一年の終わりが近づいてきました。年の初めに願ったこと、思い描いたことが達成できてもできなくても、一人ひとりに平等に新年がやってきます。そして新年をきっかけとして再び新しい希望を持つことができます。慌ただしい日々の生活の時間をしばらくとめて「希望」について振り返ってみました。
“Grit depends on a different kind of hope. It rests on the expectation that our own efforts can improve our future. I have a feeling tomorrow will be better is different from I resolve to make tomorrow better. The hope that gritty people have has nothing to do with luck and everything to do with getting up again.” Angela Duckworth (2017) 「Grit (やる気、根気) は、別の種類の希望に依存しています。それは、自分自身の努力によって未来をより良くすることができるはずだという期待にかかっています。「明日は良くなる予感がする」と「明日を良くする決意」とは違うのです。Gritが持つ希望は、運とは無関係で、すべては「再び立ち上がること」なのです。」 “This is the era of just redemption We feared at its inception We did not feel prepared to be the heirs of such a terrifying hour but within it we found the power to author a new chapter To offer hope and laughter to ourselves So while once we asked, how could we possibly prevail over catastrophe? Now we assert How could catastrophe possibly prevail over us? We will not march back to what was but move to what shall be” Amanda Gorman (2021) 「今こそ 正義を取り戻す時代 私たちは それが始まることを恐れていました 私たちは その役割を受け継ぐ準備ができているとは思っていませんでした このような恐ろしい時代の しかし その中にあって私たちは力を見出したのです 新しい章を書くために 自分自身に希望と笑顔を提供するために かつて私たちは問いかけたことがあります 大惨事に打ち勝つにはどうしたらいいのだろう? 今 私たちはこう断言します 大惨事が私たちに勝てるわけがない 私たちは過去に戻るのではなく あるべき姿に向かうのです」 “Feeling hopeful does not mean to be optimistically naïve and ignore the tragedy humanity is facing. Hope is the virtue of a heart that doesn't lock itself into darkness, that doesn't dwell on the past, does not simply get by in the present, but is able to see a tomorrow. Hope is the door that opens onto the future. Hope is a humble, hidden seed of life that, with time, will develop into a large tree.” Pope Francis (2017) 「希望を感じるということは、楽観的に愚直になりきって、人類が直面している悲劇を見ないふりをすることではありません。希望とは、暗闇に閉じこもらず、過去にとらわれず、現在をただやり過ごすのではなく、明日を見据えることのできる精神の美徳です。希望は、未来に開かれた扉です。希望は、謙虚でひそかにたたずむ命の種であり、時がたてばやがて大きな木に成長します。」 新年がみなさまにとって希望と喜びに満ちた良い一年でありますように。
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女性解放活動家で作家のbell hooksさんの死亡記事がありました。筆名を小文字で書くところにこの方の信念が伝わってきます。特に脈絡があるわけではありませんが、詩人の石垣りんさんや茨木のり子さんを思い出しました。
“Dominator culture has tried to keep us all afraid, to make us choose safety instead of risk, sameness instead of diversity. Moving through that fear, finding out what connects us, reveling in our differences; this is the process that brings us closer, that gives us a world of shared values, of meaningful community.”bell hooks (2003) A Pedagogy of Hope 「(社会の中で)優位を占めている文化は、私たちを恐れさせ、リスクではなく安全を、多様性ではなく同質性を選ばせようとしてきました。その恐怖を乗り越え、私たちをつなぐものを見つけ私たちの違いを楽しむ。これこそが、私たちを近づけ価値観を共有する世界、意味のある共同体を生み出す過程なのです。」 質問です。
