この1か月程の間考えていることがあります。それは学習は「結果」や「成果」としてみるべきか、あるいは「過程」としてみるべきかということです。より現実的な表現をすると、各自の学習は最後にあらわれる「結果」や「成果」で評価されるべきか、あるいは「過程」を評価するべきかということになります。
Finland人のこの先生のblogには「過程」を大切にする視点が強調されています。共鳴する点がたくさんあります。 しかしながら自分自身の2017年を振り返ってみると、過程を大切にしつつも学習の最後にあらわれる成果を求めていました。とりわけChallenge Based Learning (課題解決型学習)の場合、生徒たちからより高度な成果を導き出すためにある一定の手順を踏むことを常に要求していました。それはAction Researchなどで一般的な進め方でもあり、科学的な方法ですが、果たしてそれが本当に生徒たちの思考経路や学習経験に必然性があり有意義だったのかどうか。 質問です。 ① 教科の学習の中で過程を重視することで生まれる可能性は何でしょうか。 ② 学習の結果だけではなく過程をも評価することで、子どもたちにどのような能力や資質を育てることができるでしょうか。 例えば、こういうことです。生徒たちは地域が持ついろいろな課題からある一つを選び出します。間もなく「解決策が見つかった」と勇んで知らせに来ます。すると私は、根本的な原因を突きとめたか、利害関係者に聞き取り調査をしたか、現状ではなぜ解決できないのかなどと質問攻めにして、順番通りにresearchをすすめなければ真の解決策は得られないと指導します。実はこの時点で多くの生徒の意欲や熱意がしぼんでしまいます。 もし、そのような指導をせずに生徒たちの思いのままにやらせ、数週間後市の担当者と一対一の中間報告会を持ちます。その中での質疑応答で自分たちが見落としていた調査などに気づき、学校に持ち帰って不足していた内容や調査活動を補い、最終報告会に臨むという方法をとったらどうでしょうか。 そんな案を漠然と描いている時、偶然このvideo blogを見ました。Self-directed mindsetを育む機会としてとらえる考え方です。さらに、大村はまさんの全集をめくっていると、生徒が書く「国語学習記録」について、「作品を目標としない、もっと日常的な「書くこと」「書く生活」の指導といわれるものは、このような学習生活を、このような文章で書くことのなかで行われると思う。」(大村はま国語教室 第12巻)とありました。どちらも学習の「過程」を重視する姿勢です。
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夏至の日の入りは西(270度)からさらに南下し約240度のIndian Oceanに沈んでいきました。沖の島々を目安に日の入りの位置を振り返ると、6月の冬至から大きく動いたことに気がつきます。
今年は同じ場所からある対象を継続して撮影するということを試してみました。ひとつは更地から基礎工事を始め建設した新Learning Centreの落成までの過程。もうひとつは学校の正面玄関にあたる塔の横にある鈴懸の木の冬から初夏までの変化の様子です。さらに”1 Second Everyday” というiOSのapplicationを使って、1日1秒の動画を撮り続けました。 今それらを観ると、小さなことですが続けて良かったと思います。たくさんの価値のある瞬間で構成されている画像や動画は学校の共有財産になり、1年の全教育活動の成果を祝うAwards Nightで披露しました。 質問です。 ① 教科や学級で長期にわたって継続している課題、活動、作業、遊びなどがありますか。 ② 子どもたちの学習成果や作品などを通年まとめておいて、その成長の幅を評価のひとつの材料とするのはどうでしょうか。 例えば、学習noteのとり方を継続して指導し1年間の上達度をみんなで振りかえったり、portfolioをひろげて1年間の学習と成果を顧みることを実践されている先生がたくさんいらっしゃると思います。私は小学校で教えていた頃、物を観察する力や対象物と他との関係をとらえる力などを伸ばす必要を感じて、毎週水曜日の朝に10分間程度の素描の時間を設けていました。毎週の作品を綴じておくと3学期の終わりにはそれぞれの1年間の素描集ができあがります。そしてすべての子どもたちが自分の観察力、表現力が伸びたことを目の当たりにしました。 