『学問のすゝめ』十二編に、朱子学の書生が江戸に出て諸大家の本を写すことが学問と信じ数百巻の写本を完成させて国元に戻りますが、その写本を載せた船が遠州灘で遭難し学問が海に流れてしまったと嘆く逸話があります。
教師の板書と生徒がそれを一字一句漏らさずに写す作業が学習であるという認識と慣習は、現在の日本のあらゆる学校段階で目にします。教科書の内容を説明し子どもたちに理解させることが教師の仕事の第一義であり、そのための方法として板書という選択肢を選ぶことが一般的なようです。黒板あるいはホワイトボードが前方に固定され、子どもたちの机が前方に向かって列を成すという固定的な教室環境も教師主導の講義型の学習形態を効果的に実現するために必要条件です。 一方、子どもたちの板書を写す「作業」は「ノート作り」と呼ばれ、見た目の整然とした丁寧なノートを作ることが奨励されていて、教師によってはノートを定期的に集めて採点し評価の材料に加えています。 質問です ① 教師の板書の意味と目的は何でしょうか。 ② 教師の板書を子どもたちが写す作業は学習と呼べるでしょうか。そのノートを採点する際の観点としては何が考えられるでしょうか。その観点に教育的必然性があるでしょうか。 次のような場合はどうでしょうか。① 教師が板書をせず代わりにその内容をプリントにして配布。子どもたちは教師が作成したプリントをもとに内容を理解し問題などを解くという方法。② 教師が板書の代わりにその内容をpdfなどにしてLMSやappにupload。子どもたちは配信された文書をiPadやlaptopなどの機器を用いて読み、内容を理解し問題などを解くという方法。 印刷物として配布する場合やdigital化して配信することで、教師が板書に費やす時間、子どもたちがノートに写す時間がなくなり、そこで生まれた時間を練習問題を解くことに活用するという実践例があります。そのような学習活動の意味や子どもたちの思考活動・創作活動の深さという観点から、あるいは一人ひとりの能力や興味・関心の差に対応しているかという観点から検証するとどうでしょうか。練習問題を解くことに重点が置かれていて、子どもたちにとって学習活動の中で最も感動的であると同時に個人差が顕著に現れる新しい知識の獲得の部分が教師主導の画一的な教え込みで安易に済まされていることに疑問が残ります。 「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して自分の説を付ることなり。この二箇条にては因より未だ学問の方便を尽したりと言うべからず。と前述の十二編は続きます。子どもたちが自分の感性と頭と言葉で理解し説明する活動を大切にしたいと思います。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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