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Ideas

Creative flow

13/7/2025

 
研究者のRuben Puenteduraが学習活動にテクノロジーが活用される際の概念的段階をSAMR model (Substitution, Augmentation, Modification, and Redefinition) として発表したのは2010年でした。当時学校現場で急速に導入され始めていたICT機器の活用によって提供される学習活動を分析した際に、それが従前の活動内容と比較してどのような発展性があるかを評価する基準になりました。2016年にPuentedura氏がPerthに来られた際に開催されたワークショップでは、各段階はそれぞれに適切なもので、SAMR modelは学習活動の良し悪しを決める道具ではないと話されていました。


けれども実際の教室で子どもたちがICT機器を使ってしていること、その活動はSAMR modelの段階が上がるごとに学びの楽しさや深さも向上するという正比例の関係にあります。そして、ひとり1台の環境が整った現在、多くの教室で見られることは、ノートとえん筆による作業がLaptopとGoogle Docによる作業に代替 Substitution されているだけということも事実でしょう。


AIの活用についてはどうでしょうか。SAMR model を応用してAI活用のレベルを分析してみるとどんなことに気がつくでしょうか。


質問です。
① 日本のテレビ局ではニュースをAI自動音声が読みあげる方法が採用されていますが、このレベルのAI活用にどのような価値と意味があるでしょうか。
② AIの活用によって生産性を上げる効果がありますが、学校ではどのような場面でそれが可能でしょうか。またAIの役割を「回答者」から「発問者」に変換して活用することは可能でしょうか。どのような場で実現することができるでしょうか。


AIを活用する時、人間の創造力や様々な知的能力との関わりが常に問われます。教室でのICT機器の活用の際に考察したように、AI活用についてもSAMR model の代替、拡張、修正、再定義のどのレベルにあたるのか、どうすれば価値のある活用が可能になるのかという思考と試行を続けることは主体的な利用者になるために必要な過程でしょう。Design Thinkingを研究し実践するd.schoolの教員がAIの活用について次のように述べています。


"New tools don't erase human creativity. But they do rearrange it. And it takes time for people to figure out the new human choices that are possible with a new medium. So, new mediums mimic old mediums. That continues until people figure out the “grammar”and possibilities of the new. As of early 2025, people are trying to use AI largely to copy the old. And that's okay. We have to start somewhere. But it's good to get curious and experiment in ways that go beyond trying to replicate and automate things that have already been done." Glenn Fajardo (2025) d.school, Stanford University


「人々はこれまでのやり方をそのまま続けるためにAIを使おうとしています。 それも良いでしょう。私たちはどこかで始めなければならないから。しかし、好奇心を持ち、すでに行われていることを複製し自動化しようとする以上の方法で実験するのは良いことです。」


そして次のような質問を投げかけています。


"Can we use AI not just to generate things, but to deepen our own creative flow? What if AI could help us stretch our choices, sharpen our attention, and expand the space where human creativity happens?" Glenn Fajardo (2025) 


私たち自身の創造的な取り組みを一層深めるために、AIをどのように使えば良いのか考えていきたいと思います。
​

Word of the Year

6/7/2025

 
1年の半分が過ぎた日に、Oxford University Pressが発表したThe Australian Children's Word of the Year for 2024についての記事がありました。中・高学年の小学生が書いた作文の中にあらわれた単語を拾い上げた集計結果についてです。

小学生が一番多く使った言葉は 'friend' でした。そしてShort listにあがったものは、'fact, game, hope, leader, love, play, superpower’でした。小学生らしい成長過程が感じられるものの中に、もしかすると現在の世相を反映しているのかも知れないと感じられるものもあります。hopeは昨年度の28%増、loveは他の人との広い意味での関係性、superpowerは人を手伝ったり助けたりするという意味で頻繁に使われているという補足の解説がありました。

質問です。
① 日本の小学生を対象に同様の調査をしたら、Australiaの子どもたちと共通の言葉が出てくるでしょうか。各地の紛争地域で生活する小学生が書いた文章にはどのような言葉が多く使われているでしょうか。
② この調査を通して、小学生が使った頻度の高い言葉はすべてpositiveな意味のものですが、それはなぜでしょう。中高生や大人が書いた文章や会話などに高い頻度であらわれる言葉の種類にはどのような傾向があるでしょうか。

