VOGUEのUK版に国内のPandemic対策に成功を収めた女性指導者の特集がありました。服飾が売り物の雑誌が放った予想外の3塁打だと感じました。それはともかくとして、国の責任者として的確な判断をした指導者には、女性であるという事実のほかに共通点があります。それは国民の生命と安全を優先順位の第一位にした使命感です。
Australiaの首相は男性ですが、首相を中心とした国策の決定機関も同じ使命感を持って危機管理にあたりました。灰色の部分をなくして何が可能で不可能かを明確にした政策で国民の広い支持を得ています。 このような時期だからこそ、人々が何を媒体にどのような情報をつかんでいるのか、既成の報道機関が何をどう伝えているかということに強い関心と一種の危機感を持っています。毎週日曜日の夕方にmailで届くNewsletterにjournalistのBethany McLeanが取りあげられていました。彼女が子どもたちの質問に答える中で何回も述べていることは、質問をすることの大切さと好奇心を耕すことです。 質問です。
私たちの州では的確な措置が功を奏して感染者数が減り、今週から11、12年生は全員登校できるようになりました。 2日前に報道された日本の全国紙に、Australiaの現状を「まるで警察国家」と現地の日本人記者が表現した記事がありました。この記者は一体何を日本の読者に伝えようとしたのか疑問が浮かびました。記事の意図が不明です。前述のMcLeanが言うようにたくさんの質問を目の前にある現状に、そして様々な立場の現地の人々にしたのかどうか。記者自身の好奇心は何だったのか。残念ながらその記事は、記者が足でかせいだ取材の証拠はなく、Internetで収集できる罰金刑の内容と数字だけで構成されています。 稚拙にまとめた記事を真実として全国紙やTV報道などで流すことは、日本の形骸化した報道機関が以前から続けていることです。情報の収集、整理、分析、総合力は私たちの知性を支える筋肉です。常に鍛えようと思います。
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感染者を増やさないひとつの日常習慣として突然導入された、他人との距離をあけることsocial distancingは、Australiaの場合は法的な強制力があります。スーパーのレジに並ぶ際も、公園や海岸にいるときも1.5m以上の間隔をあけなければなりません。$1000の罰金刑が待ち受けています。店員が無意識のうちに近づいている人たちに対して、あるいは休み時間の校庭で教職員が子どもたちに”social distancing!”と叫ぶ様子は、まるで試合に立ち会う審判のようです。
世の中が過度に神経質になっているは事実ですが、実直に自分と他人の安全を守ろうとするこの国の人々の生活態度は、感染者数の減少にあらわれています。 先日1週間分のシャツのアイロンがけをしながら聴いたpodcast (Apple, Spotify)はまさにこの問題を主題にしていました。このepisodeの中でMichigan大学の教授は、社会も人心も混乱しているときに必要な習慣は、他人との物理的な距離をあけることではなく、意識を自分自身から切り離すこと psychological distancing だと話していました。自分の名前を主語にして行動や感情を表現するのだそうです。「〇〇はちょっとイライラしているから腰をおろして好きな音楽でも聴きながらお茶を飲もう。」というような具合です。 質問です。
自分自身に距離をあけて精神の安定をはかることについては、一昨年日本に滞在中に、たまたまついていたテレビ番組の中で松岡修造さんが話されていたことと一致します。イラッとしたらアナウンサーになって自分自身の実況をするのだそうです。気持ちや感情が安定していないと感じた時はすぐに試してみようと思います。原因は案外些細なことであることに気がつくでしょう。 高性能の情報通信機器が汎用化されて “i” が強調され続けています。そして”i” は “I” と同義語のように扱われ所有権や優先権を主張することが多いように感じます。一方で“We”を意識して使うことの利点を多くの人が語っています。実際に試してみるといろいろなことに気がつきます。1.5mの間隔をあけて立ち話をしていても、WeやOurやUsが会話に入ってくると自然と物理的な距離を埋めてくれるような気がします。 App Storeにあるappsは利用者の評価をもとにratingsが表示されています。USAのApp Store でGoogle Classroom appの評価が下がっているという情報がありました。4月15日の時点で1.7/5でした。Australiaでの評価を調べてみると2.3/5でした。
Online learningが新常識となってこのappが各地の学校で使用されるようになってからGoogle Classroomはダウンロード数で上位5位に入りました。その一方で利用者からの評価値は反比例的に降下しました。Tik Tok上にGoogle Classroomをひとつ星の評価をしてApp Storeから排除しようと呼びかけている動きがあることも影響しています。 質問です。
