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Shame

27/2/2021

 
Brene Brownは罪悪感と恥の違いについて的確に説明しています。
“Guilt = I did something bad. Shame = I am bad.” Dare to Lead

罪悪感は私たちが自分の行動を律する際や振り返る時の「ものさし」であるように思います。一方の恥は不名誉やばつが悪いなどの同意語が示すように、他人の評価を意識した感覚や感情であるようです。

Francisco Xavierの書簡の中に、その例にあたる興味深い記述があります。「彼らの名誉心は、特別に強烈で、彼らにとっては、名誉がすべてである。日本人は、たいてい貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱と思っている者は一人もいない。」(1549年11月5日) 

質問です。
  1. 善悪の判断と良心にもとづいた行動は誰にでも自然にあらわれるという考え方と、人には本来罰則がないと行動を規制することはできないという考え方があります。その罰則が意図的に「恥をかかせる」ことを念頭に置いていると感じられる例があるでしょうか。 
  2. 校則や教室内の慣例の中には達成の励みになる場合とまったく正反対の恥を生むことになる場合が混在していることがあります。「恥」の文化が潜んでいることに気がつくことはないでしょうか。

日本に入国して3日目に厚生労働省から健康状態確認のmailが届きました。 14時までに「回答がない場合は、入国時に提出いただいた誓約書に基づき、氏名公表等の対象となり得ます。」とあります。名前が公表されるとあなたは恥をかくことになりますよ、という脅しから正しい行動を促すという「作戦」です。

”Shame is not a compass for moral behaviour. It’s much more likely to drive destructive, hurtful, immoral, and self-aggrandising behaviour than it is to heal it.” Brene Brown 

「恥は道徳的な行動の指針にはならない。」という指摘に賛同したいと思います。

市中感染が皆無の地域から陰性証明を持って入国した人間は、日本の中では一番安全な部類の人間ですが行動は規制されています。一方で、窓から眺める人々の往来やあらゆる種類の車の移動の様子から感じることは社会がpandemicを意識せずに動いているということです。勇敢なのか、無謀なのか。推移を見守りたいと思います。

All labour has dignity

20/2/2021

 
Pandemicの最中、勧告や規定に反して海外に移動しようとすると様々な関所を通らなければなりません。そのうちのひとつの関所では出国の72時間前以内に発行されたCOVIDの陰性証明書を提示しなければなりません。

PCR検査の予約は18日の14時でした。思いのほか苦痛の伴う検査を終え、結果はmailとmessageで送られてくることを涙目で聞きながら診察室を出ました。陰性の結果は19日早朝4時過ぎに届きました。誰か見知らぬ人が夜を徹して仕事をしていたのです。

質問です。
  1. 自分のする仕事や作業の受け手が見える場合(職種)と見えない場合(職種)があります。仮に受け手が見えないとしても、仕事への強い意欲や使命感、高い道徳意識を持って仕事を遂行する人々の中には何があるのでしょうか。 
  2. 学校の先生方の仕事は明らかに受け手が見えます。仕事の行き先が見えることで一層努力するきっかけになる場合とその逆に妥協や馴れ合いを生む例があると思います。その分かれ道を決定づける要素は何でしょうか。

Michael Sandel教授は近著 The Tyranny of Merit の中で現代の能力主義社会の歪みを論理的に幅広く証明し、読者の中にある醜い潜在意識を揺さぶります。同名のTED Talkの中でKing牧師が暗殺される少し前の発言からの引用がありました。 
"The person who picks up our garbage is, in the final analysis, as significant as the physician, for if he doesn't do his job, diseases are rampant. All labour has dignity." 

「ごみを拾う清掃員(の仕事)は医師と同等の重要性があります。なぜなら、もしその仕事を怠れば病気が蔓延するからです。すべての仕事に尊厳があります。」

取り上げた報道機関は少なかったようですが、2月18日に全世界のCOVID感染者数が前の週と比較して16%減少したというWHOの発表がありあました。

長い暗闇の中で一条の光が差し込んできたことを感じさせるNewsの裏には、数えきれない人々の仕事があったことは明らかです。そして私たちは尊い仕事をする人々を常に意識する必要があるでしょう。The Guardian紙の編集委員の今週の言葉を借りると、
“They give us hope and make us more likely to take positive action ourselves. Though there might be a lack of drama, danger and jeopardy, things going right can be just as newsworthy as things going wrong.” ​

