表日本と裏日本、山陽と山陰のような対比は昭和の時代には一般的で、社会科の学習でもよく使われていました。一方、上り(下り)線・上京する、登(下)校するのような表現は現在でも使われますが、私はどちらかと言うと使いたくない言葉です。
8年生と「偏りと偏見」について考える過程で、それらの言葉を挙げて何を感じるか問いかけました。子どもたちの反応や話し合いは活気に欠けていました。問いかけていく中で、このGeneration Z たちは、表や裏、上や下という文字や表現に違和感を感じていないということに気がつきました。私自身が違和感を持っていることは子どもたちも同様に感じているだろうと誤った予想を持っていたのです。 奇しくも子どもたちと「偏りと偏見 bias and prejudice」について考え、気づいてもらおうと準備する中で、私自身がbiasを持っていたことに気がつきました。 組織心理学者のAdam GrantがPodcastの中で似たような体験を述べています。 “One day, a colleague came to watch me teach a class, and pointed out that the first 7 students I called on were white men. I was stunned. I hadn’t even noticed. Everyone has some form of bias. Some biases are conscious and intentional. But for many of us, biases hide below the surface. If I was inadvertently favouring white men, I was limiting the participation and development of women and students of colour.” (2021) 「ある時、私の講義を見に来た同僚が、最初に指名した7人の学生は白人の男性だったと指摘しました。私は愕然としました。まったく気がついていなかったからです」 質問です。 ① 他の人の言動の中に無意識のうちにbiasが潜んでいると気がついたことがあるでしょうか。自分の言動にbiasを発見することがありますか。 ② 学校の仕組み、慣習、校則、あるいは教師の発言や記述にbiasがあることに気がついた場合、どう行動するのが良いでしょうか。 成績表の所見欄に「好きなことには集中することができます」「苦手なことにも積極的に取り組んでください」などの表現があります。ここには「理想の生徒bias」が潜んでいるように感じます。嫌いなことには集中できないし、苦手なことには消極的になるのは当然の反応で、大人にも無理な注文です。学習や教育そのものを科学的・心理学的にとらえると意味がないだけでなく、子どもに対して厳しい要求であると感じますがどうでしょうか。
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私たちの学校は年間を通して編入生を受け入れるので、世界各地の学校が出した成績表に目を通し、世界各地の先生方が書いた所見を読みます。
この作業を通してこんなことを感じています。 ① どの学校も成績表が大切な公的文書と認識し、最大限(?)の工夫をして作成している。 ② しかし、多くの場合それらを隅々まで読んでもその子どもの全体像はなかなか見えてこない。(学校によっては十数ページのBookletになっている場合さえある。) ③ 教科担当や学級担任の所見は、漠然とした全体像を語っているか、ある小さな出来事を拾い上げて一般化していることが多い。今後どのように学習を進めるべきかというようなfeedbackや、その生徒が日本の学校で学ぶ際に留意するべきことなどの申し送りの要素はほとんどない。 ④ 海外にある日本人学校が発行しているものは押し並べてお粗末なものが多い。 質問です。 ① 学校が定期的に出す成績表の形態や表記の内容などについて、子どもたちや保護者の視点に立ってどうあるべきかという議論や改善があるでしょうか。 ② 学校で勤務を始めてから、より良いfeedbackの出し方、commentの書き方について体系的、系統的に学ぶ機会があったでしょうか。 入学・編入書類の仕分け作業をしていく中で感じたことは、世界中のいたるところの学校で仕事をする先生方は、成績表に書く所見欄にどのような視点で何をどう書くべきかという研修や練習をしていないのだろうということです。 けれども時折、目の覚めるような、あたたかく、丁寧で、微笑みながら書かれたのだろうと直感できるような所見に遭遇することがあります。そのような輝く所見を読みながら、この先生は教室でも一人ひとりの子どもたちを大切にしながら、すばらしい学習活動を提供されているのだろうと容易に想像できます。 どのような職であっても、専門性や仕事への誠意というものは、何が大切なことなのかを直感的に理解している人で、この場合受け手が誰であっても、つまり、直接会う可能性があってもなくても丁寧な仕事をする人なのだろうと思います。 ところで、Australiaの学校に勤務し始めた頃、自分が書く所見に自信が持てませんでした。ある時ある同僚の所見を目にして、その差に愕然としました。それ以来、彼の所見をArchive室でひたすら写しました。模倣も専門性を上げる一つの方法だと思います。 |
Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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