調べてみると、一般市民の投票や使用頻度のデータなどから判定された成人版のOxford Word of the Year for 2024は 'brain rot'「脳の腐敗」でした。「特にSNS上で、質の低いオンラインコンテンツを過剰に消費することの影響を懸念する言葉である。」と解説があります。

”Our experts noticed that ‘brain rot’ gained new prominence this year as a term used to capture concerns about the impact of consuming excessive amounts of low-quality online content, especially on social media. The term increased in usage frequency by 230% between 2023 and 2024. The first recorded use of 'brain rot’ was found in 1854 in Henry David Thoreau’s book Walden, but has taken on new significance as an expression in the digital age.” Oxford University Press (2024)

一方、辞書の出版社Merriam-Websterが選んだ2024年の言葉は 'polarisation'「分裂、分極化」でした。

“polarisation” - defined as “division into two sharply distinct opposites; especially, a state in which the opinions, beliefs, or interests of a group or society no longer range along a continuum but become concentrated at opposing extremes” - is its Word of the Year for 2024.” Time (2024)

成人版の2024年の言葉、前者は個人の習慣を、後者は社会や世の中の情勢を表現し、危惧し、また揶ゆするものです。私たち大人が使う言葉、そしてその元にある感情や思考は否定的で悲観的な視点を持つ傾向があるということを示しているのかも知れません。確かに、私たちの日常は目を覆いたくなるような惨事や不穏な情勢の連続ですが、私たち自身の視点と態度によって、何をどう見て、どのように反応し、どのように表現し行動するかが決まるのではないかと思います。

“Each of us tends to think we see things as they are, that we are objective. But this is not the case. We see the world, not as it is, but as we are—or, as we are conditioned to see it. When we open our mouths to describe what we see, we in effect describe ourselves, our perceptions, our paradigms.”Stephen Covey (1989) The 7 Habits of Highly Effective People
 
“...Feeling hopeful does not mean to be optimistically naïve and ignore the tragedy humanity is facing. Hope is the virtue of a heart that doesn't lock itself into darkness, that doesn't dwell on the past, does not simply get by in the present, but is able to see a tomorrow. Hope is the door that opens onto the future.”Pope Francis (2017)

私たちが使う言葉は、私たち自身の在り方そのものであることに気がつきます。

Universal Design

15/6/2025

 
Australiaの学校では子どもたちの学習、作業・活動、休憩時間などの場には必ず教員がいなければなりません。担当の先生がお休みで、教室で子どもたちだけが自習をしているという光景は絶対にありえません。

先週、あるクラスの補教に入りました。 担当の先生からの連絡メモには単元テストとありました。はじめの10分間は各自でテスト範囲の復習、そして40分間のテストという流れです。テスト開始の時刻になりそれぞれがデバイスからテストを開くと、クラスがざわつきました。約半数の子どもたちはこの技能を主とするテストの1問目からやり方がわからないのです。Semester Oneの成績の教務システムへの入力締め切りは今週水曜日に予定されています。


質問です。
① クラスのすべての子どもたちが学習した内容を確実に理解していない、練習した技能が身についていない時に総括的評価をする意味があるのでしょうか。このテストが形成的評価だとしたら、担当者がテストの前にするべきだったこと、このテストの後にするべきことは何でしょうか。
② このテストの結果がSemester Oneの評定計算に含まれるとしたら、今回の事例は、より高い評定を獲得する機会が意図的にあるいはシステム的に子どもたちから奪われしまっていると言えるでしょうか。

なぜこのようなことが起きたのかと問われれば、同じ科目を教えている先生との関係、他のクラスとの整合性、ぎっしり詰まったカリキュラムをこなすため、配当された時数の結果、などのオペレーションやシステムに関する理由があがるかもしれません。そして、子どもたちには十分に説明をした、練習時間も十分だった、理解していない・やり方がわからないのは子どもたちの意欲や集中度の問題、などの学習者に関する理由もあがるでしょう。

どちらにしても、教育の理念や哲学までに飛躍せずとも、教師として持つべき大切な観点や習慣が問われる事例だと思われます。Universal Designの視点ではどのような説明になるでしょうか。

”Most curricula are designed and developed as if students were homogeneous, and the most common approach to curriculum design is to address the needs of the so-called ‘average student.’ Of course, this average student is a myth, a statistical artefact not corresponding to any actual individual. But because so much of the curriculum and teaching methods employed in most schools are based on the needs of this mythical average student, they are also laden with inadvertent and unnecessary barriers to learning.” David Rose (2014) Universal Design for Learning