誰もが成長を実感できる学習活動には5段階や点数はふさわしくありません。実際に自分の能力の成長を見ることができる評価方法を積極的に取り入れてみてはどうでしょう。どんなに多忙な日常でも賢い仕組みを用意しさえすれば簡単に継続していくことができます。時間に余裕がないと思う前に、気持ちに余裕を持って試してみる価値はあると思います。 何かができるようになる成長の喜びほど尊いものはないと思います。それは学習活動の中で自分の成長を発見することもあるでしょうし、日常の生活の中にふっと現れることもあるでしょう。子どもの頃電車に乗って出かけるたびに吊り革をつかむことに挑戦していました。ある時、3本指が引っかかりました。ただ単に身長が伸びただけなのですが、「できるようになった」喜びは大きかったのを思い出します。 Semester 2の成績処理の期間中、教員どうしの会話が聞くともなく耳に入ってきました。教科主任とその教科を担当する教員とのやりとりです。
A: 私のこのclass、この得点域にこれだけの生徒がいるんだけど。 B: 判定が甘かったと思う。何か簡単ではない問題の小testをやらせて、そのかたまりをバラしてみたらどう。 A: 〇〇のclassはAが□人もいるの知っている? B: それはありえない。完全に〇〇の判定基準が甘い。 いくつかの問題点に気づきます。① 絶対評価であるのに相対評価をしようとしている。 ② 従ってAからDまでの生徒数が放物曲線を描くのが理想的、当然と考えている。③ 担当の教員たちが成績を出してきた時点でそれぞれが同じ評価を実施していながら判定基準が同じでないことに気がついたこと。一方で、教科によっては試験等を数人で交換して採点する方法や、担当教員が全員集まって、A, B, C, Dに値する解答例を出し合って共通の基準を明確にするなどの方法を取っています。とりわけ記述式の問題の採点はそのような手順が一般的です。 質問です。 ① 何れの場合も、学習の評価に関して最も重要視しているものは何でしょうか。 ② 評価を通して教師がつかまなければならないことは何でしょうか。そして子どもたちや保護者が知らなければならないことは何でしょうか。 約20週間のsemesterで学習したこと、そしてその期間にこなした評価だけで5段階評定が可能なのでしょうか。学習とはもっと時間のかかるもので、個人差も計り知れない範囲で存在するというごくあたりまえの事実を、私たちは忘れているように感じます。 いま人心は草木の如く、教育は肥料の如し。この人心に教育を施して、その効験三日に見るべきか。いわく、否なり。三冬の育教、来年の春夏に功を奏するか。いわく、否なり。少年を率いて学に就かしめ、習字・素読よりようやく高きに登り、やや事物の理を解して心事の方向を定むるにいたるまでは、速くして五年、尋常にして七年を要すべし。これを草木の肥料に譬うえば、感応のもっとも遅々たるものというべし。福沢諭吉 (1882年)『徳育如何』 次回1月21日の研究講座ではこれらのことも先生方と考えたいと思います。 6年間共に走り、大学で勉強しながら練習に励んでいる卒業生の快挙の知らせが飛び込んできました。世界記録にはまだ遠いですが彼の努力はこれからも続くでしょう。 法律が改正され、校外学習などで生徒の引率をする場合、救急法救急員の資格がないと引率や校外学習ができないことになりました。
様々な校外での活動や引率をする可能性のある教員を対象に救急員の資格を取得するための講習会がありました。理論をonline programを通して学習し試験で100%を取ってから実技講習に進むという説明が2・3週間前にmailで届きましたが、雑事にかまけて気にはとめていませんでした。前日の午後になって思い出してlinkをひらいてみるとそこには13ものmoduleがあります。その一つひとつを視聴しないと次に進めないように仕組まれています。しかも各moduleには小テストがあり100%に達しないとやり直しです。一刻も無駄にすることなく進めなければ明朝8時30分からの実技講習会には間にあわないことを自覚して猛進しました。 翌日の朝、ようやく13番目のmoduleを終えました。いよいよ最後のonline試験です。ひらくと55問あります。そして条件は100%を達成すること、やり直しは3回までとあります。 こんなに慌てることは久しぶりです。1問1問臨みました。