勤めている学校の法人からストレスチェックというmailがlinkと共に送られてきました。必要を感じていないので、1通目は表題を見ただけで開かず、2通目は意識に止めず放置、3通目の督促の雰囲気を感じ開けてみると本日までという文字が飛び込んできました。そこでonlineの診断を受けることにしました。
第1問「非常にたくさんの仕事をしなければならない」でどの仕事もそのはずだと思い、第3問「一生懸命働かなければならない」で誰でもその意識はあるだろうと感じ、第4問目「かなり注意を集中する必要がある」で完成度の高い仕事をするためには当然のことと反問し、第6問目「勤務時間中はいつも仕事のことを考えていなければならない」まで来て四択問題を止めました。仕事の質と量にかかわる負担要因が労働者のストレスに直結しているという判断は、単純化しすぎているのではないかという疑問を持ちました。 質問です。
自分の勤めを仕事ととらえるか、経歴ととらえるか、使命ととらえるかは、私たち専門職としての存在理由、専門家意識、情熱と直接に関連し、それによって業務に関わる精神的・身体的負担の感じ方にも影響を受けるのだろうと思います。 a job (“I view my job as just necessity of life, much like breathing or sleeping “), a career (“I view my job primarily as a stepping-stone to other jobs.”), or a calling (“My work is one of the most important things in my life.”) Amy Wrzesniewski Onlineの診断は、心身のストレス反応に移り、怒りを感じる、内心腹立たしい、イライラしているなどの質問が続きます。仕事ではどれも当てはまりませんが、生活する中ではしばしばありました。 たとえばクレジットカードです。来日して以来金融機関、大型店、Online Shopなどとつながるすべてのクレジットカード会社から却下されました。この国では34年間居住実態のない人は信用されないことがわかりました。と言ってもどの会社も却下の理由を告げませんでしたが。 ところが捨てる神あれば拾う神ありで、RevolutというStartupに救われました。130以上の通貨に対応する画期的なカードで、2か月かかってようやくcashless生活をgetしました。
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日本で仕事を始めてから、以前には毎週聴いていたpodcastの番組がたまっていることに気がつきました。毎週末に翌週の5日間に着るシャツのアイロンがけをしながらpodcastを聴いていましたが、その習慣がなくなったからです。
通勤途中にあるクリーニング屋さんが安く早く仕上げてくれるのでその便利さを手に入れた代償として価値のある習慣が消えたのでした。 質問です。
80年代の学校では年度始めの仕事の一つに学級内の電話連絡網を作成することがありました。そして教務担当の先生からは教職員の電話連絡網が回ってきました。 今ではgroup mailですべての保護者や教職員に瞬時に情報を配信することができますが、そのことで何か失ったものはないでしょうか。不都合が生じていないでしょうか。不便になったことはないでしょうか。 「長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか、発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。」宮本常一 (1993) 一人ひとりの社会的・個人的習慣を育む場所であり、集合体として価値観や文化を育む場所である学校は、便利、進歩・発展、停滞、退歩という座標軸 (quadrant matrix) を持って繊細で影響度のある物事について分析する習慣が必要だと思います。そして、便利であると同時に進歩・発展でもあるように工夫する努力も必要でしょう。 さて、1週間の思考の糧となるpodcastを聴く習慣を取りもどすために、シャツは週末に家で洗いアイロンをかけることにしました。クリーニング店から受け取るシャツにかぶさっているおおげさなビニール袋やプラスチックハンガーからも遠ざかることができるので気分は上々です。 学校の図書館の雑誌棚に『暮しの手帖』を見つけました。目次の後に花森安治さんの言葉がありました。
「どんなに みじめな気持ちでいるときでも つつましい おしゃれ心を失わないでいよう かなしい明け暮れを過ごしているときこそ きよらかな おしゃれ心に灯を点けよう。」 COVIDに翻弄されている毎日でもつつましく、きよらかな「挑戦する心意気」「行動する意欲」を持つ人々がいます。今週は9年生の3人が標準服を作る案を持ってきました。その長短をあげ、調べ上げて準備したPresentationでした。11年生の4人組は日本のGender Gapについて話し合うOnline Forumの計画案について伝えてくれました。プロのトランペット奏者としても活躍する音楽の先生は、練習中や演奏中に楽器を支える補助器を開発し製品化したことを話してくれました。(それらのわくわくする話を聞き流すだけではもったいないので、後でPodcastにして配信する了解ももらいました。) 質問です。
