同僚の娘さんは、今年の中ごろ通っていたHigh schoolをやめてHome schoolingという選択肢を選びました。最近はどう過ごしているかさりげなくたずねると、onlineのコースで学習しながら友だちとは誕生日パーティーに行ったりしてつながっていると話してくれました。安心したとは言っていましたが親として心配な表情は読み取ることができました。
そんな会話をしながら、息子の友人のことを思い出しました。地域のテニスクラブで知り合い、十数年たった現在でも再会するたびに一緒にテニスをしています。その彼は学校に通うことなく成人になりました。 学校では教科学習の他に、社会性や協調性、話し合いの仕方や人との接し方など人間社会を生きるうえでの必要な能力を身につけるところという認識があります。従って、何らかの理由で子どもが学校に通わないと重大な問題となります。 質問です。
息子の友人と接すると、個性と一言では言いきれない「何か」を感じます。彼の優れた資質の一つは対話力や対人能力でしょう。聞き上手であらゆる年齢の人と様々な話題で対話をすることができます。彼が人気のレストランのバーで働いている時に家族で食事に行ったことがありました。大勢のお客さんであふれかえっている中で、彼は常に冷静でしかも一人ひとりのお客さんと丁寧に笑顔で会話をしながらカクテルなどを休みなく作っていました。隙間を見つけては私たちのテーブルにも飲み物を運んでくれました。 ある保育園での実証実験の様子を撮影した記録を見ました。画面にあらわれたのは気持ちよさそうに床に体を伸ばしている子ども、おもちゃを持ちながら先生の話を聞いている子ども、先生の膝の上に座っている子どもなどの姿でした。この子どもたちが小学校に通い始めると、それらの行動は「してはいけないこと」になります。 学校という場所での教育は本来の人間らしさを消し去る作業の繰り返しかも知れません。そんなことを考えている時に偶然このTED Talkを見ました。私たち教師が教室で日常的にしている言動が、子どもたちの成長の過程で様々な問題や障害の原因になる可能性があることを注意深く見つめたいと思います。
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Finlandの学校はすべて公立で「近所の学校が一番良い学校」という認識が社会一般に広まっていると言われます。国会の合間をぬってconferenceに来てくださった35歳の女性の教育大臣も、「ここでは近所の学校が一番良い学校ですから私の娘も家の近くの学校に通っています」と話してくれました。
Grahn-Laasonen大臣は自国の学校教育のあり方として「良質の教育を平等に提供する」使命を明確に語りました。そして学校は時代の変化に合わせて変わらなくてはならないことにふれましたが、この国らしさを感じたのは、その改革を主導するのは教職員であること、一人ひとりの教員が自由であることという理念と価値観を述べたことです。 現地の先生方や校長先生方にたずねた時にも、社会や教育の機会が平等で各教員が自由なので良い実践が可能であるという答えが返ってきました。この自由度の幅は私たちの認識をはるかに超えています。たとえば校長は学級の生徒数、教員の採用、学習内容や教科などを学校や地域の実態に合わせて決めることができます。先生方は子どもたちが帰った後、学校で仕事をするのも自宅でするもの個人の判断に委ねられます。 質問です。
隣接しているというよりは小学校の一部としてある4、5歳の教室では、子どもたちが好きなことをしてひたすら遊んでいます。知識偏重の早期教育という考え方は持たないことがわかります。乳幼児期の最初の教育の場が家庭であるという考え方が、育児休暇が3年であることからも理解できます。 個人の幸福度を収入、自由、社会の信用度、健康(寿命)、社会的支援、社会の寛容性の項目で調査した結果をまとめたWorld Happiness Report 2018でFinlandが1位である理由がわかるような気がします。この調査のもう一つの注目点は各国の移民が感じている幸福度の結果です。ここでもFinlandは1位でした。誰に対しても思いやりのある国でなければこのような結果は出てこないでしょう。 「11月は暗く寒く湿った日が続いて仕事のstressもたまる時期なので、月末に職員全員を連れてsaunasに行くのよ。英気を養ってさあもう一踏ん張りがんばろうと励まし合うの。」とある校長先生が話してくれました。「費用は学校が。」とたずねると「もちろん。安いものよ。」 国際とか国際化という言葉は現在や将来の社会のあり様について述べられる時、必ず現れる言葉のようです。教育について考える時も例外ではありません。「国際」という名詞が使われている校名や学科名はあふれています。日本人にとって一種特別な感覚や心象を形づくるこの言葉が使われるたびに、本質的な意味や責任意識からは程遠い無責任な「国際人」をつくるように思えます。
国際化という表現がカタカナで「グローバル化」と言い換えて使われる場合、意味と目的が一層不明確で、その方法が短絡的である場合が多いようです。教科としての英語を小学校に導入するのも、大学入試改革で英語の試験を変えることもグローバル化に対応した改革という説明がありますが、果たしてそうでしょうか。 質問です。
フィンランドに来て子どもたちや教職員、一般の市民とふれあう中で感じたことは、誰もが現地語を理解しない私と当たり前のように英語で会話をし意見を交換することができるということです。同じEU圏でも、先月滞在したドイツとは大きく異なります。 1年生から6年生が学ぶ小学校を訪問してその理由の一部がわかりました。6年生の時間割を見ると週30時間のうちフィンランド語が4時間、英語が4時間、スエーデン語が2時間、フランス語が2時間、スペイン語が2時間あります。1週間のうち約半分の時間は言語を、しかも母国語よりも外国語を学習しているのです。 11日日曜日の朝、外に出るとどの建物にも国旗が掲げてあります。父の日だそうです。6日も旗日でした。Finnish Swedish Heritage Dayというスエーデン語を話す人々の文化や多言語を祝う日でした。自分たちとは異なる言語を話す人々を敬い多文化多言語を讃えあう意識と行動が「グローバル化」の大切な要素なのだろうと強く感じました。 文科省の『グローバル化に対応した英語教育改革実施計画』の最後に「日本人のアイデンティティに関する教育の充実について」という項目ができてきます。グローバル化に対応するためには英語教育の充実と自国の歴史、文化、言語の教育を充実させるという観点。日本の国家が描く国際化あるいはグローバル化はこの程度の水準にあるようです。多言語を学び多言語を操り、多文化を尊重するフィンランドに住む人々、国境を越えて自由に往来するEU圏の人々はどのように考えるでしょうか。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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