Roger Federerが6月にあったDartmouth Collegeの卒業式で祝辞スピーチをしました。すぐにSNS上で話題になったのですが、この週末にようやくそのスピーチのすべてを聞き、読む機会がありました。人々を感動させたのは次の部分です。
“In tennis, perfection is impossible... In the 1,526 singles matches I played in my career, I won almost 80% of those matches... Now, I have a question for all of you... what percentage of the POINTS do you think I won in those matches? Only 54%. In other words, even top-ranked tennis players win barely more than half of the points they play.” 「テニスの世界で完璧であることは不可能です。私が選手時代にプレーした1526試合のシングルスのうち、私はそのほぼ80%に勝っています。では、みなさんに質問です。その試合で私が獲得したポイントの割合はどれくらいだと思いますか?わずか54%です。言い換えれば、トップクラスのテニスプレーヤーでさえ、プレーしたポイントの半分を獲得するのがやっとだということです。」 質問です。 ① 子どもたちが学ぶ教室で、私たち教師が「完璧」を求めていないことがあるでしょうか。学習の過程では、子どもたちに寄り添う姿勢を示していても、評価になると豹変して ’all or nothing’ になってしまっている慣習に気がつくことはないでしょうか。 ② 専門職の教師として仕事に向かう際に、私たちはどの程度の完成度に到達することを意識しているでしょうか。常に完璧であることを目指しているでしょうか。 私たちは「うまくいって当たり前」とか「問題や事故がなくて当たり前」の環境の中で生活をしています。それだけ精度の高い社会であることが、良くも悪くも現実であり、私たちの意識でもあります。しかしながら、現実は非常に危うい偶然の連続の上にかろうじて成り立っているということを認識する必要があります。とりわけ、子どもたちの生活や学習の過程が完璧なはずはないでしょう。 そして、私たちの仕事も常に完璧に進めば良いのですが、そうではないことの方が多いのです。その時にその事実をどう認めるか。そして、どうやって前に進むか。Federerの言葉を借りると、 “The best in the world are not the best because they win every point... It’s because they know they’ll lose... again and again… and have learned how to deal with it.” 「世界最高の選手は、すべてのポイントに勝つから最高なのではありません。彼らは負けることを知っているからなのです。何度も何度も、それに対処する方法を学んできたからです。」 私たちにとって、失敗や期待通りに進まなかった時の対応策は何でしょう。
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先月のことになりますが、Bertrand Russellの文章を久しぶりに目にする機会がありました。この哲学者の文章はSomerset Maughamなどと並んで、私が大学受験の準備をしている頃によく読んだものでした。
正確には、通っていた予備校にAll Roundという英語講読の講座があり、担当の先生が編纂された小冊子には珠玉の短編が詰まっていて、そこで毎週名文を読んでいたという説明が適切です。受験に出るから読むのではなく、そこに書かれていることに興味がわいて夢中になって読んでいました。後にも先にも学校でこのような英文の読み方も講義も経験したことはなく、高校生時代にクラスの底辺にいた自分が優れた英文を読むことの深さと魅力に引きつけられるきっかけになりました。 質問です。 ① 高校から大学へすぐに進むことができなかったことで、図らずも得ることができた私の極めて個人的な知的体験ですが、目の前の子どもたちに人生の選択肢を多様に持つこと、それを勧めることは学校では不可能なことでしょうか。 ② 学習活動の過程で子どもたちに質の高い学習体験と、学習後も持続する興味や関心を育むことがむずかしいのはなぜでしょうか。 All Roundを担当されていた先生とは大学に入ってからも時々お目にかかる機会がありました。私がAustraliaの学校で働いている時には、旅行の途中に奥様と遊びに来られたこともありました。 “If the matter is one that can be settled by observation, make the observation yourself.” 観察で解決できる問題なら、自分で観察すれば良いのです。 “If an opinion contrary to your own makes you angry, that is a sign that you are subconsciously aware of having no good reason for thinking as you do.” 自分の意見に反する意見にあなたが腹を立てるのは、自分の考えに正当な理由がないことを無意識のうちに自覚している証拠なのです。 “A good way of ridding yourself of certain kinds of dogmatism is to become aware of opinions held in social circles different from your own.” Bertrand Russell ある種の独断的な思考を排除する良い方法は、自分とは異なる社会的サークルの意見を意識することです。 私たちの学校で開催されたDebateの国際大会の地区予選会で審査員をしました。英語で思考し議論する能力や語彙量が勝敗を決めると言っても過言ではないので、通常の学校で学習する教科としての英語とは相当離れています。発信型の英語、生活や学習言語として英語を使っていることが必然的に出場条件になると思われますが、たくさんの中高生が連休の一部を諦めてやってきました。
