小学生の頃の読書体験は極めて貧しく、本を読むことの楽しさよりもつらさの方が先立ちました。読書がおもしろいと感じたのは学習研究社の『六年の学習』に連載された山中恒作『ぼくがぼくであること』を読み始めたことがきっかけでした。六年生の主人公の夏休みの出来事から物語が始まるので、8月になるといつもこの読書体験を思い出します。
読書に抵抗感があった理由を振り返ると二つの原因があります。一つは常に強制されること。二つ目は読書感想文を書かせられることでした。「課題図書だから」と言われたものは一冊も読みませんでした。読書感想文にいたっては、読まずに書くという技術を思いつきました。 一年生の時の担任の先生は情熱家で創造的、51名の一人ひとりを大切に育ててくれた26歳の教師でした。国語教育を研究されていた先生からすべての教科を通して読む、書く、話す、聞くことの楽しさを教えていただきました。 生まれて初めての読書感想文は一年生の9月、木下順二作、清水崑絵『かにむかし』でした。先生が読んでくださった後に「さるさんやかにさんへ手紙を書いてみましょう」という課題に取り組みました。理不尽に殺されてしまったかにさんへ居ても立ってもいられない気持ちで鉛筆を持ちました。そしてこう書きました。「かにさんのあしがゆうことおきけばさるにあおくっておっきくておもいカきのみでつぶされなかったのにいさるがこないうちにいろんなことおかんがえればよかったのにかにさんのあかちゃんがとてもよくそだってとてもおっきくなって、いますよ、もしかぼくが、かにだったらいろんなことおかんがえたのに。さようならのぶろうより。(原文通り) 先生は私の手紙に「のぶろうちゃん てん(、)まる(。)をただしくうつ。まるをうったらそのあとにつづけてかかない。この二つをまもってかきなおしてみたらしたのようなてがみになりました。」と書いて、整理して書き直した例文を添えてくださいました。 質問です。 ① 一般的に読書感想文とはどんな文章を指すのでしょうか。 ② 本を読んで楽しむだけでなく、読んだ本の感想文を書くことにどのような教育的な意味があるでしょうか。 日本で六年生を担任していた時に学級の子どもたちに文庫本の『ぼくがぼくであること』を紹介しました。自分が六年生の時に持った同じ感動を味わってもらえたかどうか。 学級内で自然に回し読みが始まりました。今本棚にあるその文庫本はたくさんの人の手のあとが残り、表紙がやぶれてテープでとめてあります。
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Kolbe Collegeのhomeroomは縦割りでPastoral Care group (PC)と呼びます。生徒たちは入学してから卒業までの6年間同じPCで毎朝の20分間を過ごすのでいつのまにか兄弟姉妹のような関係になります。担当教員とも深い人間関係を築きます。教師として、一人ひとりの精神的、知的、身体的成長を支える役割を担うこと、彼らの成長の過程の一部に加わるということは責任の重い体験です。
私も長年PCを持っていましたが、若い教員に譲るべきだということで数年前に手放しました。それでも週に数回は元のPCに顔を出します。とりわけ金曜日の朝には一人ひとりの日記に目を通してどんな1週間を過ごしたか、どんな努力をしているかしていないかを探って言葉を交わします。 先週の金曜日、11年生の生徒が私に開いた日記の土曜日の欄にWeddingとありました。誰の結婚式かたずねると、演奏と歌のアルバイトという答えです。詳しく聞くと、新婦の入場の時や式の重要な箇所で得意のguitarを弾いて歌うのだそうです。お父さんが知り合いに紹介したことから人伝で広がり、これまでに何回も演奏しているそうです。まったく知りませんでした。 集会などで演奏をする姿を見て、音楽の才能は知っていました。Kolbe Collegeでは生徒会の立候補者は選挙videoを作成してsiteにあげます。生徒たちや教職員はそれを観てonlineの投票をします。2週間ほど前にあった来年度の生徒会の選挙で、彼女は曲を作って立候補しました。 質問です。 ① 異年齢集団の中で子どもたちを育てる意義は何でしょうか。 ② 子どもたちに一つのことに集中することは教えますが、ある程度の年齢に達した時にいくつかの物事を同時に作業する方法を教えているでしょうか。 今朝、土曜日の結婚式での演奏についてたずねると、大成功だったとのこと。そして参列者から次の「仕事」のofferをもらったと喜んでいました。好きなことをして自由に伸び伸びと高校生活を謳歌していますが、彼女は水泳で州の選抜teamにいるので、週に10回ある厳しい練習をこなしています。朝は5時から練習が始まります。 いろいろな分野の才能を持ち、どの領域でも優れた能力を発揮することができる人はいるものだとあらためて感じます。そして様々なことを同時に高い水準でこなす能力を持っている人にも驚かされます。Technologyの分野に限らずともmulti taskingができることは21世紀に生きる人間には必要な能力なのだと思います。 ある種の流行語、常套句や紋切り型の表現を使うことは英語圏では避けるのが一般的ですが、逆に日本人は意識して使っているようにさえ感じます。
