小学校の時間割の中で、理科はめぐってくるのが楽しみだった科目のひとつです。いつも白衣を着ている長身の理科専科の先生は発明工夫クラブの顧問でもありました。4年生になるとその発明工夫クラブに入って、いつも発明の可能性を探して何かを作り出すことを考えていました。
毎週クラブの時間にはそれぞれが頭の中にあるアイデアを発表します。ある時みんなの発表が終わった後、先生が私たちに「電池やモーターを使うことだけが発明ではないんだよ。」と話されました。 当時の小学生にとって、電池やモーターは手が届く範囲にある最新のTechnologyでした。そしてそれらを使うことで発明が可能になると考えていました。 質問です。
Finlandに拠点を置く教育研究のNPO (HundrED) が世界中の教育実践の中から革新性の高いものを毎年100例選んで発表します。その選定に今年もかかわりました。世界の各地からの応募を読み始めて間もなく、はやり言葉の組み合わせで短絡的にある意味を敷えんしていることが気になりました。たとえばTechnologyとSTEAMがInnovationを生むという論理です。 経済産業省の「未来の教室」実証事業に目を通していた時も同じ感想を持ちました。とりわけSTEAM化と個別最適化という雑駁な表現は注意が必要だと思います。 現状を変えることができるという可能性を信じ使命感と熱意を伝えていることには称賛に値します。しかしながら、教育のInnovationは機器の導入や共通理解を築いていない言葉を連呼するだけでは到底なし得るものではありません。根本的な構造改革Paradigm shiftをしなければ世界の教育先進国が進める「個別最適化」などは不可能です。 6年生になって、発明工夫クラブの部長になりました。秋にある東京都発明工夫展に部員全員が出品します。アイデアがなくて困っていた部員に私が持っていた案をそれぞれあげました。秋葉原に行って電気部品を買って作った自分の発明は入選しませんでしたが、私の案を製品化(作品化)した部員は皆入選しました。それらのすべてが電池とモーターを使っていない作品でした。
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20週間のSemesterに渡って学習活動を共にする子どもたちに、初顔合わせの時間にいくつか質問をします。毎時間の学習が話し合いや協働が中心となる課題解決学習(Challenge Based Learning)の場合には、次の質問を一人ひとりがGoogle formで答えた後、1問ずつ全員が動き回りながら多くの人たちとQ&Aをします。子どもと私、子どもどうしがやりとりをすることが大切な要素です。
質問です。
一般的な問いかけよりも「ひねり」があると思いますが、9つの質問は2つの種類に分類できます。例えば質問1は情報を集めていますが、3, 5, 7などはいつもは胸の中にしまっているようなことがらについて問いかけています。ねらっているもの、引き出そうとしているものは各自のVulnerability (弱さ、もろさ、脆弱性)です。 “People tend to think of vulnerability in a touchy-feely way, but that’s not what’s happening. It’s about sending a really clear signal that you have weakness, that you could use help. And if that behaviour becomes a model for others, then you can set the insecurities aside and get to work, start to trust each other and help each other. “ (Jeff Polzer, Harvard University) 誰もが持つ弱さにかかわる質問のやり取りは Vulnerability Loop (Daniel Coyle, The Culture Code) と呼ばれる心理作用をうみます。AとBの二人の心の中ではこのようなことが起こります。Aが自分の弱さを示すものを質問の答えに含めます→ BがAの答の中に相手の弱さを認めます→ Bが返答の中に自分の弱さも含めます→ AがBの返答の中に相手も弱さを持つことを認めます→ AとBは互いの共通性を見出し、親近感と信頼感が芽生えます Vulnerability Loop は生産性、求心力、安定性が高い組織を作るための方法のひとつとして提案されていますが、課題解決学習の協働の質を高める準備として取り入れてみました。2学期のはじめにお試しください。 8月14日はKolbe神父がAuschwitzで犠牲になった日です。朝、全校生徒と教職員が集まってMass(Missa)をしました。この大切な行事を運営したのは、Accounting最大手の会社を辞めて昨年から私たちの学校に来た若手です。恒例の内容を継承しながら、新しい要素も加わったあたたかく希望に満ちた時間でした。
彼は子どもたちに名字ではなく名前で呼ばせています。Massの後に校長が全校の前で彼に感謝の気持ちを伝えた時もMattと呼んでいました。皆が彼の選択を認めています。 その光景を見ながら、自分が教師になりたての頃に受けた諸々の指導を思い出しました。私は子どもたちからあだ名で呼ばれていました。ある時、年長の先生からその習慣をやめるよう言われたこともそのひとつです。 質問です。