一組ごとのdebateを審査しているうちに、この理解力、表現力、論理的思考力、知識・情報量、心理的・感情的安定性が試される戦いは、見方によっては相当酷い活動であることを感じました。そして、勝敗を明らかにすることにどれほどの意味があるのかという、以前から感じている疑問がさらに大きくなりました。表現を換えれば、協調性や'Dialogue' 対話が大切にされる時代に、このような形態の議論の必要性はどのくらいあるのかどうか、論破する能力を持つことがこれからの社会に必要とされているのかという疑問です。 質問です。 ① ある問題や提案について賛成、反対、無関心という3つの見解があらわれた時、考えの違いを明確にするのではなく、共通点を探し出すことに労力をかけたらどのような成果があがるでしょう。3者が歩み寄ることのできる可能性の高い提案を出すことを試し合うのはどうでしょうか。 ② 実際の生活の中で議論を通して支持する案を押し通す場面と、妥協案や折衷案を導き出す場合と、その頻度の割合はどのくらいでしょうか。白黒をはっきりさせず、中間点に着陸することは話し合いの成果という点では「負け」でしょうか。 3人1組の出場チームのうち、それぞれが違った制服を着ている男子チームが教室に入って来ました。Debateが始まる前の「作戦」の話し合いや各発言者の間の打ち合わせも効果的に進んでいないようでした。惨憺たる結果で終わり、一方のチームが退出した後に声をかけてみました。 この3人組は毎週 Online debate 講座に参加している「知り合い」どうしだそうで、今回初めてこの大会に参加することにしたのだそうです。けれどもお互いが初対面で要領がつかめず苦戦したとのことでした。 他県から参加するメンバーがいるので、会場に一番近い所に住んでいるメンバーの家に3人が前日から泊まって準備したことも話してくれました。2日目も3人はそれぞれの制服を着てやって来ました。彼らには目指すべき具体的な目標が明確になった機会だったことでしょう。学校で学ぶ英語とはまったく異なる「道具としての英語」を試しにこの大会に参加した、彼らの勇気と情熱に励ましの言葉を贈りました。 今日読み終わった本の中に、忘れていた考え方・ものの見方に気付かされた箇所がありました。
“go slow to go fast.” Build a few successes, then take another tiny step. Michael Fullan (2023) The Principal 2.0 世の中のすべてと言っても過言ではないほどに、速さと効率と成果を弾き出すことが要求される中で、この当たり前の原則、急がば回れ、を一体どこに置き忘れてしまったのかと自問しました。 質問です。 ① 昨年度の子どもたちとの学習活動や課外活動、学校生活の中でゆっくり丁寧に時間をかけたことで、大きな成果を生んだ事例があるでしょうか。その逆に、急いでしまったことで、やり終えたものの期待を越える成果はあがらなかったという事例があるでしょうか。 ② 私たちの仕事、日々の業務や個人的な暮しの中で、丁寧に時間をかけたことは何でしょうか。この新しい年度にゆっくり進むことを心がけている物事は何でしょう。 自分の時間と仕事に携わる時間の境界線がぼやけてしまっている現実、対応の速さという一元的な評価と期待が横行する組織。少し斜に構えてみようかと考えています。 Fullanは学習評価に関しても、go slow to go fastの哲学と同じ本質的な課題提起をしています。 “Assessment is a window into both learner development and teacher practice.” “Assessment is not based on a deficit model but rather a diverse strengths-based approach leveraging portfolios and other rich qualitative assessments.” Michael Fullan (2023) The Principal 2.0 「学習評価は、学習者の知的発達と教師の実践の両方を見る窓です。」 「学習評価は不足モデルに基づくものではなく、ポートフォリオやその他の豊富な質的評価を活用した多様な学習者の『強み』に基づくアプローチなのです。」 減点法で点数をつけるのではなく加点法で、これを理解している、これができているという証拠を拾い上げて点数をつけることで、目の前の子どもたちの能力や可能性が完全に違って見えてくるはずです。そしてその結果、教師としての自分の仕事の質の良し悪しにも視点が向くはずでしょう。 先日、7年生のクラスで「楽」と「楽しい」について話し合いました。「楽」なことは「楽しいこと」だろうか。「楽なことは必ずしも楽しいことではない」という結論にまとまろうとした時に、ひとりの子が、これは国語のクラスでやった「不便益」と同じことだとつぶやきました。私は不便益、英訳をするなら Benefit of inconvenience という言葉をはじめて知りました。
その翌日、偶然入った教室では7年生の国語の学習をしていました。ちょうど川上浩司著『「不便」の価値を見つめ直す』のまとめをしていました。教科書を貸してもらって、全文を読んでみました。 「必ずしもいつも「便利はよいこと」で「不便は悪いこと」というわけではなく、「便利」の中にもよい面と悪い面があり、「不便」の中にもよい面と悪い面があると考えるのだ。そうすると、「不便のよい面」と「便利の悪い面」という新しい視点が生まれる。」 質問です。 ① 意識をして観察してみると「不便のよい面」は身の回りにたくさんあることに気がつきます。このような視点を持つこと、逆説的な発想をすることの利点は何でしょうか。 ② 7年生のこの生徒はふたつの異なる教科の学習活動から内容の共通点を見出しました。この例は自発的、無意図的ものですが、ある概念や事象を多教科に渡って学習することは可能でしょうか。それを実現するためには何が必要でしょうか。 偶然にも生徒がつぶやいてくれたおかげで、私は新しい言葉とその意味を知ることができました。さらに、にぎやかに学習するこの子はこうやって学んだことを思い出し意味を自分なりに理解しているということについても知ることができました。 教科の特性、独自性、専門性などという意識が邪魔をして、なかなか壁を取り払うことができていませんが、世の中の課題は、そして学習活動はますます総合的、複合的な方向へ進んでいます。 さて、「不便益」に話題を戻すと、日本の社会にはたくさんの「不便」が存在していると感じていますが、そのお陰でたくさんの恩恵をいただいています。その中には、おそらく多くの人は始めから「不便」とは感じていないのではないかという予想も持っています。目の前のものが前時代的なもの、あるいは便利なはずのものがかえって不便を生み出しているということには気がついていないのかもしれません。 不便や便利という感覚、認識は私たちのWell-beingにも関係や影響がありそうです。来週の研究講座ではこれらの点についても考えてみたいと思います。 卒業式の式辞を準備する時期になりました。昨年の原稿を書く際に集めた資料のメモに目を通しながら、テーマだった成功や失敗について再び考えました。
