私たちの学校が開校以来続けていることのひとつに、8年生全員が参加する「話す」技能試験があります。詩の朗読と自由課題についての発表からなるこの試験は、30年のうちに数回名称が変わりましたが、内容は今も同じです。その”Talk Fest”が3日間ありました。
朗読や発表だけでなく、審査員が出す突っ込んだ質問にも的確に表現豊かに答えることが要求されます。この15分の試験に向けて、数週間に渡って8年生たちが真剣に練習する様子がLearning Centreのあちこちで見られます。 自由課題は趣味やペットのような身近な話題もあれば、祖父の戦争体験をもとにしたもの、人種差別の歴史などのような社会性が高い題材まで多岐に渡ります。聴衆を発表に引き込むための手段にもそれぞれの工夫があります。今年もペットの蛇や馬、おじいさんご本人も登場しました。 質問です。
先日、大学入試の一科目として日本語を履修している12年生のspeaking assessmentを担当しました。自分が選んだ話題のspeechと12年生で扱う単元(将来の計画、今年の出来事など)に関連した質疑応答の二部構成です。入試と同様に、一人あたり12分から15分かけて会話能力を測ります。 手間と時間がかかりますが、言語能力を育て、その能力を測定するためには不可欠な方法でしょう。日本の大学入学共通テストで英語の民間試験を取り入れることにした判断とは正反対の教育観と価値観が現れているように感じます。 ところで、私は母国語でも外国語でも、話すことの練習を系統的に継続的に積んだ経験はありません。小学校に勤めていた頃、国語の研究者だった校長先生の発案で、全教員が順番で全校朝会の際の講話を担当することになりました。自分の番に何を話したか思い出せませんが、稚拙な内容だったという敗北感を持ったことは覚えています。 海外に出て、初めて地元の公聴会の場で話をしなければならなかった時も敗北感を強く感じました。自分が思い描く成功や満足感の基準があるにもかかわらず、技量不足のために明らかにそこに到達していないことを痛感する時ほど悔しいものはありません。
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Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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