週末は週のうちに空っぽになった頭に知のエネルギーを注ぎ込む時間です。久しぶりに Harvard Project Zeroを創設したメンバーのひとり、David Perkinsの文章を読み漁りました。
“We give those tests. We evaluate those tests. But that makes for shallow learning and understanding. … You cram to do well on the test but may not have the understanding. It unravels.”Instead, we should be moving away from an understanding of something — the information on the test, the list of state capitals — to an understanding with something.” David Perkins (2015) What’s Worth Learning in School? 「私たちはテストを行います。そしてそのテストを評価します。しかし、それでは学習も理解も浅いものになってしまいます。テストで良い結果を出そうと詰め込みますが、理解はできていないかもしれません。テストに出題される情報、たとえば州都のリストのような何かを理解することから抜け出して、何かもとにして理解することに向かうべきなのです。」 質問です。 ① an understanding of something ではなく an understanding with something を実現する学習活動や評価を考えてみたことがあるでしょうか。それはどのような実践になったでしょうか。 ② 子どもの理解を判定する方法は紙ベースのテストだけでしょうか。それ以外の方法が汎用化されないのはなぜでしょうか。 ③ 何かを理解していること、何かができることの関連性の中でより大切なことはどちらでしょうか。 子どもを大人の価値観の型にはめ込んでいく世間一般の動向や早期教育に真向から反論している本も読みました。 “learning itself is best done slowly to accumulate lasting knowledge, even when that means performing poorly on tests of immediate progress. That is, the most effective learning looks inefficient; it looks like falling behind.” David Epstein (2019) Range 「学習そのものは、持続的な知識を蓄積するためにゆっくりと行うのが最善です。つまり、最も効果的な学習は非効率的に見えるのです。」 必然性のない進度に従って、言葉を換えれば、目の前の子どもたちの一人ひとりの特性を顧みずに機械的な学習が続いていったとしたら、そして2学期の成績がその似非学習活動の集大成だとしたら、私たち教師はどのような説明責任を果たすことができるでしょう。 何かを学習して定着するまでには一定の時間が必要なこと、その時間は一人ひとり異なるというような学習の科学の基本中の基本を教師が理解するには時間がかかりそうです。
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2008年からiPod touchなどのMobile devicesを活用した学習形態の実践研究を始めました。これまで教室の中だけで行われてきた学習活動の概念を打ち破る革新的な可能性に興奮したことを思い出します。その頃によく使われた表現がAnytime, Anything, Anywhereでした。その同じ時期に、文脈は少し異なりますが、いつでもどこでもというICTの特徴に黄信号を出していた人がいたことを最近知りました。
“Continuous partial attention is an always on, anywhere, anytime, any place behavior that creates an artificial sense of crisis. We are always in high alert. We are demanding multiple cognitively complex actions from ourselves. We are reaching to keep a top priority in focus, while, at the same time, scanning the periphery to see if we are missing other opportunities. If we are, our very fickle attention shifts focus. What’s ringing? Who is it? How many emails? What’s on my list? What time is it in Bangalore?” Linda Stone (2009) Beyond Simple Multi-Tasking: Continuous Partial Attention 「連続性部分注意力とは、人工的な緊張感を生み出し、いつでも、どこでも、どんな場所でも、常に注意を払い続ける行動のことです。私たちは常に厳戒態勢にあって、私たちはいくつもの認知的に複雑な行動を自分自身に要求しているのです。」 Stoneは、Muti-taskingは生産性や効率を上げたいという欲求がもとになっている行動だと定義し、連続性部分注意力(CPA )とは区別しています。 質問です。 ① 子どもたちにとってCPAの典型的な行動の一例として、家庭学習の際に常にSNSをチェックしながら課題に向かうということが挙げられるかも知れません。学習や生活の障害になっていることは今日的な事実ですが、正しい学習・生活習慣を身につけるという観点から何らかの指導や働きかけは必要でしょうか。