小学校1年生の教室から始まる給食当番、清掃作業。高学年になると委員会活動や部活動も加わります。学校によっては縦割りの活動の時間があり、地域によっては子ども会の活動も盛んです。中学校に進学すると委員会活動や部活動も本格化してきます。日本の学校に通う子どもたちはこういう環境のもとで育ち、協働作業の喜びや難しさ、共通の目標に向かって努力する意味、集団の構成員としての自覚と責任感などを身につけていきます。
21日に発表されたPISA2015 Collaborative Problem Solving の結果は、日本特有の学校文化、社会が長い間価値をおいている規範、さらに子どもたちの協調性が顕著にあわられたものだと思います。 PISAを実施するOECD, Education & Skills のDirector, Andreas Schleicher氏も21日のOECDのblogに ”There are countries where students do much better in collaborative problem solving than what one would predict from their performance in the PISA science, reading and mathematics assessments. For example, Japanese students do very well in those subjects, but they do even better in collaborative problem solving. ” と日本の子どもたちが協働作業になると個々の力がさらに増幅されることを指摘しています。 質問です。 ① 日本の学校では教科外活動で協働する場面がたくさんありますが、教科学習でも協働問題解決の機会がたくさんあるでしょうか。学習活動の中でどのように協働する力を育てているでしょうか。 ② 多民族・多言語の環境の中でも日本の子どもたちが将来協働して問題解決を進めていけるようになるために、学校ではどのような実践が可能でしょうか。 司馬遼太郎さんの命日に『菜の花忌シンポジューム』が開かれます。2013年の会で内田樹さんが坂本龍馬の生き方について次のように話されていました。「龍馬が自己開発した能力というのは、歴史の文脈を適切に把握し、いるべき場所、いるべきとき、なすべきことを直感できる力でした。その重要性は、現代日本においても変わらないと思います。」ここで指摘されている「能力」とは起業力、構造的思考力、想像力、洞察力、行動力などに置き換えられると思います。龍馬が150年前に発揮したこれらの力こそ、21世紀型と呼ばれている能力に他ならないと感じます。 この調査で1位になったSingaporeの報道や3位につけた香港の報道に目を通してみました。共通していることは、社会の急速な変化に対応するために、言語能力や数・数量に関する能力を基盤に21世紀型の能力を生徒たちが身につけることの重要性と学校や授業の改革の必要性が指摘されています。 ここWestern Australia州では一歩先んじて、課題(問題)解決型学習を大学受験科目の一つとして導入する方向で調査・準備が始まりました。
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筑波エキスプレスの列車が定刻より20秒早く出発したことについて鉄道会社から謝罪が出ました。このことについて世界の報道機関が記事を出しています。
日本のNHKにあたるAustraliaのABCは ”They could contrast with Sydney trains, which defines being "on time" if the train leaves within five minutes of its scheduled departure.” という、しばしば揶揄の対象になるAustralian timeにかぶせて好意的に報道しています 。 英国のBBCではいくつものTweets を掲載して、”Impressed railway users worldwide tweeted the story to their local train operators - particularly in Britain, where rail services are often delayed.” という立場でこちらも好意的なmessageを発しています。 実際のところ、この出来事は日本の鉄道輸送に関わる企業の誠意や責任の認識の度合い、さらに利用者を中心に企業活動を展開する手本として好意的に評価されているように見えますが、私は安直にその通りに受けとめて良いものかどうかしばし考えました。 帰国のたびに味わう違和感は、一般の日本人が描いている「おもてなし」という意識や感覚とはまったく正反対のmessageを撒き散らしていると感じるからです。例えば、いかにも指導書通りに頭を下げて皆と同じ文句を鸚鵡返しに連呼する場面に出くわした時、コンビニのようなところでも、両手を腹のあたりで合わせて「いらっしゃいませ」と言われた時は、胸が悪くなるような不快感を感じます。AIで制御されたrobotの行動のように、自分の感情や気持ち、人間らしいあたたかさがない空虚な言葉や挨拶、そういうまやかしの雰囲気だけでつくりあげる「おもてなし」の横行を見直してみてはどうでしょうか。 質問です。 ① 鉄道会社からの謝罪は純粋に利用者に対しての謝罪なのでしょうか。