世界規模の危機的な状況下で各国政府の判断や国民への伝え方、報道機関の情報提供の速さや内容などを比較すると、いろいろなことが見えてくるような気がします。
司馬遼太郎さんがNHKの番組の中で語っていた言葉を思い出します。「国を運営している人々がなぜこんなにお粗末なのか。要するに世界というものがわからない。そして人々というものがわからない。 戦術はわかっても、戦略はわからない。 戦術レベル、少佐レベルまでは日本人は優秀であります。ところがそれより上へいくと、グローバルに物を見なければならない。そして、ひとつのアクションをやるとリアクションがかえってくる。リアクションは世界の規模で考えなければならない。世界の規模は、外交感覚だけではなくて、経済とか人の心とか、いろいろのことから総合しなくてはならない。」(ETV8「昭和への道」1986年) 質問です。
国内の感染者数が102人になった3月23日に緊急事態宣言を出したNew ZealandのArdern首相が語りかけるように国民に伝えた発表が印象的です。 “I have one final message. Be kind. I know people will want to act as enforcers. And I understand that, people are afraid and anxious. We will play that role for you. What we need from you, is support one another. Go home tonight and check in on your neighbours. Start a phone tree with your street. Plan how you’ll keep in touch with one another. We will get through this together, but only if we stick together. Be strong and be kind.” 私たちの学校では自主的に自宅待機を選択する家庭が先週になって急増しました。月曜日は33%、火曜日は43%、水曜日には56%、そして木曜日には65%の子どもが欠席しました。金曜日は休校日にして、教職員が30日から始まるOnline learningの最終的な準備をしました。 医療や生活基幹産業に携わる保護者の子どもたちのために学校は開けますが、教室での学習活動はしません。子どもたちがいない学校はさびしいものですが、100% onlineで学習を続けることを楽しみにしています。今までできなかったこと、考えもしなかったことを実践してみようと思います。そして、もしかしたら学校教育の枠組みの抜本的な改革のきっかけになるかもしれないという予感を感じています。
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Australiaには英語を母国語としない海外の学生を対象にした英語学校があります。先日Perthの英語学校に通う日本人の中学生と会いました。中学生の彼が単身で参加するのはかなりの度胸と勇気と明確な目標があるからなのだろうと思います。さらにこのpandemicと重なっているので、ご両親はさぞご心配だろうと思いました。
ホームステイの話を聞くうちに、週末に滞在先の家を出て、学校の近くにある寮に移らなくてはならないということを話してくれました。彼のコースはまだ1週間残っています。その理由は、彼が日本人なのでホストファミリーは新型肺炎に感染している可能性があると疑いはじめたのだそうです。 理不尽で残念な仕打ちですが、彼はさらりと「2週間のホームステイができ、残りの1週間は寮で生活することができて幸運です」と言いました。 またある日の帰宅中の電車の中では、中年の女性が突然血相を変えて捲し立ててきたそうです。雰囲気から「お前たちアジア人がウイルスを撒き散らしている」というようなことを言っているらしいと判断がつきました。すると、近くにいた男性がその女性の言動を止めました。 彼は言いがかりをつけてきた人がいたという事実よりも、助けてくれた人がいたということに感謝と喜びを感じていました。 質問です。
ところで、この中学生が2週間の滞在で体験したことは、pandemicの異常時にはどこでも起きる可能性がある人間の異常行動です。私たちはそれらの数々の歴史的事実を知っているだけでなく、理性と道義に従って行動するべきであることも知っています。しかし残念なことに似たような「事件」は世界各地で起きています。 Challenge Based Learningのクラスで発信しているpodcastにも同様の事件を取り上げているグループがあります。このような異常な時期だからこそ大人としての自分は正常な行動を取らなければならないと強く感じています。 課題解決学習 (Challenge Based Learning) をやり終えた東京の高校2年生の生徒さん方の振り返りが送られてきました。通常の教科とは異なるこの学習機会を意欲的に受けとめることから始まって様々な壁に直面しながらも考えて行動することを続け、一人ひとりが達成感を手にした様子と感動が伝わってきました。
それぞれの経験から学んだことが述べられていく中で、課題解決学習の存在理由Whyが明確になっています。 質問です。
学習活動の振り返りは子どもたちのMeta-cognitionを育てるのに有効なだけでなく、私たちの立てた学習計画、内容、教材、評価、学習環境などのすべてを分析し改善するための大切な資料になります。私たちの学校でもSemester末に子どもたちにCBLの振り返りをしてもらいます。質問に一捻りして子どもたちの本心を探ります。 いつも回答が一番気になる質問は「CBLを来年以降の9年生に勧めますか。それはなぜですか。」です。昨年の前期には85%、後期は88%の子どもたちがYesと回答してその理由を述べてきました。子どもたちの支持を受けることなしには存在理由Whyを主張できないと考えています。 連休の中日の朝、70名ほどの子どもたちが海岸に集まりました。これから海岸や海岸周辺の道路、公園、bush (雑木林や森)を歩いてゴミ拾いをします。
私の仕事はスクールバスで各グループを作業開始地点まで連れて行き、その後周囲を巡回して子どもたちを見守ることです。それからしばらくの間、朝陽を浴びて嬉々として作業をする子どもたちを運転席から見続けました。 自分が彼らと同年齢の頃、地域のため、世の中のために手を汚し汗をかいたことがあっただろうかとふと思いました。恥ずかしながら、中高生の時にそのように時間を使ったことはありません。学校の掃除当番さえまともにやり遂げたことはありません。 私たちの学校の子どもたちは、放課後に地域のホームレスの人々に食べ物を届けたり、高齢者の住宅の庭仕事をしたり、様々な理由で住む家を失った女性たちが集まる家の修繕をしたりと人々のために働いています。作業をしながら常に明るい表情をしています。 質問です。
最近の日本人が使う日本語では説明が難しく、そのような感性ももしかすると弱くなっているかもしれないと思われる対の言葉、Empathy (the ability to understand and share the feelings of another) と Sympathy (feelings of pity and sorrow for someone else's misfortune) の違いについて考えることがあります。私たちに行動を起こさせるのは “Empathy” の方です。”Once empathy is activated, compassionate action is the most logical response.” (Dr. Helen Riess) SDGsを入口として各地で大人や子どもたちが学習活動や自主的な行動をしている様子を目にします。誰もが変革者としての意識を持って行動することは、人類の未来にとってすばらしいことで喜ばしい社会的行動だと思います。しかしながら同時に、哀れみの感情に支配された Sympathy からEmpathyの域まで感情と思考を練り上げていけるか、論理的に現実的に問題を掘り下げることができるか、解決策を直感する能力があるか、そのような「筋肉」を鍛えることが最重要だと感じています。 |
Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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