ひとつには、教育課程や指導法が実態のない「平均的な生徒」をもとに作成されていること、そのために無意識のうちに必要のない(本来は避けるべき)学習の障害を産んでしまっているという事実です。そして実際の評価デザインに際しては、次のような説明があります。

"Designing assessments using the principles of UDL requires a focus on providing alternate pathways to engage students, pathways to help them to build comprehension and understanding, and pathways that allow them to express how they have met the standard in flexible ways.” Carlin Tucker, Katie Novak (2021) UDL and Blended Learning

「UDLの原則を使用して評価を設計するには、生徒の興味を引くための複数の過程、生徒が解釈する力と理解力を高めるための過程、そして生徒が学習目的をどのように満たしたかを多様な方法で表現できる選択肢を提供することに重点を置く必要があります。」

これらに加えて時間、つまり学習計画の中のどこで、どのくらいの時間をかけて評価をするかについても子どもたちに合わせて設計する必要があります。これらのことを意識すると、学習評価は学習者と指導者のパートナーシップに基づいたものであることに気がつきます。

“Assessment is the driver of both differentiation (a teacher move) and personalisation (a partnership between the teacher and learner) in a blended learning environment.” Carlin Tucker, Katie Novak (2021) UDL and Blended Learning.

Teaching is a science, but so too an art and craft

2/6/2025

 
OECDが4月に発表したレポートに"Teaching is a science, but so too an art and craft." という表現がありました。 

"it is important to not lose sight of the potential of high-quality teaching and the power of refining teaching practices that have demonstrated impact. This report aims to deepen understanding of the complexities of teaching and its multifaceted nature as a discipline grounded in scientific research, but so too an art requiring creativity and a craft necessitating constant collaborative reflection and improvement." OECD (2025) Unlocking High Quality Teaching

質問です。
① 教えることは「サイエンス」であり、同時に「アート」そして「クラフト」でもあるという説明に共感できますか。教えることは「サイエンス」であるといえる実例に気がつくことがありますか。
② 自分以外の方の教えるという作業の様子から、「科学」「芸術」「技術」を発見したことがありますか。自分が学習者の立場であった時にそれらを感じたことがありますか。

"There is a need to consider more deeply how these elements intersect, considering the 'science' behind effective methods, the 'art' of their implementation, and how teaching 'craft' adapts to varied classroom environments." Unlocking High Quality Teaching

私たち教師が最初に習得しようと努力するものは「クラフト/技術」でしょう。けれども、教師が信じる教育観や児童生徒観、経験によってこの「技術」はまったく正反対の技に向かいます。たとえば子どもたちを管理して既定の道順通りに学ばせることに精力を傾ける「技術」を持つ教師もいれば、子どもの自由な発想や興味を活かしながらカリキュラムの枠の中には閉じ込めない伸びやかな学びを展開する「技術」を持つ教師もいます。だからこそ「サイエンス」と「アート」を理解し身につける必要性が見えてきます。

"The art comes from the teacher's personality, experience, and talents. The science comes from knowledge of child development and the structure of the curriculum." David Elkind (2014)

"In contrast to immature teachers who fill a 90-minute class with activities (and ignore targeted objectives), a transformational teacher treats those 90 minutes like a carefully crafted persuasive essay -- with a clear purpose and unique sense of style, a memorable beginning and end, a logical sequence, important content, nimble transitions, and contagious passion. Together, these characteristics persuade students to believe that learning the content and skills really matters." Todd Finley (2014)

「アートは教師の個性、経験、才能から生まれます。そしてサイエンスは子どもの発達に関する知識とカリキュラムの構造の理解から生まれます。」

前述のOECDのレポートには質の高い教科指導を達成する万能薬はない、この方法があのやり方よりも優れているという単純な選択肢もないという結論を導いています。より高度な、深い学習活動を提供するためには、柔軟な思考と多様な方法を適宜に使い分ける能力も私たち教師に必要な'science' 知識であり'art and craft'でしょう。

"After all, research does not provide so-called 'silver bullets' of what pedagogical approach is most effective. There is not one single approach that is 'better' than the others. There are too many different goals and needs in education due to the contextual variation of classrooms, as well as their unpredictable nature to expect a single approach to work for every single situation." Unlocking High Quality Teaching