誰が責任を持つべきでしょうか。 ② 大人も車を運転している時、作業や仕事をしている時にCPAが常習的になっている人がいます。このタイプ人たちはいつ、どの場面でその悪習から抜け出ることができるのでしょうか。 5年ぶりにFinlandの学校を訪問して気がついたことは、Smart Phoneを禁止するサインが教室や廊下に必ずあることでした。5年前に地元の校長先生たちと談話をしている時に、SNSが原因で子どもたちの中で起こる問題の処理に多くの時間がかかっていると指摘されていたことを思い出しました。 CPAの問題は、人がdeviceを手にしているかどうかよりも、何を見ているか、何とつながっているのか、何を意識しているのかが他の行動と区別されるところであり、そこに危険性が潜んでいるようです。 10月22日のThe New York TimesにAdamGrantの評論がありました。この中で、Finlandの小学校では同じ担任の先生が複数年受け持つことの利点が米国の制度と比較して述べられていました。
“But in the data, looping actually had the greatest upsides for less effective teachers — and lower-achieving students. Building an extended relationship gave them the opportunity to grow together.” Adam Grant (2023), The New York Times 「調査データによると学級担任の持ち上がりは、実は指導力に欠ける教師や伸び悩んでいる子どもの双方にとって一番好ましい成果があるということがわかりました。長い時間をかけて築く人間関係は共に成長する機会を与えるということです。」 質問です。 ① 日本の学校では子どもたちと教師、保護者と教師の間柄を肯定的で心理的な距離感も近いものにするために、ポリシーや制度として意図的にデザインする慣習があるでしょうか。 ② 先生方が子どもや保護者、同僚と良い人間関係を築く方法を学ぶ場や機会があるでしょうか。それらの大切な要素は大学の教員養成の課程に含まれているでしょうか。 先週の月曜日からHelsinki EducationWeekに参加しました。学校を訪問すること、そこで先生方、子どもたちから直接話を聞くことを楽しみにしていましたが、その期待は裏切られませんでした。世界中からの訪問者に向けて特別なことをするのではなく、先生方も子どもたちも普段通りの姿で迎えてくれました。そして両者は自然な学校生活のパートナーとしての関係が顕著にあらわれていました。 案内をしてくれた子どもたちや先生方からは謙虚な自信が伝わってきました。自分たちの学校や教育制度に誇りが持てるということはすばらしいことだと思います。同時に心理的、経済的な安心感があるからこそ表出してくる態度だろうと予想がつきます。 “Great education systems create cultures of opportunity for all.” Adam Grant (2023) 教員養成課程、採用基準、待遇、生活と仕事のバランスなど、多くの国が抱えている教職の課題が、この国ではそれらが課題になる以前に必要条件として勘案された優れた制度と文化をつくりあげたことで成果が上がり、さらに強みになって良い成果をあげるという連鎖を起こしているのでしょう。 すべての人に平等に機会を提供するという理念は社会の様々な場面で見られます。木曜日の午後に駅の近くにある図書館に行ってみました。この施設もその理念が隅々に具現化されていました。 10年程前に同僚が紹介してくれた作家の本を、学校の図書館の書架から偶然見つけました。
読んでみようと思いながらこれまで手に取って読んだことはなかったこの作家 Paulo Coelho の世界に突入しました。 あの時、同僚が引用したのが “Prague 1981” という短編でした。Coelhoは奥さんと真冬のプラハを訪れ、道で出会った画家とのやりとりがこの話の主題です。 “While I was waiting for him to finish the drawing, I realised that something strange had happened. We had been talking for almost five minutes, and yet neither of us could speak the other’s language. We made ourselves understood by gestures, smiles, facial expressions, and the desire to share something. That simple desire to share something meant that we could enter the world of language without words, where everything is always clear, and there is no danger of being misinterpreted.” 「彼が絵を描き終えるのを待っている間、私は奇妙なことが起きていることに気づいた。私たちは5分近く話していたのに、どちらも相手の言葉を話していなかったのだ。私たちは身振り手振り、笑顔、表情、そして何かを分かち合いたいという願望によってお互いを理解した。 何かを分かち合いたいという単純な欲求は、私たちが言葉のない言語の世界に入り込むことができることを意味した。」 質問です。 ① 私たちは対話の相手を、相手の感情や考えや価値観を、理解しようとして話し合っているでしょうか。少なくとも、お互いの言い分を感情や何かしらの基準を排除して聞こうとしているでしょうか。何かを分かち合いたいという純粋な欲望を持って対話する機会があるでしょうか。 ② 教室や家庭で、子どもたちの口から出る言葉を、私たち大人は子どもたちと何かを分かち合いたいという純粋な願望で拾い上げているでしょうか。 言葉のない言語の世界を大切にしている人もいます。一方で、言葉の持つ力を大切にしている人もいます。子どもでもその力を知っています。 関西の文化や言葉に縁のない私に、子どもたちがバリバリの関西の言葉や表現法で語りかけてくれる時、この上ない幸せを感じます。自分を同郷の仲間とまではいかなくても、同じ文化圏の仲間と認めてくれているような気がするからです。 Earth, Wind & Fireの1978年のヒット曲 “September” には意味のわからない歌詞というかchantsが出てきます。
