千早赤阪村という大阪府唯一の村に11、12年生の8名と行きました。地域の状況を調査し振興案を提案することが目的です。
村の観光資源と農業を見学し、村会議員、役場の担当者、村おこしに携わる有志の方々のそれぞれの説明を聞きました。 到着した時に眺めた棚田の風景から得た感動や開放感とは反対に、午後になると、この村が抱える負の要因が並べられ、役場の担当者から投げかけられた「この村に住みたいですか」という問いについての話し合いが始まりました。 生活者としての視点でこの地域を考えると、高校生にとっては、無いものが気になり出します。 質問です。
この村は、定型化した地域、表現を換えると特徴のない地域になるのではなく、何もないという特殊性を価値として村おこしを考えるべきなのではないかと思いました。最寄駅からの不便さや集客施設がないという現状は確実に一定の顧客を引きつけるという仮説が立つと思います。 As customer experience has increasingly become the key differentiator across industries, there has been debate about which approach is the best way forward: frictionless or memorable experiences. The reality is that there is no one right way to manage the customer experience. Different approaches will be more appropriate to different brands depending upon how they currently compete. Harvard Business Review (2021) 「顧客体験が業界全体の重要な差別化要因になるにつれ、不自由のない便利さと記憶に残る体験のどちらの選択肢が最善であるかが議論されてきました。しかし現実には、顧客体験を管理するための正しい方法は存在しません。現在の状況に応じて、ブランドごとに異なる選択肢が適しています。」 「旅などの体験は高価な物を得るよりも私たちに幸福感を与えてくれます。」Laurie Santos (2018) The Science of Well-Being 学校も子どもたちに価値のある学習「体験」を提供することに集中しなければならない理由がここにあります。
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The Guardian紙の昨日の五輪報道の速報に “it is blistering hot in Tokyo”と特派員が記していました。
特派員の表現を借りるまでもなく、日本の夏の厳しさを感じています。 すでに陽が高く上がっている時刻に、道路の反対側を中学生の一団が黙々と走り抜けて行きました。暑さと湿度をまったく感じていないようなその姿を見て、Australiaの同年代の子どもたちだったら頼み込んでも拒否するだろうと瞬間に思いました。 炎天下の交差点で、自転車に乗った見るからに暑そうな制服姿の高校生がぼんやりと信号がかわるのを待っていました。部活の練習か補習が学校であったのでしょう。 暑い日々が続くといえども日本全国の各地で大人たちは働き、子どもたちはそれぞれの夏の活動に励んでいます。久しぶりの日本の夏の光景に一種の感動があります。 質問です。
厳しく長い冬だけでなく歴史的民族的な外圧も乗り越えてきたFinlandの人々の特性を表す言葉にSisuがあります。忍耐力、やり抜く力という意味の言葉の存在は環境が人間を鍛え上げたことの証でしょう。 Maslow’s hierarchy of needs (欲求階層説) によると人間の欲求を5段階に分けて低次から高次へと段階的な階層構造を示しています。興味深いことは、生理的要求から始まる4段階について十分満たされている場合は私たちは何も感じませんが、ひとたび欠乏感を持つと不安感や不快感を感じるようになるという点です。 厳しい暑さや寒さの中でもするべきことをする人々はこの欲求階層の奥行きが深いということなのでしょうか。それが忍耐力の大きさに比例するのでしょうか。どのような状況下でも不快感などを感じずに物事に集中して取り組むことができる人は確実に存在します。 大汗をかいて仕事をする人々や体を動かす子どもたちの姿には清々しさがあります。 目標を立てることの意味、そしてその成功や効果の基準として何パーセントという数値を設定することの意味について考えています。
限りなく100%に近付けば成功したと言えるもの、それは同時にほとんど不可能である場合には、果たして目標とすることにどれほどの意味があるのか。 質問です。
みんなが満足する授業をめざす、みんなが満足するICTの活用をめざすという目標を設定したとします。その成果を判定するために、授業に満足していますか、学校のICTに満足していますかというような質問に答えてもらうことにします。この場合、どのような問題点があるでしょうか。 回答する側は発問する側の意図や期待度を容易に理解することができます。そのような問いかけに果たして信憑性の高い回答が得られるでしょうか。そして回答の結果が100%に近ければ近いほどその結果から受ける私たち教師の満足感は高くなります。けれども数値から受ける感覚的な印象以外には、今後何をどうすれば良いのかという方向性まで読み取ることができるでしょうか。さらに、100%に到達することは恐らく不可能なように思います。すると、最終的な成功の判定の基準は何点ぐらいを考えれば良いのでしょうか。これらのことを認識すると、この質問からは信頼性や論理性の高い結果を導き出すのは難しいことが明らかになります。そして、目標を具体化する必要性も明らかになります。 目標を立てること自体が目的化していて必然性が明確でない場合があります。根拠がないままに目標として設定されている場合もあるのではないでしょうか。どのような目標を立てるべきなのでしょうか。目標を立てることは常に意味のあることなのでしょうか。 “The purpose of setting goals is to win the game. The purpose of building systems is to continue playing the game. True long-term thinking is goal-less thinking. It’s not about any single accomplishment. It is about the cycle of endless refinement and continuous improvement.” James Clear (2018) Atomic Habits 「目標設定の目的は、試合に勝つためですが、システムを構築する目的は、試合を続けていくためです。真の長期的思考とは、目標のない思考です。何か一つの成果を出すことが目的ではありません。終わりのない改良と、継続的な改善のサイクルのことです。」 学期末の成績が子どもたちに渡される時期になりました。そして、様々な感情が行き交います。それは一般的に結果を渡される子どもたちの方のようです。渡す方の先生方には仕事の一区切りを終えた時点の自己評価の習慣があるのでしょうか。
