した2021 Global Marketing Trendsの中に ‘Outside-in’ という表現がありました。これは言わば外側にいる消費者の視点を企業活動の内側に取り入れるという意味で、その必然性について述べられていました。その理由として、 “Especially if your business is in an industry addressing one of the many essential needs that have gained importance in the pandemic. That can be your shot at demonstrating the value of purpose to all of your stakeholders.” まさに日本国内でPandemicが手のつけられない状態になっていて、混んだ交通機関を使っての通学に不安を持つ子どもたちや保護者のことを第一義に考えなければならないことはごく当たり前のことです。しかし、実際の学校現場や教育行政はその切実な願いを理解することができない、共感することができない、しようとしない現実もあります。 学校も一企業と同じように、保護者の意見や考えを汲み取ること ‘Outside-in’ を心がけなければならないでしょう。迎合ではなく、純粋に私たちの事業に対する顧客としてのpartnershipの関係を築く必要があるということです。 第0回定例会での「色」についての質問の答えは「黄緑色」でした。30数年間海の近くに住んでいたので、今自分の居場所から見える山がとても新鮮です。とりわけ日々変化するこの季節の色を眺める瞬間はまさに至福のひとときです。 この10日間でペンを持っていた時間は、昨年1年間の総時数よりも多いでしょう。手に取った紙の書類の量も昨年1年間で扱った量をはるかに超えます。日本を出た1988年以来、この国の事務処理の方法や行政手続きは改善されることなく当時のまま継続されていたことを認識しました。
会議の手続きや進め方を観ると、効率や生産性、公正性を上げる意識と努力がなかったのだろうと予想がつきます。 Online化やdigital化が進んだという指摘があるかもしれません。しかし、それらは作業や手続きの本質的な課題の解決としてではなく、枠組みや考え方を保ったまま並行移動しただけのように見えます。課題はそのまま残っています。 このことを学校の教育活動の中でtechnologyが担っている学習内容や方法の革新の度合いを示すSAMR Modelの例で説明すれば “Substitute” (代替) に他なりません。 質問です。
新学期に向けて、多くの先生方が学習活動の質の改善に真剣に向かい合い、より良いものを子どもたちに提供できるように時間と労力をかけています。そしてたくさんの話し合いが発生しています。それらは植物がためていた成長力を春になって発揮する力と同じように感じます。 SAMR Modelを提案したPuentedura教授は “How can I do this better?” という自分自身への問いかけに始まり “A continual re-examination of practice” が必要だと述べています。 学習活動だけでなく、私たちの社会や組織の運営には必要不可欠な習慣だということは誰でも知っていることですが、それを可能にする条件は序列のない水平な組織と個人の裁量を保障することにあると思います。 新入生のorientationが入学式の前々日にありました。保護者は校内に入ることはできないので、入口の外から子どもたちの様子を見られているお母さん方がいました。声をかけると、共通しているのが遠距離通学でした。初めての電車通学で京都や神戸から子どもを通わせるのはさぞ心配なことでしょう。もし自分がその立場だったら、子どもの通学時間中には手を止めて時計を見ながら今頃はどのあたりだろうと想像することが習慣になるだろうと感じました。
On The Way To Schoolというdocumentary filmには世界の各地で子どもたちが「学校」という場所に想像を超える危険や労力をかけて向かっていく様子が映し出されています。 日本でも幼稚園から大学まで通学することは楽なことではありません。例えば、公立小学校で続けられる集団登校も、集合場所に決められた時刻までに集まらなければならないという約束が気にならない子どももいれば、それが不安や苦痛の種になる子どももいるでしょう。 子どもたちが着用している制服や鞄や靴は、教職員は使用したことがないのでそれらの機能性や利便性については何もわかりません。 社会や学校、大人たちが、通う立場の子どもたちや保護者のことをもう少し考えることができたら、通学することも学校生活も体験の質が上がるように思います。 質問です。
前述のorientationの日に2名の7年生が開始時刻になっても学校に来ませんでした。病欠などの理由で欠席なのだろうという仮説を持ち、予定通りのmenuを始めました。私は新入生に2016年Rio Olympicsの女子5000m走の予選での出来事を紹介して「あきらめないこと」「最後まで努力を続けること」を子どもたちと確認しあいました。 まさにその時、2名の7年生は最寄駅から歩いて学校に向かう途中迷子になって彷徨していたのです。7時に家を出た二人が学校にたどり着いたのは10時を過ぎていました。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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