自分が発した何気ない一言や誰かに言われた一言がいつまでも頭に残ることがあります。
自分が言った言葉の場合には、果たしてそれが適切であったか、相手を傷つけていないかなど、一旦気になり始めると居ても立っても居られない状況にさえなります。一方、誰かに言われた(書かれた)場合には、相手の真意を探る過程でたいていは否定的な結論にたどり着き、苦い後味が残ります。 助詞一つの使い方をあやまっただけでも意味が完全にひっくり返る可能性があることを意識すると、学校や教室の中では一体どのような状態なのでしょうか。 “One criticism of discourse about microaggressions is that our society has become “hypersensitive” and that casual remarks are now blown out of proportion.“ Ella Washington (2022) Harvard Business Review 「マイクロアグレッション(微小攻撃)に関する議論の批判として、私たちの社会が「過敏」になり、何気ない発言が大げさに扱われるようになったというものがあります。」 質問です。 ① 私たちが子どもたちと交わす会話の中に、攻撃的な要素があったと振り返って感じることがあるでしょうか。 ② 様々な人との関わりの中で、相手に対して攻撃的であったり尊重していないと感じた時、私たちはどのような軌道修正の方法を取ると良いのでしょうか。 学習活動の中で担当の先生の表現の仕方や言葉遣いが生徒たちを傷つけていると、クラスの代表として直接その先生に直訴した生徒がいました。大人の世界では、攻撃的な言動があまりにも日常的に起こるので感受性が鈍っていますが、子どもに対しては本当に気をつけなければならないということをあらためて認識しました。 “Ultimately, getting better at noticing and responding to microaggressions — and at being more aware of our everyday speech — is a journey, one with a real effect on our mental health and well-being at work. Microaggressions affect everyone, so creating more inclusive and culturally competent workplace cultures means each of us must explore our own biases in order to become aware of them.” Ella F. Washington 「結局のところ、マイクロアグレッションに気づき、対応できるようになること、そして日常会話にもっと意識を向けることは一種の旅であり、職場のメンタルヘルスと幸福に実際に影響を与えるものです。マイクロアグレッションはすべての人に影響を与えるので、より包括的で文化的能力の高い職場文化を作るには、私たち一人ひとりが自分の偏見に気づき、それを探る必要があります。」 偏見や思い込みに気がつくということが自分の言動から棘を抜くためにとても重要な要素だと思います。
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先月私立中学校フェアという学校説明会がありました。親子4人組の番になりましたが、対面には椅子が2脚しかありません。その時、受験生の弟さんらしき幼児が私の椅子の隅にちょこんと座りました。ご両親は申し訳なさそうにしていましたが、あまりにも自然な早業だったのですぐに肝心の質疑応答に入りました。
やがてこの幼児から体温が伝わってくると、子育てをしていた頃の体験や体感が甦ってきました。 家から学校までの道に、Australiaの家の庭にあるものと同じ種類の植物が3軒の庭にあることをこちらに越してきてすぐに見つけました。昨日の朝はそのうちの1軒で満開でした。自分の庭にあるその木のことを想像しました。 質問です。 ① 私たちは五感を通して伝わってくる情報から何かを認知するだけでなく、自分の意識や思い出にある物事との接点を探り出します。その瞬間の感性や心持ちは、どのような状態なのでしょうか。 ② 子どもの感情を私たちは五感を使って感じ取っているでしょうか。わからない、できないという苦しみに共感する感受性や謙虚さを常に持っているでしょうか。 Steve Jodsが自分に宛てたmailがあります。 "I grow little of the food I eat, and of the little I do grow I did not breed or perfect the seeds. I do not make any of my own clothing. I speak a language I did not invent or refine. I did not discover the mathematics I use. I am protected by freedoms and laws I did not conceive of or legislate, and do not enforce or adjudicate. I am moved by music I did not create myself. When I needed medical attention, I was helpless to help myself survive. I did not invent the transistor, the microprocessor, object oriented programming, or most of the technology I work with. I love and admire my species, living and dead, and am totally dependent on them for my life and well being.” Email sent on September 2, 2010. 「私は、生きている人も亡くなった人も、人間を愛し、賞賛し、自分の生活と健康を彼らに完全に依存しています。」 晩年のSteve Jobsが自身の感覚を通して、自分と自分を取り巻く環境との関係を謙虚に見つめている様子が伝わります。 昨日の花屋さんはとても混雑していました。レジの行列の中に塾のカバンを背負った小学生が3人並んでいました。それぞれが1本のカーネーションを持っています。母の日のプレゼントなのでしょう。しばらくして、きれいな袋をさげて店から出てきました。