この課題についても来る6月22日の研究講座で話し合いましょう。

Inverting Bloom’s Taxonomy

19/5/2025

 
学習活動の深度と進度をRememberからCreateまで発展的に説明するBloom’s taxonomyは、教育に関わる人々によって常に理想の学習形態として頻繁に引用されてきました。私はApply, Analyse, Evaluate, Createの相関関係の中でどれが上で下なのか明確には理解ができていないものの、肯定的に受けとめていました。Ritchhartが展開する理論的な批判に接してから、Understand 理解することこそが学習活動の究極の目的であり高度の思考プロセスなのではないかと共感するようになりました。
 
“Although his taxonomy focused on three domains—affective, psychomotor, and cognitive - it is the cognitive domain that most teachers remember. Bloom identified a sequence of six learning objectives that he felt moved from lower-order to higher-order thinking: knowledge, comprehension, application, analysis, synthesis, and evaluation.” 

“Today, most educators would argue that understanding is indeed a very deep, or at least complex, endeavour and not in any way a lower-order skill as the revised taxonomy suggests (Blythe & Associates, 1998; E. O. Keene, 2008; Wiggins & McTighe,1998). Indeed, understanding is often put forward as a primary goal of teaching.”Ron Ritchhart (2011)

21世紀の四半世紀が過ぎて、これまでとは異なった論点でTaxonomyを見直す考え方があらわれています。

“Traditional Bloom’s Taxonomy is a climb - learners start at the bottom, remembering and understanding concepts, before advancing to applying, analysing, evaluating, and eventually creating. This made sense in a world where knowledge was considered more static or even a smidge more linear, but AI disrupts this model.”

“Create is the entry point, not the pinnacle. It drives learners to evaluate the outcomes of their work, analyse what worked (and what did not), and apply what they’ve learned in new ways. This isn’t about skipping foundational knowledge -—it’s about embedding that knowledge in meaningful action.” Megan Workmon Larsen (2024)

「Createは入口であり、頂点ではありません。学習者が自分の仕事の結果を評価し、何がうまくいったのか(そして何がうまくいかなかったのか)を分析し、学んだことを新たな方法で応用するよう促すものです。これは、基礎的な知識をスキップすることではなく、その知識を意味のある行動に結びつけることなのです。」

質問です。
① 伝統的な学校教育の枠組みの中で支持されてきた固定化した直線的な知識とはどのようなものでしょうか。それに対して、流動的で曲線的、多角的、複合的な知識とはどのようなものでしょうか。
② 様々な成果物を瞬時に作り出すことができるAIと共生している時代に、'entry point' 導入として意味のあるCreationをどのように学習活動に取り込むことができるでしょうか。AIを活用する場合としない場合で、それぞれのシナリオはどう異なるでしょうか。

物事の法則、事実、公式などの教科書的な知識をあらゆる創造的な活動(作る、試す、調べる、考えるなど)を通して考察し理解を深めていく学習過程は、AIの時代の前からも主体的な学びの一例として評価されてきました。このことはテクノロジーを活用するかどうかとは無関係に、子どもたちの興味・関心・主体性を中心にした学習内容と方法の革新的な発想から生まれてきたものです。

このような学習活動はAIを活用しなくても深い学びを提供することはできますが、当然のことながら、AIを活用するとまったく異なった学習展開になります。様々なAI toolsを活用してどのような展開が可能になっていくでしょうか。そのbrainstormをするだけでもおもしろそうです。

Talent matters

5/5/2025

 
昨年Dartmouth Collegeの卒業式での祝辞スピーチのなかでRoger Federerが述べたこと、1526試合の中でポイントを取ったのは54%だった、を以前引用しました。彼はこんなことも話していました。

“Yes, talent matters. I’m not going to stand here and tell you it doesn’t. But talent has a broad definition. Most of the time, it’s not about having a gift. It’s about having grit. In tennis, like in life, discipline is also a talent. And so is patience. Trusting yourself is a talent. Embracing the process—loving the process—is a talent. Managing your life, managing yourself. These can be talents, too. Some people are born with them. Everybody has to work at them.” Roger Federer (2024)

