前回に続き大村はま先生の1973年2月の講演から書き留めました。
私たちは、子どもたちにだいたいまあ好意を示されて過ごしています。ですから世の中の人は、みんな自分に対して好意をもっているような錯覚をおこすわけです。そんなはずがあるわけはありません。世間の多くの人が自分に積極的な好意をもって生きてくれるなどと思うことは、よほど甘いという気がします。(中略)生徒に質問をするようなときも、よい答えが出てくることを期待しているのであって、反対の答えが出たり、何もわかりませんということばが返ってきたりすることがあるとびっくりするわけです。びっくりするということは、つまり甘さだと思います。 世間では、そんなことはないわけで、反対意見が出たからと言って、あいつはだめなやつだなあと、即座に思うわけはないでしょう。まず、どうしてああいうことを言うのかなあ、わかってくれないのかなあ、もういっぺん言おうかなとか、とっさに私たちはみんな自分の方へ心を返すと思います。ところが、生徒に向かっては、わからないときはわからない人のほうが悪いという方向に行ってしまいやすいのです。 いつでも人から「まる」をもらうことを期待しているような気持ちで人に向かう姿勢があるので、父兄なんかでも本気で考える人には、なんとなく教師が頼りないような、甘いような、特殊人種のような、そんな感じがするのでしょう。しかし、そういうことは、言ってはいけないものだという気持ちがあって、言いません。自分のところの子どもができなかった場合に、先生の教え方がどうだったか、についての批判の目があったとしても、なかなか口に出して言わないものなのです。 私たちは生徒に何も求めるべきでないと思います。一生懸命教えてやれば子どもはできるようになる、なんて思ったらよほど甘いと思います。そんなにうまくはできていません。 教材として教科書というものもありますけれども、生きた教材というのは、ほんとうに教師が自分の目で、子どもを頭におきながら、身をもって捜していなければならないと思います。 大村先生の三本の講演を文字で読み様々なことを考えていたときに、たまたま The Washington Postの記事を目にしました。中等学校の演劇の先生が書かれたものです。 Middle school is a dress rehearsal. It’s almost always messy, and we worry that it foreshadows a disastrous future for our children. Meaning well, we jump in and initiate, fix and micromanage, telling ourselves we will stop when the child matures enough to take over. But middle school is supposed to be messy. It’s how kids mature. This means making lots of mistakes, then experiencing consequences just strong enough to be an incentive for correction, but not strong enough to damage a life. きれいごとではなく現実をしっかりと認識するということ、大村先生の考えに共通していると感じました。
0 コメント
公立小学校の教師として仕事を始めて3年目に読んだ大村はま先生の本を再び読む機会を得ました。1970年8月にあった新規採用教員研修会での講演をまとめたものです。読み進めるうちに、大村先生の言葉が研修会場でその肉声を聞いているように胸に響いてきました。
教室とは先生が手をとって教えるところなんです。そのたいせつな「教えること」を、私は教室でうんとやってほしいと思います。そして「読んできたか。」という文句は禁句にしてほしいもんだなあと思います。(中略)教育の現場がいかに検査場に化しているかということが、今さらのように思われるのです。そして、学校というところはいちばん遅れちゃったなあと…、いちばん進んだ人をつくるためにあるはずの学校が、いちばん遅れてしまったなあとつくづく思うのです。 一人前の職業人だ、専門職だと胸を張って言うんだったら、専門職らしく生きてほしい。そしてうまくいかない責任は自分でとるべきであって、相手が勉強しないなんてそんなことを言えるものではありません。相手の責任にできる職業なんて他にはないんです。 ところで、「優しくて親切」なんていうのは「一生懸命」と同じことで、あたりまえのことなんです。その反対だったらどうしましょう。だから、「優しくて親切」なんて、長所でもなんでもない、教師としてあたりまえのことです。そんなことなんでもないとお思いになりませんか。「あたたかな心」もそうです。教師ともなる人だったら、誇りにもならなければ、長所でもない。あたりまえに出勤したと同じことです。そうではなくて、教師は専門職ですから、やっぱり生徒に力をつけなければだめです。ほんとうの意味で…。こうした世の中を生きぬく力が、優劣に応じてそれぞれにつかなければならないと思います。 子どもは、常に一人一人を見るべきであって、それ以外は見るべきでない。束にして見るべきものでないと思います。一斉授業であっても、一人一人を見てやるということなのです。「グループ指導」ということをいたしますね。「グループ」も、個人をよく生かすために編成するんであって、束にして教えるためではないのです。結局「教育」は個人の問題なんじゃないか、個人を生かすために個人にしたり集団にしたり、小さなグループにしたりいろいろな方法があるけれども、つまりは個人を伸ばすことが中心であると思います。 子どもというものは「与えられた仕事が自分に合っていて、それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな。」ということがわかりました。(中略)そして、人間の尊さ、求める心の尊さを思い、それを生かすことができないのは全く教師の力の不足にすぎないのだ、ということがよくわかりました。 新米教師だった私は大村先生の言葉から何を感じ、何を考え、何に触発されたのか、あの時の自分に問いかけたいと思いました。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
Categories |