“Mother is a verb. It’s something you do, not just who you are.” という表現があります。自分が育ててもらった事実を思い起こすと「してもらった」という受動態の動詞ばかりが思い出されます。一方、子育ての経験を振り返ると、「した」という動詞の過去形が並びます。 母親から自分に向けられた動詞の種類と頻度が多ければ多いほど、そしてその影響力の認識が深ければ深いほど、母の日への感謝の気持ちが大きくなるのでしょう。 質問です。 ① Teacher is a verb. と言えるでしょうか。 ② Student is a verb. とも言えるでしょうか。 教師という名詞が職務を決めるのではなく、教師が子どもたちや学校共同体に何かを働きかけることで、仕事の「意味」や「価値」が生まれてくるのでしょう。一方、生徒については、自分や他者からの定義で受け身の行動を選択するのではなく、自らが興味や関心のある物事に働きかけたり行動したりすることで、生徒としての存在意義が生まれ、様々な領域で成果をあげる個人に成長するのでしょう。 母親、教師、生徒という立場や役割を各自が動詞としてとらえると、するべき仕事や責任が明確になってきます。そこに向かう意識も強くなってくるように感じます。この内発的な力の強さが成果に差を生むのではないでしょうか。 ところで、その動詞は時と場合によって増えることも減ることもあります。先日の新聞に、ある作家が子どもの成長を通して持った複雑な感情を綴っていました。 “My daughter has booked in her driving test and I know if she passes, it will mean she’ll borrow my car without me in it. And as much as I want her to pass, I’ll also miss the hours we’ve spent, sitting side by side, learning something new about each other.” Nova Weetman (2023) The Guardian 「娘が運転免許の試験を予約しました。もし合格したら、私が乗っていない私の車を借りることになります。娘に合格してほしいのは山々ですが、並んで座り、お互いの新しい事を知りながら過ごした時間が恋しくなります。」 親として子にする「動詞」が減ることはうれしいことでもありさびしいものでもあります。 Debateの世界大会の地区予選が学校で開催されているので見に行きました。対する2つのチームには提示されたstatementについて15分間の準備時間を与えられます。Device (internet) を使ってリサーチすることも可能なので、両チームは賛成か反対の立場でどのように議論を展開するかを考え、適切で説得力のあるデータや資料を懸命になって集めます。
この15分間にgenerative AI を使っていたチームはありませんでしたが、もし使うとすると強力な道具になるはずです。そうすると人間がdebate大会で挑戦する目的は何になるのでしょうか。 “The dilemma for educators is that routine cognitive skills, the skills that are easiest to teach and easiest to test, are exactly the skills that are also easiest to digitise, automate and outsource.” Andreas Schleicher (2018) 教育者にとってのジレンマは、最も教えやすく、最もテストしやすい定型的な認知能力は、まさにデジタル化、自動化、アウトソース化しやすい能力であるということです、という指摘通りの状況になりました。 けれども学校や教育行政は、この現実に直面せずに、より正確に表現すると、教育や学習の本質的な目的を直視せずに、ICTの活用を試験などの場面で規制するという方法でごまかしてきたように感じます。 一方、ICT推進派の議論も怪しいものです。ある教育研究団体のAI活用についての白書のまとめにはこうありました。 “Ultimately, AI can help create a more equitable, effective, and enjoyable learning environment for all students.” Getting Smart (2023) 質問です。 ① 10数年前から各学校で本格的に始まったICTの導入で「より公平で効果的で楽しい学習環境 」をどの程度実現しているでしょうか。評価基準となる共通の指標があるでしょうか。 ② 学校で「より公平で効果的で楽しい学習環境 」が十分に実現されていないとすると、その要因は何でしょうか。 ③ AIを教育に活用して「より公平で効果的で楽しい学習環境 」を具現化するという表現は、単なる宣伝文句でしょうか。どのような方法が可能でしょうか。 さて、先週World Economic Forumが発表したThe Future of Job Report 2023には恒例のTop 10 Skillsや職種の将来像などがありました。ここから、これまでにはない変化を読み取ることができました。これも一過性のtrendでしょうか、それとも本当に社会がその方向に動いているということでしょうか。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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