校内の様々な教育活動やその評価方法を注意深く観察すると、先生方の頭の中では同質化を最大の到達目標としているのだろうという予想が明確になってきます。必然性も根拠もない漠然とした「もの」に寄りかかって安全を得ようとする心理が働いているようにも見えます。 安全や同質性を選ぶ傾向、その思考回路と行動形態は多くの人々の中にdefaultとして棲みついているので、新しい考え方や方法を冷静に客観的に調べてみようという過程さえもむずかしくしている場合があるのが現状でしょう。 茨木のり子さんの作品の中に「落ちこぼれ」という詩があります。 落ちこぼれ 和菓子の名につけたいようなやさしさ (中略) 落ちこぼれ 結果ではなく 落ちこぼれ 華々しい意思であれ 意思として同質化を拒むという選択肢を人生の中で何回か選びました。実際には他の選択肢がなかったというのが事実ですが。 先入観や偏見について、中等部の子どもたち全員と話し合いました。7年生は「背が高いからスポーツをしているだろうという先入観を持たれる」、「男だからこれくらいできるだろうと偏見を持たれる」、「めがねをかけているから頭が良さそうと言われる」などのようなつぶやきがあり、8年生からは「服装で運動ができる人と思われている」、「ホームレスの人が悪いと決めつける人がいる」、「数学だけが苦手なのに他の教科も苦手と思われている」という発言がありました。9年生からはさらに深い体験を共有してくれました。「せんぎょうしゅふと聞くと『専業主婦』しか思いつかない人がいる」「髪型や服装で警察官から職務質問を受けた時に校名を伝えても信じてもらえなかった」「帰国子女=英語ペラペラ」「朝の電車で『こいつ金髪やほんまに学校行くんか?』みたいな目で見られる」
多くの子どもたちが先入観や偏見を持たれて苦々しい体験をしている事実を改めて認識するきっかけになりました。自分も学校に通っていた頃や社会に出てから、他の人に対して持ってしまった先入観や偏見を思い出し、また他の人から持たれてしまったこともよみがえってきました。 質問です。
1130冊の児童書をAIを活用して人種、年齢、肌の色、性別に関して先入観や偏見がどのようにあらわれているかを調査した研究が最近発表されました。 AIの分析が明らかにしたものは、たとえば、好ましい登場人物は肌の色が薄い場合が多いというような予想がつきやすいものですが、子どもたちの読み物の中に先入観や偏見を生むきっかけになる要素が多く潜んでいることがわかり、本を選ぶ際に大人が気をつける必要があることが明確になりました。 子どもたちの学習に関しては先入観や偏見はあってはならないものですが、指導する人が評価もするという環境では、様々な主観的な要素に影響を受ける場合が多いように感じます。客観性をあげるためには診断的、形成的評価を頻繁に実施することが重要になってきますが、入口・出口質問のような簡単に実践できるものを日常的に活用するだけでも客観的事実や証拠を集めることができ、同時に無意識のうちに持っている何らかの先入観を排除することができるでしょう。 共感EmpathyはDesign Thinkingの出発点ですが、学習活動も子どもたちへの共感が第一歩のように思います。共感があるところに先入観や偏見が忍び込む可能性は低いように感じます。 2020年1月以来中断していた研究講座を先週の日曜日に再開しました。同じ場所にいて、顔だけでなく相手の姿や仕草を見ながら話し合うことは本当に良いものだと感じました。
今回の講座は学習者の学びや知的成長を保証するための個別最適化が主題でしたが、一般的に使われる表現ではなく Differentiation 2.0 という造語にしてみました。1.0ではないのは、最近の海外の Differentiation に関する実践研究が少し変化してきていることを感じたからです。それは教師が様々な準備をするのではなく、学習者の子どもたち自身が自分の学習を創るという student agency の考えに基づいています。Equality 平等が大切なのではなくEquity 公平が個別化の基本姿勢ですが、さらに進んで、Option 選択肢を与えるのではなくChoice 選択権を与えるという考え方に動いています。 まず最初にアマチュアとプロの違いについて先生方に話し合ってもらいました。子どもたちは、無意識のうちに学習活動の中で様々なサインを出しています。教師にとってはそれらを感じ取る感性のアンテナの高さが重要になってきます。一人ひとりに目や手が届いているかどうかということが Differentiation の証拠であるならば、教師に必要とされる専門性の中では教科や指導法と同様に重要な資質でしょう。 質問です。
教師になりたての頃、土曜日の夕方に学校を出て都心の有名ホテルのロビーに座ってそこで働いている人々の様子を眺めることをよくしていました。広いロビーにはそれぞれの役割を持った人々がいて、無駄のない適切な動きをしています。そこで働いている人々の目的と意識はひとつのこと「お客様に最大の満足を感じてもらうこと」に集中していることは明確でした。 学校や教室も同様に、その存在理由である子どもたちの知的・社会的な成長に責任を持つという使命に忠実になればなるほど専門性は上がるでしょう。責任を持つということは、すべてを背負うというのではなく、何が可能でどうすれば良いかという思考から始まると思います。個別化をする必要性は誰もが認識している事実ですが、なぜ実践できないのかを振り返ることが専門性を高める一歩のような気がします。 今回の研究講座のpresentationはこちらをご覧ください。 |
Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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