例えば「結果を出す」という表現。耳にするたびに、何を意味しているのだろうかと考えざるを得ません。一国の宰相が使う場合などは、共通認識に基づいた公の目標に対する結果ととらえるのが良心的で常識的な態度だとは思うものの、社会の状況が様々な課題であふれかえっている中で、何を指してそんな自信げな物言いができるのか疑問が湧いてきます。 誰が使うにせよ、結果は自然についてくるもので「出す」という他動詞を大げさに振り回す必要はないと感じます。日本人は様々な場面で自動詞を使う豊かな表現方法を知っている民族ですが、最近の無粋な他動詞の使い方には、そのDNAが過去のものになったという印象を受けます。 話題をもどしましょう。「結果」がすべてであるという認識は、当然のことながら、利益など数字で表すことが可能なものが成功の尺度であるという価値観に基づいています。その法則があてはまる事象がたくさんあると同時にそうでない分野が多くあることも事実です。 質問です。 ① 子どもたちにとって「結果」とは何を意味するのでしょう。 ② 学校や教師が学習や練習の「結果」を重視するのと同様に、その「結果」に対しても責任を持っていると言えるでしょうか。 世の中のすべてがあたかも経済活動であるかのように考えること、そしてそのように行動する風潮に対して慎重でありたいと思います。 ”if we're talking about nonmaterial goods and social practices such as teaching and learning or engaging together in civic life. In those domains, bringing market mechanisms and cash incentives may undermine or crowd out nonmarket values and attitudes worth caring about. “ Michael Sandel (2013) TED Talk : Why we shouldn't trust markets with our civic life 物事の最終的な到着点としての「結果」をみた場合にも、それに拘泥しないように十分注意を払いたいと思います。一般的な慣行となっている学期や学年ごとに総決算的に子どもの能力を判定するのではなく、学習活動の中で拾い上げた様々な証拠、多種多様な学習活動の中で現れた行動や能力などの「過程」を評価する仕組みを築く必要があるでしょう。 先週Kolbe Dayでミサが終わりに近づいた頃、生徒たちが誰に指示されたわけでもなく次々に壇上に上がってこの学校が好きな理由を述べ始めました。約1300人の心があたたかくなりました。 一人ひとりの成長の「過程」を大切にしてきた結果だと思います。 差し歯が突然抜けたものの、予約は2週間先で、不自由を感じながらも待つしかありませんでした。昨日ようやく歯科医に行って治してもらいました。鼻歌交じりに診察室に入って来て、冗談を飛ばしながら元どおりにしてくれました。私と同年代のこの歯科医は、週末に他の医師たちとバスに乗って移民や経済的弱者の施設に出向いて無料で治療をしています。同僚の元難民も無料で虫歯を治してもらいました。
『三国志』に華佗という医者の話があります。関羽のけがを治療した華佗は関羽からの礼金に手も触れずに「大医は国を医し、仁医は人を医す。自分は金儲けに来たわけではありません。」と言って飄然と小舟に乗ってかえってしまいます。紛争地域で医療活動に携わる人たちも、純粋に人道主義に基づいて従事されているのだろうと思います。 8月は日本人にとって、歴史的事実に向かい合い平和や生きることの意味を考える機会が多くあります。私たち Kolbe College に集う者たちにも8月はとても意味の深い月です。校名のKolbe 神父がAuschwitzの飢餓牢で生涯を終えるからです。