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分数

30/5/2020

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数学の先生にたのまれて7年生の分数の導入動画を作りました。導入だけでは意味がないので、単元にあるすべての学習内容を含めた続編も作ることにしました。

毎年5月には全豪で英数の習熟度診断調査が実施されます。5年ほど前に数学に苦手意識がある子どもたちの「傾向と対策」のためにiTunes U courseにHave Sum Funを発信し全世界で使えるようにしました。このような評価対策は私の教育的信条に反しますが、この診断調査の結果次第で後々まで子どもたちに付きまとわる「不幸」を避けるための方策でした。

その際に分数を含めなかったことが頭の片隅にあったので、今回の動画を入れておこうと思い立ちsiteを久しぶりに開けました。すると予想外のdownload数があり、この学習資料が世界中で使われていることがわかりました。Pandemicの影響がこんなところにも出ていることを知りました。

質問です。
  1. 学習活動に使う教材や資料、評価材料を、既成の物を使わずに自作することの利点と留意するべき点は何でしょうか。
  2. 校内の学年や教科内で、あるいは校外の研究会などの中でお互いの自作教材等を共有しあう習慣は一般的でしょうか。それをさえぎる課題は何でしょうか。

学校を閉鎖している期間には、先生方が相当な数の教材などを個人的に作られていただろうと想像できます。お互いに時間を有効に使うためだけでなく、教材分析や教材作成の技術の向上のためにも、先生方の自作教材や何をどうすれば良いかという専門的な知恵をより積極的に共有してみてはどうかと考えます。

RousseauはEmileの冒頭の部分で「自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分にたいして、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全体との関連において決まる。」と述べています。

私たちは社会や組織の構成員としての存在をみれば分子になりますが、基本的人権や自由意志、価値観、信条にかんしては整数であると思います。さらに組織内全体からみた中での分子1であっても、全体に埋もれた1ではなく、他の分子1と同等であることが必要だと思います。

日本語で分数を読むときは(分母)分の(分子)と表現しますが、英語では(分子) (分母-序数詞)と逆に表現します。言語には使い手やその地域の文化や価値観、思想やあらわれます。全体が大切にされているのか、個が大切にされているのかの文化的暗示のような気がします。
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Kodachrome

22/5/2020

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​火曜日の朝、学校に向かう車のラジオから流れてきたのはPaul SimonのKodachromeでした。73年の当時、曲名が商品名なので公共放送局のBBCや豪のABCでは放送されませんでした。

懐かしい曲を聴きながら二つのことを考えました。ひとつは歌詞からです。「高校で習ったくだらないことをふりかえると、本当に不思議だよね。学歴がなくても困っていないもんね。」
“When I think back on all the crap I learned in high school, it's a wonder I can think at all. And though my lack of education hasn't hurt me none. I can read the writing on the wall.”

教科書をなめるように進む講義に興味や関心が萎え、意味を見つけることもできずに悶々としていた私自身の高校生活は白黒写真です。果たして目の前の子どもたちにとって、毎日は天然色の写真のように輝いているのか純粋に疑問に思います。

二つ目に考えたことはKodakの運命です。Digital cameraをはじめて製作したのも、消費者の写真の共有行動を商品化する構想を描いたのもKodakでした。最先端の技術と意匠を持っていたにもかかわらず、それらを敵にまわす形で消滅してしまいます。

質問です。
  1. 私たちが子どもたちに提供している学習内容や活動は、本当に子どもたちの将来に必要で役に立つ知識と技能を育んでいると自信を持って宣言できるでしょうか。たとえば、基本的な生活力や総合的な問題解決能力を育んでいるでしょうか。
  2. 将来の方向性を認識していたKodakが、企業としての経営や製品・商品に積極的に反映させなかったのはなぜでしょうか。
​
Kodakの失敗は、これまでの成功や既成事実に安住していると、何ができるか何をするべきかという自問自答の習慣、つまり組織の中での改善や革新の文化を失うことの実例であるという見方ができます。

その視点で学校や教育行政をみると、存在理由にかかわる本質的な仕事の中に改革の文化の片鱗を見出すことは難しいように感じます。卑近な表現を使って一例を挙げると「前年踏襲」です。何年も前から続けていることを安直に伝統と呼ぶことは、少々無理があると思います。なぜなら価値がある物事を継続することで伝統がうまれるからです。そこにさらに付加価値がついて学校の文化という財産になると考えます。

COVID-19を機会に、学校の中にある無数の価値の低い慣例を一度ひっくり返してはどうでしょうか。
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正常化

16/5/2020

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夏目漱石は最晩年の1914年11月学習院で「私の個人主義」という題目の講演をしました。

個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論といった方が好いかも知れません。つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨張して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただ無暗に個性の発展ばかり目懸けている人はないはずです。

その「当然の話」がわからない大人が世界中にいます。黙って耐えているのは子どもたちだということが、彼らが書いてきた体験の振り返りから感じ取ることができます。一つだけ引用します。"Yes, ‘medicine can't cure stupidity'. People that refused to self isolate, bulk bought and didn't listen made the pandemic worse." 通読すると、自粛生活が世界中のどこの国や地域よりも短い期間だった私たちの住むWestern Australia州の子どもたちでさえ感情の安定を失ったことがわかります。

自由や権利を自己解釈した大人たちの行動は、子どもたちの目にはお手本とは映らなかったことは確かです。そして来週の月曜日から学校が完全に正常化します。

質問です。
  1. 学校の正常化で学習活動を再開することだけに意識が向いてしまいます。けれども、単純に以前の状態にもどすというのではなく、非常事態の際に体験したこと、発見したことをもとに、新しい方法や仕組みをさぐるために個人としてあるいは学校組織として考える際に基準となるものは何でしょうか。
  2. 子どもたちや保護者が体験を通して習慣化したことがたくさんあることでしょう。それらの中で価値があるものを残すことはできないでしょうか。