「才能は重要です。才能が重要でないと言うつもりはありません。しかし、才能の定義は広いものです。ほとんどの場合、それは天賦の才能を持っていることではありません。それはやり抜く力を持っているということです。テニスでも人生でも、規律も才能です。そして、忍耐もそうです。自分自身を信じることも才能です。プロセスを受け入れること、プロセスを愛することも才能です。自分の人生を管理すること、自分自身を管理することも才能になり得ます。生まれつきそれらを持っている人もいます。誰もがそれらを磨く必要があります。」

行動遺伝学者の安藤寿康さんの説明にも同様な視点があります。「発明王エジソンの有名な言葉に『天才とは99%の努力と1%のひらめき』があります。一般的には努力の大切さを強調する言葉として知られていますが、1%のひらめきがないと99%の努力は実を結ばないのが真意という説もあり、私もその説の方を支持します」「また、個人の性格的な要素として、何事にも目的意識を立てた考えをする、つまり『努力ができる』ということにも50%ぐらいの遺伝率があります。努力ができるというのも才能の一つなのです」安藤寿康 (2024)

質問です。
① 私たちは人間の才能について、天賦のもの、生まれつき備わったものという先入観を持っていないでしょうか。そしてアカデミックな能力や特殊な能力についてだけを認識するという見方をしていないでしょうか。
② 人間の才能を磨くこと、一人ひとりのコンピテンシーを豊かに育てることを、学校や私たち教師は喫緊の使命としてとらえ、実践しているでしょうか。

“We tend to think of the great Renaissance artists as a homogenous group, but the truth is that they were like any other randomly selected group of people. they came from rich and poor families alike; they had different personalities, different teachers, different motivations. But they had one thing in common: they all spent thousands of hours inside a deep- practice hothouse, firing and optimising circuits, correcting errors, competing, and improving skills. They each took part in the greatest work of art anyone can construct: the architecture of their own talent.”  Daniel Coyle (2010) The Talent Code 

「ルネサンスの偉大な芸術家たちを均質な集団と考えがちですが、実際には、彼らは他の無作為に選ばれた人々の集団と変わりませんでした。裕福な家庭出身の人もいれば、貧しい家庭出身の人もいました。性格も異なり、師も異なり、動機も異なっていました。しかし、彼らには共通点が一つありました。それは、何千時間も深い練習の温室の中で過ごし、回路を活性化させ最適化し、間違いを修正し、きそい合い、技能を向上させていたということです。彼らはみな、人が築き上げることのできる最大の芸術作品、つまり自身の才能という構造に参加していたのです。」

私たち親や教師は、努力を続ける子どもたちの様子をいろいろな角度から直接的・間接的に継続して観察すること、そして彼らの努力の過程に適切な通過点を用意して褒め称える機会を設けることが必要なのだと思います。

「こどもの日」にこんなことを考えましたが、実は大人に対しても同様に必要なことだということにも気がつきました。

海苔巻き

24/4/2025

 
Perthのお昼時、赤信号で止まるとルームミラーから後ろの車の様子が見えました。父親と8年生ぐらいの女の子。女の子は海苔巻きをほおばっています。

私が現地の中等教育学校に勤め始めた1992年に家庭科の先生から海苔巻きを9年生のクラスで作ることを頼まれたことがありました。新設校で初めての海苔巻きの実演試食会は、結局誰も手をつけようとはせず、大失敗のうちに終わりました。食物を教えるわけではありませんでしたが、むずかしい前途を予想しました。   

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数年が経ち、和食もオーストラリアの社会で市民権を得ています。日本発のアニメ、ゲーム、音楽などから強力な影響を受けている子どもたちが、ある種の期待感を持って教科としての日本語を選択してきます。
                                          
質問です。
① 人々の興味や関心、直接関わる社会が常に変化していくように、学校経営や運営の仕方を適時に変えていくことがむずかしいのはなぜでしょうか。
② 子どもたちの学習内容、方法、評価を社会の変化に対応して変えていくことが、教師個人のレベルでも、学校や行政のレベルでもむずかしいのはなぜでしょうか。また、往々にして自主的・自発的な変革が歓迎されないのはなぜでしょうか。

それらの疑問に対して、そもそも学校の存立自体から受け継いだ?課題があるという見方があります。

“Schools have been built largely to control and channel populations, disseminate what counts as 'official knowledge' and socialise new generations into particular economic and social  structures. Broadly speaking, national school systems are not and never have been predominantly 'for the people'; schools are and have been predominantly for the existing national economy and social system. When social systems are in periods of rapid transformation the role of schools becomes contradictory. They teach knowledge that is no longer relevant, socialise individuals into roles that no longer exist, and provide the mindsets needed to continue ways of life that are rapidly disappearing” Zack Stein (2019)

