10年生は試験が終わった翌日の水曜日、3班に分かれて小学校に行きました。そこで3・4人が1組になって割り当てられた学級に入って学習活動を指導し、昼休みを共に過ごしました。
授業であつかう単元、導入に使うgame、展開のworksheets、最後のまとめ方などはKolbeを出る前に一通り説明を受けました。とはいうものの、試験の翌日に何の前ぶれもなく説明されただけで、ほとんどの生徒たちはこれからすることの一部始終を十分に把握していなかったでしょう。 教科は宗教でした。Kolbeの生徒にも小学生にも宗教は簡単な教科ではありません。この日、小学生と学習活動をする課題は聖書の「種を蒔く人」の寓話でした。(MilletやGoghはこれを絵画で表現しています。岩波書店の社章にもこの絵が使われています。) 学習活動を終え、昼休みも小学生たちと過ごしてそろそろ学校に戻る時刻になりました。気がついてみると、この数時間の体験でより多くのことを学んだのは10年生の方でした。彼らはこの活動の目的を見出し、寓話の意味と作られた目的も深く理解しました。そんな彼らの小さな変化をいくつも見つけました。そのうちの一つ。小学校に着いて大型バスから降りる際に一人をのぞいてみな無言で降りて行きましたが、Kolbeに戻った時には全員が満ち足りた表情で運転手さんと私に”Thank you.” と言いました。 Ideas 26でも目的意識と動機の関係について触れました。Harvard大学の卒業式でMark Zuckerbergがおこなった演説の主題は目的意識 “ a sense of purpose “についてでした。 質問です。 ① 生徒一人ひとりに学校に通うこと、学ぶこと、行事に参加すること、良い市民になることなどの「目的」をどのように「意識」させていますか。 ② 大人として、社会人として生活し仕事をする「目的」や「意味」を「意識」していますか。 昼休みの校庭でKolbeの10年生に鈴なりに群がっている小学生たちを眺めながら、自分が小学校教師だった頃のことを思い出しました。昼休みの小学校の校庭はどこの国でも同じです。子どもたちの重なりあう声、小魚の群れのように絶えず動き回る集団、一か所にいながらも飛んだり跳ねたり忙しく体を動かしている集団が見えます。 先日同僚がこう言いました。「小学生と一緒にいると活力をもらうけれど、中高生といる時は逆に活力を吸いとられるように感じるのはなぜなんでしょう。」彼女も以前小学校で教えていました。私も本当にその通りだと思います。
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最近別々に読んだものの論点がつながりました。一つ目は人間を取りまく「世界」と人間の内側の「世界」についてです。私たちが「世界」をどう見るかは私たちの内側の感情のあり方に強い影響を受けるということ。そしてその感情・感性は、その人の知識、社会認識、経験によって形成されるということ。けれども今日のCurriculum 学習内容は外的世界を重視するあまり内的世界を涵養することをおろそかにし、結果として子どもたちに無気力、いじめ、精神・情緒不安定などの問題が持ち上がっているという論理です。( Ken Robinson, 2016, Creative Schools )
二つ目は動機づけと行動についてです。物事の目的がはっきりしていると動機が生まれ、動機が強ければ大きな困難にも立ち向かう強固な意志を生み、良い結果をも生み出すということ。その際に報酬の受け手や結果の行き先を自分ではなく他者に向けること the power of self-transcendence (自己超越) で、動機がより強くなりさらなる困難にも立ち向かうことができるという論点でした。(Science of Us ) 自分の内側の世界を見つめる能力が豊かになればなるほど、他人の心の内面も感じとることができる能力が育っていくでしょう。車椅子で教室移動をしている生徒を見れば、自然と押してあげるという動作が生まれてきます。この動画のまさにその場面はiPhoneを持って立っていた時に偶然に起こったものです。また先日はSemester試験中にもかかわらず、多くの生徒たちが週末の貴重な時間を救世軍の社会鍋の募金活動に使いました。自分の行動を明らかに他者に向けているからできたことです。 質問です。 ① Curriculum 学習内容が重視する外的世界とは何を指すのでしょう。 ② 生徒一人ひとりの「世界」を大切に育てるには、そしてお互いにその「世界」を尊重する文化を育てるには、私たち教師はどんなことをする必要があるでしょう。 CurriculumについてThe International School of Brussels のMiddle School の校長先生がblogで興味深い意見を取りあげていました。生徒たちが主体的に学習活動に向かい確実な学習成果をあげるために、いわゆる主要教科を選択科目や課外活動と同じようにあつかうという提案です。主要教科に見られるような知識伝達だけの受け身の学習ではなく、身体を動かしたり何かを制作したりどこかに行って調べたり作品を発表したりする学習こそが「深い学習」だという主張です。そしてそのような学習活動と体験から得たものが卒業しても生徒たちの頭に残るのだという主張です。 まとめの文章に共感しました。 Learning is not about curriculum, content, or standards and benchmarks. It is about creating the conditions in which learners – both students and teachers – will thrive. 週に2回7時から生徒たちと走ります。走りながらいろいろなことを話します。今朝は冷え込んで、放射霧が人の背丈のあたりまで漂う中を走り始めたところで、ある生徒から「先生は英語を勉強するのはたいへんでしたか」という質問を受けました。彼は韓国人の両親を持ち、韓国語、英語を上手に使います。そして今、日本語に集中しています。
この手の質問はよく聞かれますが、いつもどこから答えるか考えなければなりません。それほど道は険しかったからです。今朝は、質問の相手と同じ年頃の時の体験を思い出しました。 中学3年生の時に班で日記を回し書きしていました。班の中で一番物静かで知的な人が「ジョージ ハリソンのマイ スイート ロードが好きだ」と書いていました。どんな曲なんだろうと思い、自分で作ったradioでhit chartを聞いていると果たしてかかりました。爽やかで大人っぽく、melodyが耳の奥まで染み込みました。しかし歌詞はもちろんわかりません。英語を習いたての中学生にとっては、洋楽は単語の塊がぶつかってくるだけで、一語ずつに切り離すことは不可能でした。 日本語には清音、濁音、半濁音、拗音、促音、撥音のすべてを合わせて音節数は104しかありません。一方の英語は3000以上あります。これは英語を語源に持つカタカナ語を発音する場合、単純に言えば、1 : 30 (100 : 3000) の音の簡略化、単純化がおこなわれるということを意味します。これが日本人にとって致命的でお粗末な発音の癖と聴解力の弱さを言語中枢に定着させてしまいます。 質問です。 ① 和語ではなくカタカナ語を使う必要がある分野、カタカナ語の方が便利な時がありますか。 ② 誰かが話し言葉や書き言葉でカタカナ語を使う時に不自然に感じる時がありますか。 ③ カタカナ語が蔓延するとどんな危険性があるでしょうか。 George Harrisonの曲はMy Sweet Roadではないということは随分時が経ってから気がつきました。外国語はカタカナ語にせずに本来の綴りのまま書くべきだと強く感じたのはこのような体験を多くしたからです。そして、カタカナ語を多く使う話し手や書き手の衒学的な態度への抵抗でもあります。英語が教科として小学校の教育課程に導入されるのも遠くはありません。この辺りで、カタカナ語とどう向き合うか真剣に考えてみたいと思います。 「この諸大家はいわゆる「ミッズルカラッス」なる者にて、国の執政に非ず、また力役の小民に非ず、正に国人の中等に位し、智力をもって一世を指揮したる者なり。」『学問のすゝめ 五編』1874年、「かくの如く広く実際に就て詮索するの法を、西洋の語にてスタチスチクと名く。」『文明論之概略』1875年 福澤諭吉の文章からは、洋書から溢れ出る膨大な形而上学的な語彙に向かい合って噛み砕いていく自負と良心を読み取ることができます。 |
Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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