厳しい表現に聞こえるかもしれませんが、担当のクラスの中に5段階評価の一番下の評定を受ける子どもがいた場合、それは自分の教師としての専門性、学習の方法と内容、子どもとの人間関係などの要素において問題があったからだという認識があるのかどうか。 さらに、双方にとって喜ばしくない結果になる前に、子どもや保護者と状況や善後策を話し合う機会を持ったのかどうか。 質問です。
教える人、評価する人が同一であることの弊害は日本の学校教育に深い問題の根を張っています。そして個人としても学校としても評価についての研究が不足しているので、たくさんの悪習が無反省のまま存在しています。 その根本的な問題として、子どもを中心に置くという教育観とその実践にはまだほど遠いという現実があります。 In a differentiated classroom, the teacher is the leader; like all effective leaders, she attends closely to her followers and involves them thoroughly in the journey. Together, teacher and students plan, set goals, monitor progress, analyse successes and failures, and seek to multiply successes and learn from failures. Some decisions apply to the class as a whole. Others are specific to an individual. Carol Ann Tomlinson (2014) The Differentiated Classroom 「先生と生徒が共に計画を立て、目標を設定し、進捗状況を確認し、成功と失敗を分析し、成功を重ね、失敗から学ぶことを目指します。」 そうして粘り強さや根気・根性、成長思考を育んでいくのだと思います。 Grit depends on a different kind of hope. It rests on the expectation that our own efforts can improve our future. Angela Duckworth (2017) Grit 「根気・根性は、異なった種類の希望に基づいています。それは、自分自身の努力によって未来が良くなるという期待にもとづいています。」 私たちの学校には「生徒取り組み支援」という制度があります。何のことだかよくわからなかったのですが、子どもたちが提出してきた申込書を1枚ずつ読んで意味がわかりました。
11年生のRは、おじいさんが作った野菜が傷物だと売れ残るのを知り、その解決策としてキッチンカーで売れ残りの野菜を使ったカレーを作り販売するという企画を持っています。運転免許証の取得はまだですがすでにキッチンカーを購入して夏休み中の開店をめざして着々と準備を進めています。 12年生のNは、日本人の問題意識を高め行動力をつけるためには、学校で実践されるアクティブラーニングがどのような効果や可能性、限界があるのかを各地の高校を回って調査していました。名付けて井の中の蛙脱出作戦。 これらの活動に支援金の15万円を渡すことに決定しました。その他にも、5名の個性的な案に支援金を賦与することが決まりました。自分のやりたいことに向かう意欲と姿勢に触れうれしく思いました。 質問です。
学校や教師が頻繁に子どもたちに向かって言う言葉のひとつは「準備」でしょう。そして学校の存在理由そのものが次の学校へ進学するための準備期間という認識が一般的なように感じます。試験のための準備(詰め込み学習)、試合のための準備(練習)で毎日が埋まってしまい自分がやりたいと思っていることに手をつける時間的、精神的余裕を失っているように感じます。 When preparation is made the controlling end, then the potentialities of the present are sacrificed to a suppositions future. When this happens, the actual preparation for the future is missed or distorted. The ideal of using the present simply to get ready for the future contradicts itself. It omits, and even shuts out, the very conditions by which a person can be prepared for his future. John Dewey (1938) Experience and Education 「準備が目的になってしまうと、現在の可能性が未来の仮定のために犠牲になってしまいます。そうなると、実際の未来への準備は見過ごされたり、歪められたりします。」 子どもたちが自分の学習や活動の設計者になること (Agency) をすすめると、大人の価値観で押し付ける「準備」が確実に減るだろうと予想がつきます。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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