しばらく進むと、moduleにはなかった内容の質問があります。もはや万事休す、と諦めかけた時に悪知恵が浮かびました。「そうだ、Googleすればいい。」 質問です。 ① Googleで答えを見つけることができるような質問の試験から一体何を評価することができるでしょうか。 ② 「理論」に関する試験の場合、どのような質問が可能でしょうか。 Googleから答えを得て、次の質問に進みました。その後もいくつか不可解な問題がありましたがGoogleのお陰で乗り越え、最終的に100%を取りました。しかし、明らかな不正行為です。 その「試験」から数日経った今、不思議なことがあります。Googleで調べて見つけた答えとその質問は今もはっきりと頭の中に知識・情報として残っていてすぐに口に出して言うことができますが、ほかの質問は思い出そうとしなければ出てきません。 不正行為が実は自分で模索した主体的な学習で、moduleの動画の視聴自体は課題の消極的な消化だったのではないかということを感じています。Newcastle UniversityのSugata Mitra教授は試験などでの不正行為は「学習」と言えるのではないか、教師が子どもに知識を教え込むことは学習と呼ぶことはできないということを述べていたのを思い出しました。 12月はAustraliaでは一年の終わりであると同時に学年の終わりでもあります。Ideas 43を書いてから3週間がたち、その間にたくさんのことがありました。Kolbe Collegeでは8日金曜日が生徒たちにとってこの年度の最終日でした。
いつもの朝のようにLearning Centreで仕事をしていると9年生の生徒がChristmas Cardを届けてくれました。やりかけの仕事があったのでお礼を言っただけで封をあけませんでした。帰宅してからあけるとこうありました。 ”Thank you, sir, for an amazing year. I really appreciate your support, and general opinion and ideas of things in topics that we have enjoyed discussing. ” そして楽しかったこと思い出に残っていることが挙げてあり、締めくくりには “ Little things make big days. You live by this, sir.”とありました。 この生徒とはこの1か月ほど、人はなぜ学校で総花的に教科を学び知識や技能を習得しなければならないのか、という難問について話し合ってきました。後期中等教育を目の前にして、芸術系や人文科学が得意な自分と自然科学分野の専門職に就く両親との意見や価値観の違いがはっきりしてきたようです。 質問です。 ① 年齢や経験・立場を超えて、同じ人間として自分の子どもや生徒たちとゆっくり話す機会や時間がありますか。 ② 子どもたちの話や考えを、親や教師の価値観や尺度を持たずに対等の人間として聞くことができますか。 この生徒のSemester 2の成績表は”A”がずらりと並ぶ中に、数学などいくつかの教科に”C”がついています。お父さんやお母さんは、自分の子どもの精一杯の努力と成果を心から褒めてくれたでしょうか。気になるところです。すべての生徒たちに一年の成就感を胸にしまって、楽しく心豊かなChristmasを迎えてほしいと思います。 Spotifyで a cappella groupの The Idea Of Northを聴きながらこの文章を書いていると”Step Outside”という歌詞と旋律が美しい曲が流れてきました。"People have gifts… but some gifts are just wrapped in more layers” あまりにも偶然でできすぎた話になってしまいますが、「人はみな同じだけ”gift” 天賦を持っている。けれども人によっては幾重にも包まれているので気がつかないだけ。」という歌詞のように学校の教育活動の成果や子どもたちの成長をゆったりととらえる姿勢を持ちたいと思います。今年もたくさんの生徒たちとじっくりと関わることができたことを幸運に思います。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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