大手金融グループ UBS (Union Bank of Switzerland) の London新支店での新しい試みについて、最近の The New York Times に記事がありました。新しいofficeには各行員の定位置の机、電話、laptop をなくし、各自が流動的に場所を選びそこで仕事をする仕組みです。
Kolbe College では Learning Centre の建て替えのために9月末に centre 内にあったすべての書籍、家具、desktop やICT機器などを移動しました。私のofficeもその中にありましたが、学校から office をなくした事例に関心があったので、この機会に実験してみることにしました。2m x 2mのL字型の事務机、大きな背もたれと肘掛のある椅子、様々な書類、書類棚、書籍、電話たちに新しい持ち主を探し、あるいは廃棄し、小さな箱と可動式の引き出し(基本的な文房具など)だけに縮小しました。それだけを仮住まいの他教科の office に運び、身軽な新しい生活が始まりました。 毎朝出勤すると鞄をその箱の上にのせ、Mac Book, iPad, iPhone を持って移動を開始します。Kolbe College には open space がたくさんあるので、いるべき場所やいたい場所で生徒たちに混ざって仕事をしています。生徒たちの会話、笑い声、口論などの雑音と往来の中ですが、office の中よりも楽しく集中して仕事ができることに驚いています。 学習者である生徒たちの感性と視線を持って仕事に向かうことを心がけているつもりですが、時には管理的な教師の態度で生徒たちに接している自分を感じることがあります。また、それが威厳を保つために必要だと考えている教師も多くいます。Office を持たない homeless になって、生徒たちとの距離がさらに近くなったと思います。一方、生徒たちは教師が近くで仕事をしていることに安心感や共感を感じているようです。並んで座っている時は彼らは partners であり、平等な立場の仲間であり、集中して学習している姿に影響さえ受けます。 Staff room に行ってお茶でも飲んで一息入れようなどという気持ちに自制がかかります。 質問です。 ① 学校で教師には許されるが、生徒たちには許されない物事は何でしょうか。 ② そのような差別化は本来必要なことでしょうか。 ③ 職員室にあるご自分の持ち物のうち、本当に必要な物は何ですか。頻繁に使うものですか。 それにしても、office にあった机、椅子、文房具、書籍、書類、電話、思い出の写真、自分を鼓舞するための poster などは「必要な物」だったはずなのに、今ではそれらがなくてもまったく不自由を感じません。
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Australia の11月は試験の月です。大学進学を希望する12年生は大学入試(日本のセンター試験に該当するもの)が、11年生は Semester 試験があります。日本の学校の試験と大きく異なることは、それらの試験は1科目2時間半から3時間(教科によっては筆記2時間半、実技30分)であること。そのために午前午後に1教科ずつ実施すること。さらにhigh schoolで履修できる科目はすべて大学入試科目として選択できること。従って大学入試の日程を終えるには約1ヶ月かかること。
そうして、10年生の Semester 試験も近づいてきました。昨日学校の Learning Centre で何時間も熱心に作業している生徒がいました。のぞき込むと来るべき試験の cheat sheet を作成していました。今作っておけば安心だし、それを使って復習ができるからなのだそうです。A4の裏表に Semester で学習した要点がびっしりと書き込まれています。日本語では試験での不正をカンニングと呼びますが、英語では cheating と言います。Cheat sheet は直訳すると「カンニングペーパー」です。 実はこの cheat sheet は定期試験に持ち込み可能です。外国語科目は辞書の持ち込みが、数学・理科系の科目は計算器が持ち込み可能です。大学入試でも同じ扱いです。日本の学校の基準で比較すると想像の範囲を越えるかもしれませんが、当地では常識的な慣例です。 質問です。 ① テストや試験で cheat sheet や辞書を持ち込み可能にしたら、試験問題の種類や内容はかわるか、それともかわらないか。かわるとしたら何がかわるか ② Cheat sheet や辞書が持ち込み可能だったら、試験を通して何を測定しようとするか。 ③ 生徒たちの試験の準備にどのような変化があるか。 私は数年にわたり大学入試の口頭試験の試験官や記述問題の採点官をしました。もう一人の試験官や採点官と組んで採点をしますが、お互いの採点が異なる場合は、同じ点に一致するまで話し合います。骨が折れる作業ですが、そうやって一人ひとりの受験生の採点をしていきます。 Sympodium での発表のために先週 Melbourne に行きました。広島や長崎のように、ここでも市電が縦横に走っています。他の交通機関にはないあたたかさやなつかしさを感じます。
向かっていた目的地までは歩いても行ける距離ですが、久しぶりにご当地の市電に乗ってみようと思い立ち、市街地の混雑した市電の駅で、さてどの路線に乗れば良いかと、壁にある分かりやすいとは言えない路線図を調べていました。頭の中にある地図と路線図はなかなか一致しません。すぐに市電が来てドアが開きました。大勢の人が昇降してドアが閉まり市電は出ていきました。人のいなくなった駅に橙色の上着を着た駅員さんがいました。私のところに来て「どこに行きたいの。」とたずねました。目的地を伝えると「It’s gone. You just missed it.」と教えてくれました。 次の日に発表する内容が学習内容や評価の多様化・個別化、深い学習についてだったので一日中それらのことを頭の中で反芻していたからかもしれません。この短い会話の瞬間にある種のひらめきがありました。この駅員さんの態度や物事のとらえ方は Summative assessment (総括的評価)の特徴を表しているということです。機会は一回だけ。できてもできなくてもそれで終わり。その後の援助・指導は原則としてない。市電は頻繁に走っているのだから、駅員さんは「You are standing at the right station. The next one is coming soon.」などと言えたはずです。 学校の定期試験は決められた時間内に学習内容の「再構成」がどれだけ可能かということが試され、その結果が生徒の評定の最大の判定材料になります。もし、学習の過程と習得したものの両方を公平に記録する方式が導入されたら、加えて、各自が評価の内容や方法、実施時期を選択することができる仕組みが導入されたら、さらに、わからなかった内容について再度学習し診断を受ける機会があったら、一人ひとりの生徒たちの達成感、成就感、満足感は確実に異なるでしょう。教師のための(評定のための)評価から、学習の主体者である生徒たちのための評価にかえる必要がありそうです。 質問です。 ① 通知表のためではない、学習のための評価 Formative assessment (形成的評価、診断的評価)を実践しているか。 ② テストや定期試験に見られる学習内容の「再構成」は何が問題か。 ③ 学習内容の「再構成」ではない評価とはどのようなものか。 Melbourne ではその市電以外はすべて Uber で移動していました。共通していたことはどの運転手さんも乗車すると水やお菓子を勧めてきたことです。新しい体験でした。 |
Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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