数学の先生にたのまれて7年生の分数の導入動画を作りました。導入だけでは意味がないので、単元にあるすべての学習内容を含めた続編も作ることにしました。
毎年5月には全豪で英数の習熟度診断調査が実施されます。5年ほど前に数学に苦手意識がある子どもたちの「傾向と対策」のためにiTunes U courseにHave Sum Funを発信し全世界で使えるようにしました。このような評価対策は私の教育的信条に反しますが、この診断調査の結果次第で後々まで子どもたちに付きまとわる「不幸」を避けるための方策でした。 その際に分数を含めなかったことが頭の片隅にあったので、今回の動画を入れておこうと思い立ちsiteを久しぶりに開けました。すると予想外のdownload数があり、この学習資料が世界中で使われていることがわかりました。Pandemicの影響がこんなところにも出ていることを知りました。 質問です。
学校を閉鎖している期間には、先生方が相当な数の教材などを個人的に作られていただろうと想像できます。お互いに時間を有効に使うためだけでなく、教材分析や教材作成の技術の向上のためにも、先生方の自作教材や何をどうすれば良いかという専門的な知恵をより積極的に共有してみてはどうかと考えます。 RousseauはEmileの冒頭の部分で「自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分にたいして、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全体との関連において決まる。」と述べています。 私たちは社会や組織の構成員としての存在をみれば分子になりますが、基本的人権や自由意志、価値観、信条にかんしては整数であると思います。さらに組織内全体からみた中での分子1であっても、全体に埋もれた1ではなく、他の分子1と同等であることが必要だと思います。 日本語で分数を読むときは(分母)分の(分子)と表現しますが、英語では(分子) (分母-序数詞)と逆に表現します。言語には使い手やその地域の文化や価値観、思想やあらわれます。全体が大切にされているのか、個が大切にされているのかの文化的暗示のような気がします。
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火曜日の朝、学校に向かう車のラジオから流れてきたのはPaul SimonのKodachromeでした。73年の当時、曲名が商品名なので公共放送局のBBCや豪のABCでは放送されませんでした。
懐かしい曲を聴きながら二つのことを考えました。ひとつは歌詞からです。「高校で習ったくだらないことをふりかえると、本当に不思議だよね。学歴がなくても困っていないもんね。」 “When I think back on all the crap I learned in high school, it's a wonder I can think at all. And though my lack of education hasn't hurt me none. I can read the writing on the wall.” 教科書をなめるように進む講義に興味や関心が萎え、意味を見つけることもできずに悶々としていた私自身の高校生活は白黒写真です。果たして目の前の子どもたちにとって、毎日は天然色の写真のように輝いているのか純粋に疑問に思います。 二つ目に考えたことはKodakの運命です。Digital cameraをはじめて製作したのも、消費者の写真の共有行動を商品化する構想を描いたのもKodakでした。最先端の技術と意匠を持っていたにもかかわらず、それらを敵にまわす形で消滅してしまいます。 質問です。
Kodakの失敗は、これまでの成功や既成事実に安住していると、何ができるか何をするべきかという自問自答の習慣、つまり組織の中での改善や革新の文化を失うことの実例であるという見方ができます。 その視点で学校や教育行政をみると、存在理由にかかわる本質的な仕事の中に改革の文化の片鱗を見出すことは難しいように感じます。卑近な表現を使って一例を挙げると「前年踏襲」です。何年も前から続けていることを安直に伝統と呼ぶことは、少々無理があると思います。なぜなら価値がある物事を継続することで伝統がうまれるからです。そこにさらに付加価値がついて学校の文化という財産になると考えます。 COVID-19を機会に、学校の中にある無数の価値の低い慣例を一度ひっくり返してはどうでしょうか。 夏目漱石は最晩年の1914年11月学習院で「私の個人主義」という題目の講演をしました。
個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論といった方が好いかも知れません。つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨張して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただ無暗に個性の発展ばかり目懸けている人はないはずです。 その「当然の話」がわからない大人が世界中にいます。黙って耐えているのは子どもたちだということが、彼らが書いてきた体験の振り返りから感じ取ることができます。一つだけ引用します。"Yes, ‘medicine can't cure stupidity'. People that refused to self isolate, bulk bought and didn't listen made the pandemic worse." 通読すると、自粛生活が世界中のどこの国や地域よりも短い期間だった私たちの住むWestern Australia州の子どもたちでさえ感情の安定を失ったことがわかります。 自由や権利を自己解釈した大人たちの行動は、子どもたちの目にはお手本とは映らなかったことは確かです。そして来週の月曜日から学校が完全に正常化します。 質問です。
私たちの学校では、あたりまえの自由が狭められた反動、というよりは新発見であふれています。自分の好きなように使える時間がたくさんあること、time poorだった子どもたちや教職員が time richになった既得権は失いたくないと思っていることでしょう。開校以来対面で実施してきた保護者面談もonlineですれば効率よく時間的にも無駄のない方法だということもわかりました。賢い学校・学級運営が始まる予感がしています。 世界の各地で再開した学校の様子をこの記事から眺めました。学校にかかわるすべての人々にとって、学校の正常化が喜びと安堵につながることを念じています。 私たちのクラスのpodcast最新作は学校にもどってきた9年生二人が語るSelf isolation自粛生活の体験談です。典型的な14歳がいろいろ不満を並べながらも、要所では物事の道理を理解しています。二人とも学校にもどること、通常な生活にもどることが第一と感じています。それ故に自主的に登校している訳です。
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Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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