私たちの学校では、あたりまえの自由が狭められた反動、というよりは新発見であふれています。自分の好きなように使える時間がたくさんあること、time poorだった子どもたちや教職員が time richになった既得権は失いたくないと思っていることでしょう。開校以来対面で実施してきた保護者面談もonlineですれば効率よく時間的にも無駄のない方法だということもわかりました。賢い学校・学級運営が始まる予感がしています。

世界の各地で再開した学校の様子をこの記事から眺めました。学校にかかわるすべての人々にとって、学校の正常化が喜びと安堵につながることを念じています。
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Self isolation

9/5/2020

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​私たちのクラスのpodcast最新作は学校にもどってきた9年生二人が語るSelf isolation自粛生活の体験談です。典型的な14歳がいろいろ不満を並べながらも、要所では物事の道理を理解しています。二人とも学校にもどること、通常な生活にもどることが第一と感じています。それ故に自主的に登校している訳です。

一方でこの新聞の意見欄に載っている13歳の投稿は、自宅待機中にまったく異なった体験をしています。学校が様々な理由から安全で安心して学習する場ではないので、通わなくてよい日々は精神的な安定だけでなく知的な時間の発見になっています。最後に “schools use this opportunity to improve the learning experiences of all their students.” と締めくくっていますが、果たしてこの子は学校が再開したら以前のように通うのでしょうか。

質問です。
1.  唐突に訪れたonline learningや遠隔指導の機会は、先生方の教えること学ぶことの日常的な習慣のなかで看過されていたことを拾いあげ、意識的に努力する好機ととらえることは可能でしょうか。そうだとすると、最優先の課題は何でしょうか。
2. 子どもたちと保護者にとっては今回の体験から認識すること、学ぶことは何でしょうか。それらが今後の生活や物事の選択にどのような影響を与える可能性があるでしょうか。


Pasi Sahlberg教授がCOVID-19後の教育の将来について、子どもたちは以前よりも先生や学校にありがたみを感じ、保護者も先生方の苦労や努力を認識するようになり「教育のルネッサンス」が始まるだろうと表現しています。

教育のルネッサンス=人間性解放と再生が始まったらすてきなことだと思います。学校の意味や価値に共感できなかった子どもたちが正々堂々と学校には行かないという宣言をするかも知れません。先生によっては、online learningの方が自分が思い描いている学習活動が具現化できると言って新しい方向性を見出されるかも知れません。教育のルネッサンスは、国の権限が及ぶ範囲を明確に規制すると同時に、micro managementを拒む大きなうねりにつながるでしょう。

私たちの学校では、Social distancingのために学校のロッカーを使用しない措置がとられていました。子どもたちは重たい鞄を背負って教室移動をしていましたが、日常生活の正常化に伴いロッカーの使用禁止を解除しました。子どもたちは喜び勇んで教科書やファイル、運動着をロッカーに入れて学校生活を軽量化するだろうと思いきや、これまで通り重い鞄を背負っています。その理由をたずねると、ロッカーに行く時間が省略できて休み時間を最大限好きなように使えるからなのだそうです。

私たちは常に新しい発見をして、新しい習慣を身につけるということを再認識しました。

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Zoom fatigue

2/5/2020

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​今週から第2学期が始まりました。11、12年生は全員が通常通り教室での学習、7から10年生まではonline learningですが、1/5ほどの登校した子どもたちが教室でonline learningをしています。すべてが同時配信の学習ではありませんが、子どもたちも先生方もスクリーンを見続けることの疲労感や消耗度を実体験したことから、ひとこまを10分減らしました。

数日前の記事に「Zoom 疲れ」をおこさないようにする手立てがありました。時間を減らして休憩するというのもその一つにあがっていますが、冷静に考えれば当然のことでしょう。

当然といえば、私たちの学校も当然のように通常の時間割で1日を運営しています。学習内容 curriculumも当然のように年度始めに決めたものを継続しています。

質問です。
  1. 子どもたちも先生方も規則的な生活習慣を継続するという目的のほかに、通常の時間割でonline learningを続ける意味があるでしょうか。たとえば、1週間という枠の中で何を学習し、何を理解し何ができるようになるのかという週案を先生と子どもたちが共有してそれぞれが自由に学習するという形態を試してみるのはどうでしょうか。
  2. 先生がonlineでcurriculumを消化するのではなく、子どもたちが考え、つまずき、発見しながら学習の意味を見つけていくような形態は可能でしょうか。

Harvard Project Zeroに携わったDavid Perkins教授が、深い学習を導かないような(浅い)単元の扱いはどうすれば良いのかという質問を受けて、次のように答えています。
“Don’t take the topic out. Expand it! Many topics are thin only because they are thinly treated, but one can greatly increase their reach by looking for big generalisations and making connections to other areas.”

学習内容の精選と改善という作業は、おそらく多くの先生方が未経験の分野だと思いますが、COVID19の置き土産として試す価値があると思います。教師主導の授業を続けて互いが「Zoom 疲れ」の悪循環に陥るのではなく、創造的で深い学習活動を子どもたちも先生方も体験する絶好の機会でしょう。

久しぶりに学校に戻ってきた子どもたちと話していると、いろいろおもしろいことを伝えてきます。たとえば、たくさんの子どもたちが「もう絶対に学校の悪口は言わない。」「学校に行きたくないなんて言わない。」と話していました。そして興味深いことに、自宅学習でもよい7-10年生の中であえて登校してきた子どもたちは、どちらかというとやんちゃな連中でした。
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    Author

    萩原   伸郎

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