久しぶりに見る深まる秋の風景は、四季の区別が明確な場所に住む楽しみのひとつだということを感じさせます。今朝イチョウの葉でおおわれた道を歩きながら Lin Yutang (林語堂) の文章を思い出しました。
"I like spring, but it is too young. I like summer, but it is too proud. So I like best of all autumn, because its leaves are a little yellow, its tone mellower, its colours richer, and it is tinged a little with sorrow and a premonition of death. Its golden richness speaks not of the innocence of spring, nor of the power of summer, but of the mellowness and kindly wisdom of approaching age. It knows the limitations of life and is content. From a knowledge of those limitations and its richness of experience emerges a symphony of colours, richer than all, its green speaking of life and strength, its orange speaking of golden content and its purple of resignation and death." 「その黄金色の豊かさは、春の無邪気さや夏の力強さではなく、年齢を重ねたときのまろやかさややさしい知恵を物語っています。」 折りしも「やさしさ」について考える機会がありました。 質問です。
産業医の先生との話し合いの中で、相手にやさしく接することは感情が入ることの危険性があるという指摘がありました。そこで、丁寧に接して互いの感情が入らないように一線を画すことが職場でのやり方という結論に至りました。 数日前に届いた Adam Grant からの Newsletter でも丁寧さとやさしさの区別についてが主題でした。 “Being polite is saying what makes people feel good today. Being kind is doing what helps people get better tomorrow. In polite cultures, people bite their tongues on disagreement and criticism. In kind cultures, people speak their minds respectfully.“ 私は考えていることや心の中にあることを相手を尊敬しながら話すやさしい (親切な) 文化を支持したいと思います。 遠目に見る山肌の色がこれからさらにどのように変化するか楽しみです。
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学校説明会でお父さん、お母さん、小学5年生の娘さんの3人家族が向かいに座りました。私が質問に答えるたびに、このお父さんは長女は学年で上位の成績であること、けれども隣にいる次女は下位であるという主旨のことを表現を替えて言い続けました。
お父さんはいつもこのようなことを姉妹の前で言っているのでしょうか。この女の子の二重の目が、お父さんのむごい発言に対して感情を出さずに、私をじっと見つめています。 私ができることは、この子の目をしっかり見ながら、自分の力を信じて努力すればいつか必ず良い結果が出るということをくりかえし伝えることだけでした。 とは言うものの、確証もない励ましがこの子にどれだけの意味を持つかを想像するとやるせない気分になりました。 質問です。
“Our educational system teaches us that our worthiness as students is based on our grades or test scores. “ “Whatever the cause, for many of us our self-worth is tied to our accomplishments and possessions. As soon as we fail or lose approval, we experience low self-worth. “ Adia Gooden (2020) 私たちの教育システムでは、生徒としての価値は成績の評定やテストの点数で決まると教えられています。原因が何であれ、私たちの多くは自己価値を達成感や所有物と結びつけています。失敗したり、他から認められることを失ったりすると、すぐに自己価値が低くなります。 今日出会った5年生の女の子のself-esteem 自尊心やself-worth 自己価値感は、もしかするとかなり低いのかもしれません。そのような危険的な状態の子どもたちはどの教室にもいる可能性があります。どうすれば救うことができるでしょうか。 たとえば、5段階評価の最低の評定は出さない、落第点や不合格は出さないという規則を作るのはどうでしょうか。そうすると、子どもたちが一定の成果をあげないのは教師の責任でもあるという認識が生まれるのではないでしょうか。もっとも規則がなくても教師の責任であるのは明確なことですが。 自分の子どもの育て方を予め決めていた人、育てながら何となく形ができてきた人、とりわけ考えずに自然に任せた人、子育てに直面する親にはいろいろな場合があるでしょう。例えば、子どもを「庭師」のように育てる、「大工」のように育てるという例はどうでしょうか。
“(A gardener) works to create fertile soil that can sustain a whole ecosystem of different plants with different strengths and beauties—and with different weaknesses and difficulties.” Alison Gopnik (2016) The Gardener and the Carpenter (庭師さんは)強さや美しさ、弱さやむずかしさを持つさまざまな植物の生態系を維持するために、肥沃な土壌を作る仕事をしています。 つまり、子どもたちが成長するための条件を整えることはできても、私たちの定義する成功を満たす子どもたちを作り出すことはできないという認識に基づいています。 一方の大工さん型の子育ては、自分の思い描く目的を明確に意識して自分の子どもを「作って」いきます。 質問です。
受験という特殊な事例を考察すると、子どもたちも保護者も学校の先生方が大工さん型であることを望み、先生方も大工さん型であることに専門性や使命を感じているでしょう。現実の社会の制度や状況は簡単には変えることができないので一定の期間内では許容されるという了解が得られるかもしれません。問題は3年間、あるいは中高の6年間の学習活動が受験という目的を念頭に置いた大工さん型になっている場合です。 肥沃な土壌を作るという段取りや作業を狭義に解釈し、6年間を「準備」に費やすことを正当化することは容易ですが、子どもたちの全人的な成長やこれからの社会に必要な能力を育むこと、今の学びに夢中になって楽しむことを保証するべきでしょう。 「庭師」と「大工」のたとえは、これまでの学校教育は工業・工場型で、これからは農業型の教育が必要になるという主張と共通点があることに気がつきます。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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