“How can we change the cultural narrative about rethinking? Can you imagine a world in which saying “I don’t know” is seen as a mark of confident humility instead of ignorance and “I was wrong”is viewed as an act of integrity rather than an admission of incompetence? “ Adam Grant (2021) Think Again 「どうすれば、考えなおすという習慣について文化的な認識を変えることができるのでしょうか。「わからない」と言うことが無知の印ではなく、自信に満ちた謙虚さの証とみなされ、「間違っていた」と言うことが無能を認めるのではなく、誠実な行為とみなされるような世界を想像できるでしょうか。」 質問です。 ① 学校生活や学習の中で、子どもたちは「わからない」「知らない」「間違っていた」という反応やつぶやきを正直に自然に口にすることができる環境があるでしょうか。そのような反応を理解力などの能力ではなく、態度として評価する習慣があるでしょうか。 ② 私たち大人の職場や人間関係の中で、「わからない」「知らない」「間違っていた」という反応を躊躇もなく示すことができる心理的安定性があるでしょうか。 大人でありながら、知らないことだらけの大海の中を小さなヨットで航海をしているような感覚を感じることはないでしょうか。それに対して、周りの人たちがやけに自信に満ちた様子に見えることはないでしょうか。 一方で子どもと接する際に、わからない、できないという言葉を口に出せない苦しみを感じる余裕が、私たちにあるでしょうか。子どもに謙虚に寄り添うやさしさや、言葉にあらわれないつぶやきを感じ取る繊細な感性があるでしょうか。 “There is a difference between not knowing and not knowing yet. I don’t like this yet: leaves room for change I’m not good at this yet: gives space for improvement.” Carol Dweck (2017) Mindset 「知らないことと、まだ知らないことは違います。私はまだこれが好きではない: 変化の余地を残しています。 まだ得意じゃない: 改善の余地を与えています。」 Dweckのこの文章を読むと救われるような感覚を持ちます。”Yet まだ”という言葉の力、可能性を私たち自身も信じる必要があるでしょう。 受験に失敗した自分を救ってくれた先生は、能力でなく態度をいつも評価してくれていました。 40年前の1984年1月24日にApple Macintoshが私たちの目の前にあらわれました。この出来事を分析する記事がありました。
“It turns out that designing for usability, efficiency, accessibility, elegance and delight pays off. Apple’s market capitalisation is now over US$2.8 trillion, and its brand is every bit associated with the term “design” as the best New York or Milan fashion houses are. Apple turned technology into fashion, and it did it through user experience.” Jacob Wobbrock (2024) The Conversation 「使いやすさ、効率性、利便性、エレガンス、そして喜びを追求したデザイン」が当時市場に出回っていたコンピュータとは確実に異なっていた要素でした。「アップルはテクノロジーをファッションに変え、ユーザー・エクスペリエンスを通じてそれを実現しました。」 この記事を読みながら、これらの要素や価値観、哲学を教育や学校に当てはめてみたらどうだろうとふと考えました。 質問です。 ① 「使いやすさ」は学びやすさ、わかりやすさ、活動しやすさに換えてみましょう。「効率性、利便性、エレガンス、喜び」はそのまま使えそうです。これらを学校教育に求めると、どんな学校が、学習活動が生まれてくるでしょう。 ② 学校教育の制度や運営、学校の日常の教育活動の中に “user experience” という考え方や意識が存在するでしょうか。もしあったとすると、どのような違いを生むでしょうか。 学校教育の場面で “user” といえば子どもたち、生徒、学生でしょう。Student-centred とか子どもを主体としたという言葉はよく目にしますが、“user experience” とは根本的に異なる次元、むしろ低いレベルでの議論のような気がします。これは Student agency に一番近い概念かもしれません。それでも “user experience” の方が子どもたちに寄り添っている印象を受けます。 学校や教師の都合で教育というゲームが展開されている現実を、大人たちは認識する必要があります。たとえば、一年のうちで一番寒いこの時期に入学試験を強要するということも、明らかに学校や教師の都合でしょう。学習の科学を無視した、各学期の中間試験も期末試験も、学校や教師の都合でしょう。 奇しくも、1月24日は国連が定めた “International Day for Education” です。人類の平和と発展に貢献する教育を祝う日です。本当に今日の学校教育が人類の平和と発展に寄与しているのか考えてみたいと思います。 2023年にめぐり合った本について振り返ると、「当たり年」でそれらの本から多くのことを学びたくさんの視点を得ました。私のBest5冊を紹介します。