Online learningを経験したことがある人はその長短を理解しています。私は現在4つのまったく異なる講座を受講しています。すべて興味があることなので「学ぶこと」を楽しんでいますが、そのうちのひとつの講座の提供者から頻繁に送られてくるお知らせには辟易しています。 子どもたちはどうでしょうか。課題への意欲は十分にあるでしょうか。家庭は良い学習環境でしょうか。一方先生は子どもたちに与える課題の中に動機付けや楽しさや発見、驚きの仕組みを散りばめているでしょうか。量よりも質を重視した内容を用意しているでしょうか。 日本にいる知り合いから近況報告が届きました。「自分で自分の予定を決め、実行することが嬉しいようです。その結果…休校1ヶ月半で、ドリルなどの学習以外に長女は、りんごの皮むきが上手に出来るようになりました!次女はミシンが上手に使えるようになりバッグを作りました!三女(小4)は、予習のつもりで始めた都道府県の学習(県庁所在地や特徴など)がほぼパーフェクトになったほか、ひとりで作れる料理が増えました!長男は、約150の国旗を覚えました!」 忙しい毎日だった親子が2020年のある日からゆっくりとした時間を過ごしたことは、それぞれの一生の思い出になるはずです。8年生のある生徒が自宅学習が始まる直前に映画を創りたいと相談に来ました。それ以来台本を書き上げ、参加者を募り、遠隔オーディションの方法と日程を決め着々と準備を進めています。どんな映画になるでしょう。 世界の各地で起きたことが、時と場合によっては地理的な距離に関係なく、人々の日々の生活を根底から変えることを私たちは今実感しています。このような事態になって初めて、「地球市民」という概念や意識に気がつきますが、果たして平時の学校での学習活動に世界を標準にして、あるいは視野に入れて物事をとらえる習慣があるでしょうか。
Andreas Schleicher氏はしばしば各国の教育内容が「内向き」傾向にあることを指摘しています。 “While globalisation is having such a profound impact on economies, the workplace and everyday life, education remains very local and often inward-looking. Education systems have a habit of building “walls” that separate teachers, schools or the systems themselves from learning from each another.” Andreas Schleicher (2018) World Class 文化や価値観、学校教育制度の仕組みの違いを勘案しても、日本の実例は外を向いてはいないように思えます。 質問です。
日本国内をめぐる報道も、残念ながら極端な内向性を持っています。とりわけこの時期に新聞やテレビで扱われる国外からのニュースの量と質を、他国の有力な報道機関の比率と比較すれば一目瞭然です。少し前までは世論を導き形成する役割を担っていた報道機関は、いつの間にか軽薄短小な生活習慣に迎合するだけの立場に停頓しているように見えます。 Internetで様々な情報、たくさんの人々とつながることができるようになったことは、仮想であっても良い意味があると思います。アンテナを高く伸ばして、世界中の報道機関が何をどう伝えているのかを知ること、どのような論説があるのか探ろうとする自らの情報収集は知的な生活を送る一つの方法であると同時に「外に目を向ける」習慣になるでしょう。 家庭で学習している中高生に投げかけてみるのも一案だと思います。「もしあなたがAustraliaに住んでいる16歳の高校生だったら」非常事態宣言の期間は? 学校はあいているの? 制限されている行動は? 収入が途絶えたお姉さんへの補償は? どんな店が開いているの? お父さんお母さんはテレワーク? 友だちとどうやってつながっているの? 運動してる? 完全なonline learningに移行した最初の1週間が終わります。計画の段階では気がつかなかったことや予想通りには進まなかったことなどが浮かびあがりました。
Google MeetやChatを各クラスの出欠を取る手段として選びましたが、だらだらとした会話を助長し、しかも出欠を取るのに予想外の時間がかかることが1日目に判明しました。Google Meetを活用して説明などを同時配信する方法を選んだ教員がいる一方で、要点をまとめた短い動画を制作してそれを中心に学習活動を始めたり発展させたりすることの優位性と必要性を感じている教員も多くいます。さらに、Google Classroomなどのplatformがよく機能していると感じている教員とまったく使えないと感じている教員に分かれました。 明かなことは、教室でお互いが顔を合わせて学習する環境の中でおこなってきた教育活動をそのままonlineでも継続しようとすることには無理があるということです。ある教員の意見です。 “Students may be digital natives but they are not native to learning how to learn online.” 質問です。
冷静に考えれば当然のことなのですが、既存の学校教育制度、教育内容 (Curriculum) 、方法は、そこに人が集まることを前提として学校という物理的な環境が造られ、実践されてきたのです。それらをonline learningへ平行移動させようとしたこと自体が誤りだったということに気がつきました。 2020年に予定されていた行事も特別活動もすべてが削ぎ取られると、残ったのは学ぶことと教えることです。教育の真髄だけが残り、ついにそれぞれの目の前に立ちはだかったという印象を受けます。私たちの本質的な仕事に集中できる機会がやって来たことに一種の喜びと興奮を感じます。 人々がそれぞれの家庭に籠ってこのPandemicをやり過ごしている最中、歩道や道に面した窓に “Stay Safe” などの言葉や虹の絵が描かれていたり、teddy bearなどが置かれたりしてお互いを励ましあう行動が見られるようになりました。私たちは困難を通して成長することに気がつく時でもあります。昨日収録した私たちの学校の神父様のmessageにもそのことが述べられています。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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