Duckworth教授のGrit “根性、根気” (2017)の中に私たちの行動のもとにある目標・目的について興味深い解説があります。 If in the course of asking yourself these “Why?” questions your answers is simply “Just because!” then you know you’ve gotten to the top of a goal hierarchy. The top-level goal is not a means to any other end. It is, instead, an end in itself. Some psychologists like to call this an “ultimate concern.” Myself, I think of this top-level goal as a compass that gives direction and meaning to all the goals below it. 「なぜそうするの」を自問するとあなたの答えは単に「だってそうしなければ」になります。 それは、いくつもの目標の最上位に到達したことになります。最上位の目標は、他の目標を達成するための手段ではありません。それ自体が目的です。心理学者によっては、これを「究極の関心」と呼びます。 私自身、この最上位の目標は、その下にあるすべての目標に方向性と意味を与える羅針盤だと思います。 「今自分がしなければ誰がするのか」という意識や責任感を持つ人は、世の中の不安要素には関わりなくやるべきことをやり続けるという単純な道理です。 連休中に職場の方々が勧める地元のお寺に行ってみました。山の中腹にある良く手入れの行き届いた寺院には宿坊もあり、地域の信仰の聖地であることがわかりました。
しばらくすると本堂から読経が聞こえてきました。何やらありがたみのあるお経であることは間違えありません。けれども、信心と仏教的教養がない私には何を言っているのかその意味がわかりませんでした。 質問です。
毎日送られてくる文書や雑誌の中に、ある教育産業大手の月刊誌がありました。新教育課程編成という題につられて頁をめくると新学習指導要領の要点という解説があります。 特集でありながら浅薄な走り書き程度の文章には、通りいっぺんの説明で筆者の熱意、記事の意図は感じられませんでした。 その説明文の中には文科省が創作した「社会に開かれた教育課程」という言葉があります。文科省が今年の3月に出した文書にも「学習指導要領では、「社会に開かれた教育課程」を目指し、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善や「カリキュラム・マネジメント」の確立を図っていくことなどを示しています。」とありました。 教育課程が社会に開かれていない例がどこにあるでしょう。そもそも社会に開かれている教育課程とは何でしょう。国民に対して教育行政を明確に説明しなければならない立場にいながら、なぜ誰でも納得できる表現を用いないのでしょうか。 社会に開かれた教育課程についてJohn Deweyは1916年に明確に説明しています。 “The scheme of a curriculum must take account of the adaptation of studies to the needs of the existing community life; it must select with the intention of improving the life we live in common so that the future shall be better than the past.” 教育課程は、現存の社会生活の必要に学科を適応させることを考慮して計画されなければならない。未来が過去よりも良くなるように、われわれが共同して生きている生活を改善するという意図をもって、選択されねばならないのである。 休止していた研究講座を4月25日に1年3か月ぶりに再開しました。Screenを通して久しぶりに会う先生方から近況や実践報告をしていただきました。
ある先生から「全盲の人は美術館に行く意味があると思いますか」という問いかけがありました。環境が障がいをつくっているという指摘です。Universal Designの思想と実践が社会に根付いていないことを気づかせる本質的な問いです。 質問です。
学校を閉鎖してonline学習に切り換えた2日目に7年生の子どもから嘆願のmailが届きました。 2日間オンライン授業を受けましたが、それぞれの先生の授業の入り方や出席の仕方がよくわからなくて、パニックになってしまいました。オンライン授業は、全く初めてです。小学校でもしませんでした。ぼくは、パソコン操作が早くありません。スマートフォンも中学校になってから、使いはじめました。電車通学なので、もしもの場合のためにと親からすすめられたので持っているだけです。何だか取り残されている感じで、不安です。来週もオンライン授業だと聞いて、とてもショックです。辛くなってきました。ふつうに学ぶことが好きなのに、これ以上続けられるか、心配です。 環境で障がいをなくすことができるということを信じて努力することは教師の仕事のひとつだと共通理解されていることでしょう。しかしながら、何割の教師が誰もが学習しやすい環境を提供すること、学びの喜び、達成感や充足感を体験できるような学習の内容や方法を提供することに使命感を持って実践する習慣があるかどうか。そもそも多様な子どもたちへの共感があるのかどうか。 “You are more important than my personal preferences.” “I am willing to learn about you to help you reach your life goals.” (Andratesha Fritzgerald, Antiracism and Universal Design for Learning) 灰谷健次郎著『兎の眼』の中の小谷先生は、学級の子どもたちのことを知る努力を続けたことで新しい学習環境を提供することができました。その感動の余韻があった大学3年生の時、教育実習先の職員室で若い女性の先生が「小谷先生みたいなことできないわよね」と大声で話すのを聞きました。こうはなるまいと強く反発したことを思い出します。 |
Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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