なぜ強制収容所に送り込まれたのか、そこで何をしたのか、どういう過程で死に至ったのか、生徒たちは宗教の時間に学習します。 原爆記念日や終戦記念日がいつなのか知らない子どもたちが多くなっているという報道を目にしました。質問です。 ① 原爆記念日や終戦記念日を知らないことは子どもたちの責任でしょうか。 ② 史実を知っているということと平和の尊さを理解し平和な社会を構成する一員として行動するということにどのような相関関係があるのでしょうか。 1930年から36年まで長崎で布教活動をしたKolbe神父と、その頃長崎で生活をしていた「サチ子」の視点で構成された小説『女の一生 二部 サチ子の場合』のあとがきで、作者の遠藤周作さんが書かれていることがいつも頭の片隅にあります。「電車のなか、バスのなか、あるいは駅前で、私は自分と同じ年頃の主婦を見るたびに何とも言えぬ親近感を急に感じることがある。その親近感は自分たちが同世代であり、共におなじ歴史を生きて来たのだという事実から生まれている。あのくるしかった大きな戦争を生きぬき、あの変動の戦後をどうにか経てきた----それが我々の世代なのだが、そうしたムツカしいことではなく、「おたがい、よく生き残れましたね」という率直な気持ちなのかもしれない。」 今日は Kolbe神父の生涯と功績を讃える学校祭 Kolbe Day です。厳かな全校ミサから始まりますが、そのあとは「お祭り騒ぎ」に早変わりします。このような笑い声に満ちた命日のお祝いが天上の Kolbe神父への最上の贈り物だと私たちは思っています。 日本から来ていた中学生とKolbe Collegeの9年生と ”Identity” について話し合い活動を試みました。辞書を引くと「同一性」と訳されていて、これでは一体何を意味するのかわかりません。容易な課題ではありませんが、中学生たちは9年生たちの自己流の定義を聞くうちに ”Identity” を形成する要素を発見しました。出生地、家族、言語、能力、趣味、好きなもの、などです。
Journalistの本多勝一さんは『民族と文化』と題した講演で次のように語っています。「どこの国にかぎらず、自分たちの民族的性格や特徴は案外知らないものです。何かを知るということは、その「何か」を「他」から区別し、取り出すことでもあります。まず「他」を知らなければ「何か」を識別することはできません。私たち自身を知るためには他民族を知ることがその第一歩なのです。」本多勝一 (1980年) 。「民族的性格や特徴」は民族の ”Identity”と言い換えることができると思います。 質問です。 ① ”Identity” を意識することがありますか。 ② ”Identity”を形つくる重要な要素は何でしょうか。 ③ 子どもたちに ”Identity”を意識させることは必要でしょうか。 その中学生たちの正直な感想には「何か」を発見した喜びが伝わってきます。 「英語が以前よりずっと通じるようになった。普通の会話もわかるようになり自分が成長出来たんだなぁーと強く感じた。何より、話していてとても楽しかった。Kolbeのみんなとは本当に様々なことについて話し、笑った。これほど英語が楽しかったことは今までない‼︎‼︎」「日本とは全く違う環境に身を置くことで、常日頃過ごしていてあたりまえだなと思っていることを、様々な視点から考えることができるようになりました。」「全てにおいてオーストラリアの人は笑顔であふれていると思います。みんなhappy。それを今回、学ぶことができました。」「コルベの生徒は話すときは話す。話さないときは話さない。とメリハリがしっかりしている。」「僕らは生活する上でいろんなことを周りから影響を受けたり、或いは強制されたり、妨害されたりするが、最終的には自分自身が何をやったのか、がその後の展開を決めるということ。」「積極性の大切さ。挨拶の大切さ。コミニュケーションの面白さ。異文化の面白さ。」「様々な文化に揉まれ、新しい価値観を知ったことで、ものを二面的、多面的に見るということが増えると思う。というか増やす。」「日本に帰っても、文化の違いを考えたり、探したりすると思う。」「この旅行は僕に本当にたくさんのものをくれた。去年親しくなった人たちとの再会、新しい人たちとの出会い、普段あまり考えないことについて考える機会、そして何より、ぼくをもっと英語を勉強する気にさせたこと。これらを15歳で手に入れられたことはとても幸運なことだと思う。」 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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