“Ba duda, ba duda, ba duda, badu, Ba duda, badu, ba duda, badu, Ba duda, badu, ba duda” この曲を作詞したAllee Willisのインタビューを2019年に車中のラジオで聞きました。彼女の答えは、その部分はE.W. & F. のメンバーのMaurice Whiteの「一瞬の思いつき」で、彼女は変更することを主張しますが、彼はこのままで良いと言い切ったそうです。 “If the melody, beat, and spirit are there then everyone will know–emotionally they will know–what you‘re saying…” 「メロディー、ビート、そしてスピリットがそこにあれば、誰もがあなたの言っていることを感じ取ることができる。」 質問です。 ① 今の社会の風潮として、そして仕組みとして人々に細かな説明を常に求めています。そして私たちも常に何かを立証しようと躍起になっていることに気がつくことがあります。何かを言葉ではない方法で伝え合い感じ合うことの良さは何でしょうか。その条件は何でしょうか。 ② 教室や家庭で、何かを直接「言わない」ことで良い結果を生むと言う体験はないでしょうか。 “Lyrics can be clunky sometimes because someone is trying to make too much sense, or fit in a four-syllable word when a two-syllable one feels better…” 「歌詞がぎこちなくなることがあるのは、誰かが意味を強調しようとしすぎたり、2音節の単語の方がしっくりくるのに4音節の単語を入れたりするからだと思う。」とWillsは語っています。 一歩入るとどのような文化や価値観を大切にしているのかが伝わってくるオフィス、病院、商業施設、公共施設があります。VisionやMissionという大袈裟な文言を見なくても、そこの組織や人や場所が大切にしている核心を直線的に感じることができます。 建物のデザイン、色、光、音、掲示物、子どもたちの表情や服装、周辺の植栽から、訪れる人にいつでも、誰にでも「静かに」しかも「確実に」主張するような学校や教室があります。 隣の教室で ”September” が流れているのを聞いて、そんなことを考えました。 人は成長するにつれてなぜ質問をしなくなるのか、問いを持たなくなるのかということを先月の研究講座で先生方と考えました。
ジャーナリストのWarren Bergerは5つの理由を挙げています。”fear (恐れ)” “knowledge (知識)”, “bias (先入観)”, “hubris (傲慢)”, “time (時間)” “Though many young children start out as fearless questioners, they gradually get the message—from teachers, parents, other kids—that asking a question carries risks, including the risk of revealing what they don’t know and perhaps ought to know.” Warren Berger (2018) The Book of Beautiful Questions 40度に届くと思われる炎天下の歩道を歩いているとバスを待っていた年配の方から声をかけられました。「今、何時ですか。」 3時7分ですと応えたその瞬間に、子どもの頃、腕時計をするようになった中学生以前にはよく見知らぬ大人にたずねた質問の一つだったと思い出しました。そう考えてみると、5つの理由に加えて、technologyを身につけたことで直接人に尋ねるという行為が減ったと言えそうです。 質問です。 ① 最近誰かから良い質問を受けましたか。それはなぜ良い質問だったと言えますか。その逆に、誰かにじっくりと考えさせる問いを投げかけたことがありましたか。どのような仕掛けを考えましたか。 ② インターネットで検索する行為も答えを求めるという点では、人に対して質問をする行為と同じですが、根本的に異なる点は何でしょうか。 なぜ現代の人々にCritical thinking skills が欠けているのかという問いに経営改革が専門のBouyguesも同様に分析しています。 “I think one of the reasons why it’s more difficult in today’s day and age is that we live in a world of incessant distraction and technology is often to blame as well.” “And part of the necessity of critical thinking is having that ability to take a step back and actually think about your own thinking.” (2023) そして好奇心を持ち続け、「もし○○だったら」という問いを自分自身に投げかけることが批判的・構造的思考力を伸ばすために必要なことの一つと指摘しています。 人への問いかけを考察していくうちに、自分への問いかけの習慣も関連しているということに気がつきました。私は「なぜ今もここにいるのか」という問いを今学期自分に投げかけようと思います。 夏休みの第一週目、月曜から金曜日まで午前と午後の二枠、合計で十枠を提供し、自分たちがやりたいことを企画提案して参加者を募り、実際に運営してみんなと楽しむ。こんな簡単で単純な複合イベントを試してみました。題してFestival of Wonders。
