国際とか国際化という言葉は現在や将来の社会のあり様について述べられる時、必ず現れる言葉のようです。教育について考える時も例外ではありません。「国際」という名詞が使われている校名や学科名はあふれています。日本人にとって一種特別な感覚や心象を形づくるこの言葉が使われるたびに、本質的な意味や責任意識からは程遠い無責任な「国際人」をつくるように思えます。
国際化という表現がカタカナで「グローバル化」と言い換えて使われる場合、意味と目的が一層不明確で、その方法が短絡的である場合が多いようです。教科としての英語を小学校に導入するのも、大学入試改革で英語の試験を変えることもグローバル化に対応した改革という説明がありますが、果たしてそうでしょうか。 質問です。
フィンランドに来て子どもたちや教職員、一般の市民とふれあう中で感じたことは、誰もが現地語を理解しない私と当たり前のように英語で会話をし意見を交換することができるということです。同じEU圏でも、先月滞在したドイツとは大きく異なります。 1年生から6年生が学ぶ小学校を訪問してその理由の一部がわかりました。6年生の時間割を見ると週30時間のうちフィンランド語が4時間、英語が4時間、スエーデン語が2時間、フランス語が2時間、スペイン語が2時間あります。1週間のうち約半分の時間は言語を、しかも母国語よりも外国語を学習しているのです。 11日日曜日の朝、外に出るとどの建物にも国旗が掲げてあります。父の日だそうです。6日も旗日でした。Finnish Swedish Heritage Dayというスエーデン語を話す人々の文化や多言語を祝う日でした。自分たちとは異なる言語を話す人々を敬い多文化多言語を讃えあう意識と行動が「グローバル化」の大切な要素なのだろうと強く感じました。 文科省の『グローバル化に対応した英語教育改革実施計画』の最後に「日本人のアイデンティティに関する教育の充実について」という項目ができてきます。グローバル化に対応するためには英語教育の充実と自国の歴史、文化、言語の教育を充実させるという観点。日本の国家が描く国際化あるいはグローバル化はこの程度の水準にあるようです。多言語を学び多言語を操り、多文化を尊重するフィンランドに住む人々、国境を越えて自由に往来するEU圏の人々はどのように考えるでしょうか。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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