昔話

13/2/2021

 
民俗学の研究者である宮本常一さんは全国の村を歩いてそこに住む人々の話を聞きました。『忘れられた日本人』の岩波文庫版(1984)のあとがきに「いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きて来たかを描いて見ようと思うようになった。それは単なる回顧としてでなく、現在につながる問題として、老人たちのはたして来た役割を考えて見たくなったからである。」とその理由を述べています。

私はこれまで、意識をしてあるいは目的を持って高齢者の方々と対話をしてきた体験が薄かったと思います。そのことで得ることができたはずの情報や二次的体験の損失量は計り知れないという事実に直面しています。

前に進むことだけが最善の選択肢という潜在意識が昔の話を聞くという謙虚な態度や習慣を潰してきたのだと思います。

質問です。
  1. 私たちの生活、社会、組織は前に進むことが成果でありそこに価値を見出すことができるという認識がありますが、「進歩にたいする迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解」(宮本常一 1993) している例があるでしょうか。  
  2. 昔の話、子どもたちが体験したことのない時代の生活や価値のある知恵を次世代につなげていくにはどのような方法があるでしょうか。

New model、update、upgradeという歯車の中にいることが世の中の革新や進歩を導き出すという保証はありません。

2016年の1月にCzechの各地の学校を人伝をたどって訪問しました。人口1万3千人程のいなか町の小学校を訪問した朝は零下17度まで下がりました。子どもたちが歩いたであろう凍った道を歩いてその学校にたどり着きました。巨大なUSSRの影響のもとに建てられたことがわかる校舎でした。

昼休みに子どもたちは1階の食堂へ集まります。そこでは地域のお年寄りの方々も楽しそうに子どもたちと昼食を食べていました。歩いて学校に来れない高齢者にはvolunteerが給食を家まで届けます。

私もいただいたその日のmenuはhot chocolate、pancake with cream and jamでした。何と自然であたたかく、しかも地域の人々をつなげるために余分なお金のかからない方法なのだろうと感心しました。何よりも子どもたちとお年寄りの方々の笑顔が印象に残っています。一緒に食べながらきっとお年寄りが昔話をして、それを子どもたちは聞いていたことでしょう。

全体意志と普遍意志

6/2/2021

 
1月31日日曜日の昼過ぎ、その日の18時からWestern Australia州の中心部のLockdownが発令されるという情報が走りました。

Western Australiaには毎週500人程度の人が海外から入国します。それらの人は到着後2週間州が指定する宿泊施設で隔離に入りますが、そこで働いている人が英国の変異種に感染していることが判明したことからの判断でした。実に10か月ぶりの驚きの出来事でした。

感染者は1名。州の約200万人以上の行動や移動を2月5日18時まで完全に止めました。一番の「迷惑」を被ったのは学校でしょう。翌日2月1日は2021年度の新学年の初日で、各学校は第1週目の様々な準備や行事を万端に整えた矢先で出端をくじかれました。

その後感染者は出ず、5日18時にLockdownは解除されました。

質問です。
  1. Lockdownは過剰反応だったのでしょうか。それとも必要な措置だったのでしょうか。その判定の分かれ目となる基準は何でしょうか。あなたがもしその判断を下す立場にいたら、どの選択肢を選ぶでしょう。  
  2. 日本の国や自治体を運営する人々に物事の迅速な判断力や決断力があまり見られないのはなぜでしょうか。

18世紀の思想家Rousseauは『民約論』の中で、全体意志(みんなの意志)と普遍意志(真理に相当する正しい意志)について論じています。今回の一連の出来事では州の判断によって様々な人々が「迷惑」を被ったにも関わらず、COVIDのない自由な生活を取り戻したいという全体意志が普遍意志になったように感じました。

「そうなるためには、一人一人が真理を知る能力をもった人になり、正しいことを意志する人になるよりほかはありません。それはどうして可能かと言うなら、一人一人をそのような人間に育てるよりほかはない、ということになるのです。こうして全体意志によって政治を行うという民主政治が正しい意志をもって政治が行われることになるためには、みんな、つまり民主政治のもとでの主権者である国民の一人一人が、普遍意志をみずからの意志とし、真理を見抜くことのできる人になるように教育されるよりほかはない、民主政治が真にすべての人民のための政治になるためには、みんながそのような人として教育されるよりほかはないということになります。それが「民約論」の帰結だったと言っていいのです。」梅根悟 (1971) ルソー「エミール」入門

教育の研究が人々の利益のための最大の研究課題であると考えたRousseauはEmileを同じ年1762年に出版します。私たちの仕事の本質的な意味をあらためて提示された思いです。

    Author

    萩原   伸郎

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