常識的な方法を用いずに絵を描く「芸術は爆発だ」、スマホでハッとする写真を撮る「スマホでフォート」、大切な人に花束を作る「フラワーアレンジメント」、商品として売れないオレンジを農園から譲り受けフレッシュジュースを作る「ジュースショップ」、最近校内で人気の麻雀を「麻雀は人生に似ている?」と銘打って遊ぶ、デジタル新聞創刊号の作成、七夕前夜祭コスプレ大会、ナゾとき大会、プログラミングワークショップなどの個性的なイベントが並びました。 質問です。 ① 選択肢の中から選ぶというのではなく、子どもたちが純粋に自分たちがやりたいことを提案し、準備し、実行する機会や場所を保証したら、どんなことをやり出すでしょうか。それが私的な場ではなく「学校」という公的な場所だったら可能でしょうか。それを拒むものは何でしょうか。 ② 子どもたちのAgency、物事の選択権や決定権を他のstakeholders(利害関係者)と同様に持ち、物事を企画・運営する裁量権を共有すること、をどのように認め共存していけば良いのでしょうか。 学校教育の主役である子どもたちがAgencyを持つことは当然のことであり、教職員や保護者の方々、さらに地域とCo-agencyを築くことは、OECDの提案にもあるように時代の趨勢でしょう。けれども、この必然性のある動向に共鳴して教育活動や運営のし方を改革している学校は少ないだろうと予想できます。この方向性が現実のものにはなりにくいのはなぜでしょうか。 まず、多くの学校には子どもたちも先生方も自由に使える時間がない。精神的にも余裕がないこと。そして、子どもたちがAgencyを共有する意義や目的は、学校が大切にしている物事の優先順位や価値観と一致しない、という理由が考えられます。さらに、十分に準備をして失敗のないようにという完璧主義、安全管理面での入念さも影響しているかもしれません。 今回実施に移るときに考えたことは、とにかくすぐに試してみるというagility すばやさでした。 “What can I do with what I have?,” it enables us to “bypass the paralysing trap of waiting to get more in order to do more." Scott Sonenshein (2017) 「今あるもので何ができるか」、それは「より多くのことをするために、より多くのものを手に入れるのを待つという思考停止の罠を回避する」ことを可能にします。 先生方と話していた時に、偶然話題がDialogueにすすみました。その語源は何だろうという単純な疑問が持ち上がりました。そのことが頭の片隅にあったので帰宅後に調べてみると、dia ‘through’ + logos ‘word’ というラテン語の語源が元になっていることがわかりました。そしてこの語源通りに、自分自身が言葉を通して考えたり表現したりすることをどれほど大切にしているかを振り返るきっかけになりました。
前回はmicro-aggressions (微小攻撃)について考えてみましたが、自身の意識の中にある偏見に気がつくという内省的な行為が大切であることが明らかになりました。日常的な行為として私たちはdialogue (対話)をしているでしょうか。 質問です。 ① 私たちの生活の中にdialogueを通してより良いものを創りあげる習慣やシステムが健全に働いているでしょうか。もし機能していないとすると、その理由は何でしょうか。 ② Monologue (独白、一人芝居)が独り歩きを始めてしまい、dialogueの成立を抑えている場面や実例を感じる場面はないでしょうか。 Debateの根本的なルールは、自分の主張を突き通して相手の主張や議論を崩すことにあります。今の私たちにそのような攻撃性が必要かどうか。正解がひとつではなく、どの選択肢も正解になり得る可能性がたくさんあることに気がつくと、ひとつの主張を推し進めることにほとんど価値がないことに気がつきます。それほどにOpen-endedな課題があふれているということは、社会に存在する課題が複雑化したこと、社会の多様性の度合いが進んだからかもしれません。 対話が成立しない理由、MonologueやDebateになってしまう理由を、最近考えています。今日は、ここ数週間の命題について考えていると奇しくもまったく異なる文献に心理学者Daniel Kahnemanの引用を見つけました。 “Overconfidence arises because people are often blind to their own blindness, sincerely believe they have expertise, act as experts and look like experts.” 「自信過剰が生じるのは、人は往々にして自分の盲点に気づかず、自分には専門知識があると心から信じ、専門家として振る舞い、専門家のように自分を見るからです。」 私たちが職業としての仕事に従事する中で、自分の経験や学びが限られたものであることを認識できるかどうか、その謙虚さを身につけることはむずかしいことです。さらにそれを他者に気づかせることはとてつもなくむずかしい技です。 自分が発した何気ない一言や誰かに言われた一言がいつまでも頭に残ることがあります。