Ron Ritchhart (2020) The Power of Making Thinking Visible “Teaching is not telling, and the delivery of content at a preprogrammed pace does not engender deep learning. Learning happens when students engage with ideas, when they ask questions, explore, and construct meaning with our guidance and support. Therefore, we need to make thinking visible because it provides us with the information we need to plan opportunities that will take students' learning to the next level and enable continued engagement with the ideas being explored. It is only when we understand what our students are thinking, feeling, and attending to that we can use that knowledge to further engage and support them in the process of understanding. Thus, making students' thinking visible becomes an ongoing component of effective, responsive teaching.” Tina Seelig (2015) Inside Out “The following letter to parents came with boxes of Legos back in 1974. This note recently went viral on social media as people remembered the days when this toy wasn’t sold with “one right answer”: To Parents: The urge to create is equally strong in all children. Boys and girls. It’s imagination that counts. Not skill. You build whatever comes into your head, the way you want it. A bed or a truck. A dolls house or a spaceship. A lot of boys like dolls houses. They’re more human than spaceships. A lot of girls prefer spaceships. They’re more exciting than dolls houses. The most important thing is to put the right material in their hands and let them create whatever appeals to them.” Tina Seelig (2019) What I wish I knew when I was 20 “In fact, real life is the ultimate open-book exam. The doors are thrown wide open, allowing everyone to draw on endless resources around them as they tackle open-ended problems related to work, family, friends, and the world at large.” Warren Berger (2018) The Book of Beautiful Questions “Having strong questioning skills has always been important. But in a time of exponential change, it’s a twenty-first-century survival skill. From an individual career standpoint, continued success will depend on having the ability to keep learning while updating and adapting what we already know. We must continually invent or reinvent the work we do every day. None of this is possible without constant questioning.” David Epstein (2019) Range “The challenge we all face is how to maintain the benefits of breadth, diverse experience, interdisciplinary thinking, and delayed concentration in a world that increasingly incentivises, even demands, hyperspecialisation.” 「私たちすべてが直面している課題は、過度の専門分化をさらに奨励し、要求さえする世界において、幅の広さ、多様な経験、異分野間の思考、ひとつのことに集中することを遅らせるという利点をいかに維持するかということです。」 2024年も ”Learn, unlearn and relearn” の学習サイクルを続けていく中で、Epsteinが述べているような幅や多様性を豊かに持ち続けることを意識していきたいと思います。 Adam Grantの新著の中に「文化」を構成する3つの要素があげられていました。Practices 習慣・慣行、Values 価値観、Underlined assumptions 期待感。
