週に2回7時から生徒たちと走ります。走りながらいろいろなことを話します。今朝は冷え込んで、放射霧が人の背丈のあたりまで漂う中を走り始めたところで、ある生徒から「先生は英語を勉強するのはたいへんでしたか」という質問を受けました。彼は韓国人の両親を持ち、韓国語、英語を上手に使います。そして今、日本語に集中しています。
この手の質問はよく聞かれますが、いつもどこから答えるか考えなければなりません。それほど道は険しかったからです。今朝は、質問の相手と同じ年頃の時の体験を思い出しました。 中学3年生の時に班で日記を回し書きしていました。班の中で一番物静かで知的な人が「ジョージ ハリソンのマイ スイート ロードが好きだ」と書いていました。どんな曲なんだろうと思い、自分で作ったradioでhit chartを聞いていると果たしてかかりました。爽やかで大人っぽく、melodyが耳の奥まで染み込みました。しかし歌詞はもちろんわかりません。英語を習いたての中学生にとっては、洋楽は単語の塊がぶつかってくるだけで、一語ずつに切り離すことは不可能でした。 日本語には清音、濁音、半濁音、拗音、促音、撥音のすべてを合わせて音節数は104しかありません。一方の英語は3000以上あります。これは英語を語源に持つカタカナ語を発音する場合、単純に言えば、1 : 30 (100 : 3000) の音の簡略化、単純化がおこなわれるということを意味します。これが日本人にとって致命的でお粗末な発音の癖と聴解力の弱さを言語中枢に定着させてしまいます。 質問です。 ① 和語ではなくカタカナ語を使う必要がある分野、カタカナ語の方が便利な時がありますか。 ② 誰かが話し言葉や書き言葉でカタカナ語を使う時に不自然に感じる時がありますか。 ③ カタカナ語が蔓延するとどんな危険性があるでしょうか。 George Harrisonの曲はMy Sweet Roadではないということは随分時が経ってから気がつきました。外国語はカタカナ語にせずに本来の綴りのまま書くべきだと強く感じたのはこのような体験を多くしたからです。そして、カタカナ語を多く使う話し手や書き手の衒学的な態度への抵抗でもあります。英語が教科として小学校の教育課程に導入されるのも遠くはありません。この辺りで、カタカナ語とどう向き合うか真剣に考えてみたいと思います。 「この諸大家はいわゆる「ミッズルカラッス」なる者にて、国の執政に非ず、また力役の小民に非ず、正に国人の中等に位し、智力をもって一世を指揮したる者なり。」『学問のすゝめ 五編』1874年、「かくの如く広く実際に就て詮索するの法を、西洋の語にてスタチスチクと名く。」『文明論之概略』1875年 福澤諭吉の文章からは、洋書から溢れ出る膨大な形而上学的な語彙に向かい合って噛み砕いていく自負と良心を読み取ることができます。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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