自分が言った言葉の場合には、果たしてそれが適切であったか、相手を傷つけていないかなど、一旦気になり始めると居ても立っても居られない状況にさえなります。一方、誰かに言われた(書かれた)場合には、相手の真意を探る過程でたいていは否定的な結論にたどり着き、苦い後味が残ります。 助詞一つの使い方をあやまっただけでも意味が完全にひっくり返る可能性があることを意識すると、学校や教室の中では一体どのような状態なのでしょうか。 “One criticism of discourse about microaggressions is that our society has become “hypersensitive” and that casual remarks are now blown out of proportion.“ Ella Washington (2022) Harvard Business Review 「マイクロアグレッション(微小攻撃)に関する議論の批判として、私たちの社会が「過敏」になり、何気ない発言が大げさに扱われるようになったというものがあります。」 質問です。 ① 私たちが子どもたちと交わす会話の中に、攻撃的な要素があったと振り返って感じることがあるでしょうか。 ② 様々な人との関わりの中で、相手に対して攻撃的であったり尊重していないと感じた時、私たちはどのような軌道修正の方法を取ると良いのでしょうか。 学習活動の中で担当の先生の表現の仕方や言葉遣いが生徒たちを傷つけていると、クラスの代表として直接その先生に直訴した生徒がいました。大人の世界では、攻撃的な言動があまりにも日常的に起こるので感受性が鈍っていますが、子どもに対しては本当に気をつけなければならないということをあらためて認識しました。 “Ultimately, getting better at noticing and responding to microaggressions — and at being more aware of our everyday speech — is a journey, one with a real effect on our mental health and well-being at work. Microaggressions affect everyone, so creating more inclusive and culturally competent workplace cultures means each of us must explore our own biases in order to become aware of them.” Ella F. Washington 「結局のところ、マイクロアグレッションに気づき、対応できるようになること、そして日常会話にもっと意識を向けることは一種の旅であり、職場のメンタルヘルスと幸福に実際に影響を与えるものです。マイクロアグレッションはすべての人に影響を与えるので、より包括的で文化的能力の高い職場文化を作るには、私たち一人ひとりが自分の偏見に気づき、それを探る必要があります。」 偏見や思い込みに気がつくということが自分の言動から棘を抜くためにとても重要な要素だと思います。 先月私立中学校フェアという学校説明会がありました。親子4人組の番になりましたが、対面には椅子が2脚しかありません。その時、受験生の弟さんらしき幼児が私の椅子の隅にちょこんと座りました。ご両親は申し訳なさそうにしていましたが、あまりにも自然な早業だったのですぐに肝心の質疑応答に入りました。
やがてこの幼児から体温が伝わってくると、子育てをしていた頃の体験や体感が甦ってきました。 家から学校までの道に、Australiaの家の庭にあるものと同じ種類の植物が3軒の庭にあることをこちらに越してきてすぐに見つけました。昨日の朝はそのうちの1軒で満開でした。自分の庭にあるその木のことを想像しました。 質問です。 ① 私たちは五感を通して伝わってくる情報から何かを認知するだけでなく、自分の意識や思い出にある物事との接点を探り出します。その瞬間の感性や心持ちは、どのような状態なのでしょうか。 ② 子どもの感情を私たちは五感を使って感じ取っているでしょうか。わからない、できないという苦しみに共感する感受性や謙虚さを常に持っているでしょうか。 Steve Jodsが自分に宛てたmailがあります。 "I grow little of the food I eat, and of the little I do grow I did not breed or perfect the seeds. I do not make any of my own clothing. I speak a language I did not invent or refine. I did not discover the mathematics I use. I am protected by freedoms and laws I did not conceive of or legislate, and do not enforce or adjudicate. I am moved by music I did not create myself. When I needed medical attention, I was helpless to help myself survive. I did not invent the transistor, the microprocessor, object oriented programming, or most of the technology I work with. I love and admire my species, living and dead, and am totally dependent on them for my life and well being.” Email sent on September 2, 2010. 「私は、生きている人も亡くなった人も、人間を愛し、賞賛し、自分の生活と健康を彼らに完全に依存しています。」 晩年のSteve Jobsが自身の感覚を通して、自分と自分を取り巻く環境との関係を謙虚に見つめている様子が伝わります。 |
Author萩原 伸郎 Archives
11月 2023
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