私たちの学校の2023年最後の登校日の晩に、生徒会主催のWinter Ballが校内で開かれました。参加者がダンスをして楽しむ通常のBallとは異なり、個々のパフォーマンスが続く発表会です。 例年のイベントで、誰でもステージにあがって楽しむべきだという価値観があり、個性あふれるパフォーマンスがあっておもしろそうだという期待感がみなぎる、まさに先ほどの三要素で構成された「文化」です。 年末の挨拶メールをオーストラリアの前任校の同僚に送ると、その返事にこの年度末 (オーストラリアでは1月に学年が始まり12月に終わる) に17人が異動する知らせがありました。昨年度末にも相当な教員が転勤したので、私が辞めてわずか3年で総教員数の半分以上が入れ替わったことになります。これもオーストラリアの私立学校の文化のひとつです。 質問です。 ① 教員が同じところに留まらずに別の学校へ転勤する意義や利点は何でしょう。一方で問題点や課題があるとすると何でしょうか。 ② 日本の私立学校では教員の異動が少ないのはなぜでしょうか。勤務が必ずしも順調でなくても、あるいは不満があってもその学校に留まる教員が多いのはなぜでしょうか。 自主的な異動の習慣が少ないことだけではなく、日本の学校や社会の根底に「変えない」「変えようとしない」文化があるように感じます。文化と表現するべきかどうか疑問が出るかもしれませんが、それが習慣であり、価値観であり、期待感であるという文化の三要素にあてはまるのです。 自分にとってより良い条件や環境は何であるかを考えること、それらを探し求めること、そして新しい選択肢を選ぶことは、良い仕事をして幸福感を増す条件でしょう。学校にはそのような「変える文化」が必要で、どうやって育めば良いのかが目下の課題です。 “I believe that culture is the hidden tool for transforming our schools and offering our students the best learning possible.” “In reality, curriculum is something that is enacted with students. It plays out within the dynamics of the school and classroom culture. Thus culture is foundational. It will determine how any curriculum comes to life.” Ron Ritchhart (2015) Create Cultures of Thinking 「私は、文化こそが学校を変革し、生徒たちに最高の学びを提供するための隠れたツールだと信じています。」「現実には、カリキュラムは生徒とともに実践されるものです。それは、学校や教室の文化のダイナミクスの中で展開されます。従って、文化は基礎となるものです。どのようなカリキュラムがどのように実現されるかは、文化によって決まるのです。」 週末は週のうちに空っぽになった頭に知のエネルギーを注ぎ込む時間です。久しぶりに Harvard Project Zeroを創設したメンバーのひとり、David Perkinsの文章を読み漁りました。
“We give those tests. We evaluate those tests. But that makes for shallow learning and understanding. … You cram to do well on the test but may not have the understanding. It unravels.”Instead, we should be moving away from an understanding of something — the information on the test, the list of state capitals — to an understanding with something.” David Perkins (2015) What’s Worth Learning in School? 「私たちはテストを行います。そしてそのテストを評価します。しかし、それでは学習も理解も浅いものになってしまいます。テストで良い結果を出そうと詰め込みますが、理解はできていないかもしれません。テストに出題される情報、たとえば州都のリストのような何かを理解することから抜け出して、何かもとにして理解することに向かうべきなのです。」 質問です。 ① an understanding of something ではなく an understanding with something を実現する学習活動や評価を考えてみたことがあるでしょうか。それはどのような実践になったでしょうか。 ② 子どもの理解を判定する方法は紙ベースのテストだけでしょうか。それ以外の方法が汎用化されないのはなぜでしょうか。 ③ 何かを理解していること、何かができることの関連性の中でより大切なことはどちらでしょうか。 子どもを大人の価値観の型にはめ込んでいく世間一般の動向や早期教育に真向から反論している本も読みました。 “learning itself is best done slowly to accumulate lasting knowledge, even when that means performing poorly on tests of immediate progress. That is, the most effective learning looks inefficient; it looks like falling behind.” David Epstein (2019) Range 「学習そのものは、持続的な知識を蓄積するためにゆっくりと行うのが最善です。つまり、最も効果的な学習は非効率的に見えるのです。」 必然性のない進度に従って、言葉を換えれば、目の前の子どもたちの一人ひとりの特性を顧みずに機械的な学習が続いていったとしたら、そして2学期の成績がその似非学習活動の集大成だとしたら、私たち教師はどのような説明責任を果たすことができるでしょう。 何かを学習して定着するまでには一定の時間が必要なこと、その時間は一人ひとり異なるというような学習の科学の基本中の基本を教師が理解するには時間がかかりそうです。 |
Author萩原 伸郎 Archives
4月 2024
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