そして教育に関わる人々が変わり続ける社会を認識しようとしない現実と、仮に認識したとしても自らを変革しようとしない現実もありそうです。

“The unfortunate reality, however, is that most schools are nowhere near acknowledging the new realities and challenges of a world in profound transition. And even if they are acknowledged, many governments and societies are creating roadblocks to any real transformational change. Just tweaking the status quo is the safer response.” Will Richardson (2024)

​実際の学校が社会の動向から乖離しているだけでなく、子どもたちや保護者の意識や感覚に驚くほど鈍感になってしまっている現実があります。子どもたちに価値のある学習活動や環境を提供する側として、私は何をどうやって変えることができるか考えてみたいと思います。

The Anxious Generation

1/12/2024

 
“At the turn of the millennium, technology companies based on the West Coast of the United States created a set of world-changing products that took advantage of the rapidly growing internet. There was a widely shared sense of techno-optimism; these products made life easier, more fun, and more productive. Some of them helped people to connect and communicate, and therefore it seemed likely they would be a boon to the growing number of emerging democracies. Coming soon after the fall of the Iron Curtain, it felt like the dawn of a new age. The founders of these companies were hailed as heroes, geniuses, and global benefactors who, like Prometheus, brought gifts from the gods to humanity.” Jonathan Haidt (2024) The Anxious Generation

「これらの製品は、生活をより簡単に、より楽しく、より生産的にする、というテクノロジーへの楽観主義が広く浸透していた。」

The Anxious Generationの全編には、決して看過することはできない脆弱な世代の現状が克明に記されています。この本を読み始めてすぐに、序文にある「テクノロジーへの楽観主義」という表現を目にした時、共感と共に反省や諦観が混ざった感情が湧いてきました。Haidt氏が提示しているデータには2010年から10代の子どもたちの心と体の変調が急増していることが明らかになっています。まさにこの時期から世界中で教育機器としてのテクノロジーの1:1の必要性・必然性が一気に議論されるようになりました。私もその渦中にいました。

質問です。
① 学校現場や教員が抱いていたテクノロジーの楽観主義の本質とはどのようなものだったでしょうか。
② ICTの供給側が主張していたテクノロジーの万能性や有用性とはどのようなものだったでしょうか。
③ 学校現場、IT企業、教育行政、保護者がそれぞれICTに期待していたことと現実にどんな隔たりがあったのでしょうか。
④ 学校が提供する教育の質はICTの活用によって深く豊かなものになったのでしょうか。子どもたち、教職員、保護者のWell-being度は増したのでしょうか。

私は学習活動にICTを活用することで教育の質は上がること、子どもたちの集中度や習熟度は上がることを実例として知っていますが、学校というparadigm、学習評価や入試制度に見る慣習的な手順、教科の枠組みや学習内容を変えることはまだ達成できていないと感じます。つまり、ICTは教育を改革する上で本当に必要な条件ではないだろうというのが私の考えです。

私たちは保守的で閉塞感のある学校、子どもたちが学ぶ意味を感じることのできないカリキュラム、一方通行の講義や教え込み、学習した内容の暗記力と再生力だけを確かめる評価、わからない・できないと苦しむ子どもに寄り添えない教師。学校制度が始まってからずっと存在しているこれらの課題をICTが解決してくれるだろう、解決してくれるはずだと単純に信じ込んだことがまさに楽観主義の本質だったのではないかと思います。

2010年代の初めの頃に、子どもたちが持っているデバイスを「値段の高い筆箱にするな」と警鐘をならしていた教育者がいました。子どもたちはデバイスを持って教室に来ますが、その使われ方はPuentedura教授が提唱したSAMRモデルの”Substitution 代用”の域を超えていないのが多くの学校の実情でしょう。

5 buckets

27/10/2024

 
The Diary of a CEO, Steven Bartlett (2023)、の中で、仕事や役職、人生で成功を得るための法則があげられています。その一番最初がFill your five bucketsです。

THE FIVE BUCKETS
  1. What you know (your knowledge)
  2. What you can do (your skills)
  3. Who you know (your network)
  4. What you have (your resources)
  5. What the world thinks of you (your reputation)