学校で見られるMicro managementは、先生方の判断や行動をある型にはめることを目的としますが、「ある型」が職務規約に載っている場合もあれば一部の人たちが持つ基準で強要される場合もあります。いずれの場合でも一番の危険性は、自ら考えて自発的自主的に行動する習慣も機会も奪ってしまうことにあると思います。 NetflixのCEO、Reed Hastingが社員に向けた”Culture”という題名のpresentation(2009)には社員を管理する発想とは正反対の “Freedom and Responsibility” の価値観を提示しています。 Most companies have complex policies around what you can expense, how you travel, what gifts you can accept, etc. Plus they have whole departments to verify compliance with these policies. Netflix policies for expensing, entertainment, gifts and travel: “Act in Netflix’s best interest” (5 words long) 「私たちの学校にとって最善の仕事をしましょう」という一文を先生方に提示したら、それに続く具体的な行動規範は自身の思考から自然に生まれてくるでしょう。学校を運営する人はそれができる人を育てることに投資をすれば良いのではないでしょうか。 先日、日本の大学の先生から大学改革について意見を求められました。この大学が海外の機構の審査を受けて、改善するべき点として学生の対話能力の向上が指摘されたということでした。そこで改善案に盛り込まれたことが大学の「国際化」でした。その具体案としてあがった英語による会話や議論の能力を伸ばすための学習機会の拡充についてが質問の趣旨です。
質問です。
私は日本の教育行政や学校が改革するべきことは実質が曖昧な「国際化」やカタカナ語のグローバル化ではなく、教育の内容や方法、評価の「国際標準化」だと考えています。世界に視点を向けて教育課程を構成すること、諸外国の学校教育と同じ「ものさし」で教育の成果を測ること、教育研究や教職員研修を世界的な組織の中で進めること、研究や事例、動向などを世界と同時期に配信したり共有したりすることなどにあると思います。 これらは突飛な思いつきではなく、英語圏や英語を共通語としている国では通常の光景です。国際標準化をはばむものは、日本語だけに依存した日常生活が大きく影響しているように思います。 初代文部大臣の森有礼は日本の近代化の遅れの理由が日本語にあると考え、英語を国語とするべきだという私案を持ちました。司馬遼太郎さんは「幕末から明治にかけて欧米を見てしまったひとの病的な切迫感」(『言語についての感想』)と評しています。私は森大臣の考えに共感を持ちます。英語を国語ではなく共通語としてはどうでしょうか。北欧諸国の子どもたちは母国語とその文化のidentityを持ちながら英語を中心に複数の言語を流暢に使い分けます。そして大人たちや社会はidentityに誇りを持ちながら国際標準の平衡感覚を保っています。 ところで、本来日本固有のものが国際標準化した例はいくつかあります。Kaizen, Dashi, Umamiなどはどうでしょう。これらは日本企業や文化が持っている基準や標準が諸外国の人々にも理解され受け入れられたものだと思います。Umamiといえば世界のどこでも何のことかわかるということです。 私たちの学校のInnovation Teamは毎週2回、子どもたちの学習や生活、学習環境、教職員の学習、教育理論と実践、technologyの活用などの分野について、収集した資料や観察、分析をもとに学校全体の進むべき方向性や改善、注力するべきことを議論しています。そして一般的な議事録ではなくGoogle SheetにprojectごとのSheetを設けて何について誰がどのように作業しているのか記録しています。
このTeam内で子どもたちの深い学びを実現するための具体的な方法としてActive Learningについて漠然と話してきましたが、今週はそれぞれが思い描いているものを持ち寄って共通認識を築くことにしました。私はこれまでに読んだ本の中から、Active Leaningを定義する要素について述べられている箇所を抜粋してまとめてみました。自分の教育観や信条の精度を高めるうえで、この作業は大切な意味があると感じました。 この「私が考えるActive Learning」には含めなかったのですが、1874年(明治7年)に出版された『学問のすゝめ』十二編にその定義が的確に述べられていると思います。「故に学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り。この働きを活用して実地に施すには様々の工夫なかるべからず。「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して自分の説を付(つく)ることなり。」 質問です。
19世紀の日本人が既にどのように学ぶべきかということを理解していたことは、注目に値すると思います。そして、おそらく多くの教師がその思想に触れて、何をどう教えるべきかということも考えていたのではないでしょうか。さらに、「精神の働き」を非認知活動、「この働きを活用して実地に施す様々の工夫」を認知活動と解釈することはできないでしょうか。Active Learnigは活動型の学習と一般的に受けとめられますが、むしろ学習に際して脳がactiveに活動することと理解するべきです。 福澤諭吉が草葉の陰から「此方はチャント知っている」(福翁自伝)とつぶやかれているように感じます。 |
Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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