教室の入口で8年生を一人ずつ迎え入れていると、ある子が “When will you cook noodles for us?”とたずねてきました。実はこれまで言い訳をしていましたが、もうこれ以上延ばすことはできないと判断し、次の時間に作ることを全員に約束しました。その際、使い捨てのプラスティック皿は様々な理由から使いたくないので、各自家から容器を持ってくるように伝えました。
果たして、翌日2時間目に全員が容器を持って教室に来ました。そのうちの2名は忘れたのですが機転を利かせて容器を手に入れていました。子どもたちは、大人もそうですが、理由と目的、必然性を理解していれば行動に移すことができることを、私たちは経験的に知っています。 ある校長先生から小中学生に配布する「パソコンやタブレットを利用するためのガイドライン」の原案について相談を受けました。相手のことを考える、役に立つ使い方を考える、使い方を振り返る、ルールを考える、困ったときは相談する。これらの5点について意味の説明があります。 子どもたちの日常生活にICT機器、internet、SNSなどが完全に浸透してしまった現状を目の前にすると、ガイドラインを作成して指導すること(この場合は伝えること程度でしょうか)で正しい使い手が育つと考えるのは現実的ではないと直感しました。 質問です。
先週の金曜日20日は世界中でthe School Climate Strikeがありました。Greta Thunbergが昨年一人で座り込みをしたその1年後に全世界にその熱意が広がりました。ちょうどこの日の午後、所用でPerthの街中へ電車で出ると、strikeを終えた学生たちと出くわしました。その中に私たちの生徒もいました。 最近”Student agency”ということを考えています。和訳しにくい言葉ですが「学生による自治」というような意味になるでしょうか。つまり、大人たちの都合や価値観で子どもたちを動かそうとするのではなく、子どもたちの意思で、大人たちとのpartnershipをとって学校や学習にかかわることを共通理解のもとで進めていく世の中になったのだと思います。というよりはむしろ、社会はもともとそうあるべきだったのだと思います。
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私たちの学校が開校以来続けていることのひとつに、8年生全員が参加する「話す」技能試験があります。詩の朗読と自由課題についての発表からなるこの試験は、30年のうちに数回名称が変わりましたが、内容は今も同じです。その”Talk Fest”が3日間ありました。
朗読や発表だけでなく、審査員が出す突っ込んだ質問にも的確に表現豊かに答えることが要求されます。この15分の試験に向けて、数週間に渡って8年生たちが真剣に練習する様子がLearning Centreのあちこちで見られます。 自由課題は趣味やペットのような身近な話題もあれば、祖父の戦争体験をもとにしたもの、人種差別の歴史などのような社会性が高い題材まで多岐に渡ります。聴衆を発表に引き込むための手段にもそれぞれの工夫があります。今年もペットの蛇や馬、おじいさんご本人も登場しました。 質問です。
先日、大学入試の一科目として日本語を履修している12年生のspeaking assessmentを担当しました。自分が選んだ話題のspeechと12年生で扱う単元(将来の計画、今年の出来事など)に関連した質疑応答の二部構成です。入試と同様に、一人あたり12分から15分かけて会話能力を測ります。 手間と時間がかかりますが、言語能力を育て、その能力を測定するためには不可欠な方法でしょう。日本の大学入学共通テストで英語の民間試験を取り入れることにした判断とは正反対の教育観と価値観が現れているように感じます。 ところで、私は母国語でも外国語でも、話すことの練習を系統的に継続的に積んだ経験はありません。小学校に勤めていた頃、国語の研究者だった校長先生の発案で、全教員が順番で全校朝会の際の講話を担当することになりました。自分の番に何を話したか思い出せませんが、稚拙な内容だったという敗北感を持ったことは覚えています。 海外に出て、初めて地元の公聴会の場で話をしなければならなかった時も敗北感を強く感じました。自分が思い描く成功や満足感の基準があるにもかかわらず、技量不足のために明らかにそこに到達していないことを痛感する時ほど悔しいものはありません。 Challenge Based LearningのStart-up businessから買った花の種を先週の日曜日に植木鉢に蒔きました。この週末にのぞいてみると芽を出して双葉になっています。懐かしいうれしさがこみ上げてきました。というのも、小学1年生の時にアサガオの種が発芽して土を持ち上げているのを見つけた時に感じた喜びと同じだったからです。
布を縫って袋を作り、花の種を入れて売る。買って育てた人が花を楽しむ。種ができるとそれを集めて布袋に入れて、隣人や知人にあげる。この単純な循環の中に人と人がつながる大切な意味が含まれています。 14歳の少年たちが試したStart-upには人間性が溢れ、たくさんの可能性が見えてきます。このような学習活動ができることは子どもたちにとっても私たち教師にとっても幸福なことだと、双葉を見ながら思いました。 質問です。
子どもを持つ親なら、教室で子どもたちと日々活動をする教師なら、学校で慣習として行われているたくさんのことがもはやほとんど意味を持っていないと気がつくことがあると思います。親にも教師にもそれらのいくつかを少しずつでも変えてみる自由度や主体性があっても良いのではないでしょうか。例えば、夏休みの間の課題や補習授業は本当に必要なものでしょうか。子どもたちの知的成長や将来に真剣に責任を持つなら、時間と労力をかけるべき物事は別にあるのではないでしょうか。 2学期の学習活動は、子どもたちにとっても教師にとっても深い学習だったと確信と共感が持てるものであってほしいと思います。当然のことながら、教科書の単元を指示通りにこなすことからはみ出る勇気が必要でしょう。CBLをSemester 1に履修した子どもの感想を引用します。 I would definitely encourage other year groups to do CBL. Even though it was extremely challenging, it allowed us to engage with others and we were able to develop life skills that otherwise we would not get. It was a life experience that I am forever grateful that I got to have. I think that participating in CBL helps you to gain more self confidence and you are able to think of an environmentally friendly idea that you can sell and use. It was an experience that every Kolbe student should have. |
Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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