この5つのバケツのうち1と2が一番大切で、最初に満たされなければならないと強調されていました。

質問です。
① Skills 技能や技術は知識の次に来るほど人の成功に重要な要素でしょうか。経験年数が少ない場合にはSkillsは不十分で、成功の確率は下がるということでしょうか。知識とSkillsを満たす(増やす)際に、ここまではという基準をどうやって見つければ良いのでしょうか。
② Reputation 評判が大切なことは理解ができますが、最初から付いてくるものではない副次的なものをどうやって満たす(増やす)ことができるのでしょうか。
③ SkillsやReputationをより本質的な資質や条件に置き換えるとすると、何でしょうか。

私たちは日常の中で、その業務に熟練しているはずの人、充分なSkillsを備えていると思われる人の仕事の内容に失望することがあります。一方で、経験年数が短い人や見習の方の作業の様子から本質的なものを感じることがあります。それらの違いを生むものは何でしょうか。

さらに、私たちは様々な場面で、店、商品、企業が高いReputationやReviewを上げるために努力や工夫を凝らしている様子を頻繁に目にしますが、それによって私たちが企業側に同調したり共感したりすることがあるでしょうか。成功を得るために、ひたすらに他者からの評判や評価を上げるための努力をするということが本当に正しい手順なのでしょうか。

世の中にはありとあらゆる資格や検定が存在し、巧妙なビジネスモデルを構築した業者があたかも必須であるかのようなふりをした商品としてのSkillsを並べています。高校生や大学生たちはそれらを批判的に分析することや本質を見抜く力が不十分なので、いつの間にか引きつけられてしまいます。

自分の頭で考えること、自分ができることが何かを見極めてそれを実行すること、自分の力と発想を信じて自分で自分を高めること。自分自身が持つ成長思考の態度と謙虚さが成功を導く鍵だと思います。

Life rewards strengths

15/9/2024

 
Mail newsletterの中にあったやや挑戦的な論点に目がとまりました。そして実際の高校生はそのことについてどう感じているのかが気になり、11年生の探究学習のクラスに問いかけてみました。これがその主張です。

“School tests weaknesses. Life rewards strengths. Spending more time on our weakest areas is tempting, but life mostly rewards us for investing in our strengths.”Shane Parrish (2024)

「学校は生徒の弱さを測るが、人生は長所を評価する。苦手な分野に多くの時間を費やして克服することは魅力的だが、人生は強みに投資することで報われることがほとんどだ。」

質問です。
① 学校で行われる評価はおそらく減点法が主流だと思われますが、加点法にならない根本的な理由は何でしょうか。
② 社会に出て、長所を評価されたという経験はありますか。さらにご自分の強みに投資したという体験がありますか。

11年生(高校2年生)の反応を読んで、まさに学校というゲームの真っ只中にいるこの人たちは、私が予想した以上に物事の本質を捉えていると感じました。

「学校はテストを行なって生徒の弱いところを探るけれども、弱いところが見つけられたら学校で強めていけると思う。テストの成績の面で考えたら落ち込むこともあると思うけれど、人生という観点で考えてみれば、弱いところを探って上達させるということは、その人に強みを与えていることになると思う。」

「学校は、たくさん失敗をして、その失敗を活かして成長していく場所です。ミスをしても、学校はそれを良い経験として扱ってくれます。しかし、社会では失敗は許されません。勤務先でミスをしたら、責任を負わなければいけません。つまり、学校では失敗して自分の弱点を見つけ、それらを改善していくことができますが、社会では弱点が見つかれば、なぜ改善していないんだと詰められます。そのため人々は必然的に強みのみを使うようになるのだと思います。」

「苦手なことは足枷にならない程度までがんばれば良いという点は非常に共感できた。しかし、学校で習う程度のことは苦手であっても軽くこなせるようにならないといけないと思う。学校で教わることは基本的には専門的なものではなく、一般教養のレベルだと感じているので、専門性を求めるのであれば大学院などで自主的に伸ばせば良いと思う。そのため、学校が弱さを試し、どこがその人に欠けているのかを知らせることも重要だと思う。」

確かにここで紹介した11年生が主張する通り、学校では自分の弱い部分を認識する場所としての価値はあるという点には共感しました。一方で、日本の社会に、職場に、それぞれの人の長所を讃える文化が根付いているかどうか疑問に思いました。
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    Author

    萩原   伸郎

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