それとも先手の「防御策」なのでしょうか。 ② 日本は形式的に謝れば済むという「謝罪」社会に堕落したと感じますが、そういう社会をつくってしまった原因はなんでしょうか。 勇気のある「謝罪」で思い出されるのは、2008年2月13日AustraliaのRudd首相が国会で先住民族への過去の迫害や差別に対して首相として初めて謝罪をしたことです。50年代、60年代には先住民族の子どもたちが家族から隔離され施設で白人文化を強制されました。同僚のお母さんもその一人です。毎年5月26日のNational Sorry Dayでは、国民が過去の過ちに向き合い、多民族多文化国家としての前進を誓います。 月曜日の朝、Learning Centreで生徒たちにまざって仕事をしていると、9年生の生徒が話しかけてきました。土日にかけて仕上げた英語の宿題のことについて興奮気味に話し始めました。選んだ本の広告posterを制作し、その意匠の趣旨と意味、対象にしている読者層などについて分析的な解説文を書くという課題です。実際に作品をiPadから出して熱っぽく説明してくれました。しばらくして作品をmailに添付して送ってきてくれました。生徒が作品などを見せにきた時はいつもその努力をほめて、Can I have this? とたずねます。
なかなかの力作で、語彙が豊かです。豊かな幅の動詞と形容詞が使われています。 日本の教育過程は外国語に限らず日本語(国語)も短編を「読む」ことに主眼がおかれていて、他の三領域には量的に均等な学習活動の機会が用意されていないように感じます。話すこと、書くことという人間にとって大切な表現活動の知識と技術を各教育段階で適切に積みあげていない現状は危機的と認識した方が良さそうです。聞くことの学習活動も皆無に等しいのではないでしょうか。 「国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章語にして語れ』ということである。(中略)ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯四、五百語で、、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。」司馬遼太郎 (1987) 質問です。 ① 国語力の大きな「畑」として、学校や先生方はどんな取り組みを続けていますか。 ② 子どもたちも大人も、長文を根気よく読み抜くこと、筋道を立てて話すこと、正確に冷静に聞くこと、語彙と表現方法を豊かに書くこと、そして感情を切り離し論理的に議論をする能力を育てるために何が必要でしょうか。 表現活動そのものが学習活動である演劇、ダンス、音楽、美術、書道のような教科を小学校から高校まで教育課程の中核において、多様な「表現能力」を時間をかけて大切に育てていくことができれば何とすばらしいことでしょう。自分の気持ちや考えを言語にたよらずに「伝える」「表現する」という能力が伸びると、言葉で伝える力も伸びるのではないかと思います。 先週Kolbe Collegeで演劇を履修している生徒たちの演劇発表会がありました。10年生のgroupの作品は Dear Future Generations という世界規模の自然環境破壊に対する強烈な抗議と意思表明でした。月曜日の朝に見せてもらった生徒の作品の主題にも関連しています。 日本は世界のどの国と比較しても誇れるほどの便利な社会的環境が整っている国だと思います。日本で生活している子どもたちは、しかしながら、日常生活はそう楽ではないと感じます。
多くの中高生は、体力を消耗する通学、自由に使える時間が少ない日常、ゆとりのない学習環境、長時間に及ぶ部活動、詰め込み型の授業、狭い評価方法と基準、厳しい天候などに耐えています。 悪いことばかりではありません。日本の子どもたちの粘り強さ、不撓不屈の精神resilienceはそれらすべての生活·学習環境のもとで鍛え上げられて形成されるのだと確信しています。Australiaのhigh schoolに通う生徒たちには、風雨の中を靴の中まで濡らして登下校するようなことすら稀なことです。このdocumentary filmに出てくる子どもたちもまた、厳しい環境の中でresilienceの総量を自分自身の中に倍増していると思います。 週2回朝7時から始まる長距離走の同好会The 100 Clubに欠かさずに来る7年生のこの生徒は、34kmの距離を当地の決して便利ではない公共交通機関を使って、バス、電車、バスと乗り継いで参加しています。34kmというと東京駅から中央線立川駅、大阪駅から奈良駅の距離にあたります。 長いstrideで顎を引いて走るstyleで、誰に言われたわけでもなく毎回timeを測って自分を鼓舞しています。走り終わった後の行動にも彼独特の流儀があります。showerを浴びbagから身だしなみを整える道具を出して髪の毛を7−3に分けます。さらに靴磨きの道具まで出して、革靴をピカピカに磨きます。頭の先から足元までお手本のような出で立ちになったところで更衣室を出て自分の教室に向かいます。彼は心臓疾患がありますが、それを跳ね返して挑戦を続けています。 質問です。 ① 世界の国々から子どもたちの粘り強い行動力、つらいこともがんばり抜く精神力が弱くなっているという報告を頻繁に目にするようになりました。子どもたちが「弱くなる」共通の原因・問題点は何でしょうか。 ② Resilienceをつける、伸ばすために学校、地域、保護者は子どもたちとどのように接すれば良いのでしょうか。 ③ 私たち大人のresilienceは強くなっているでしょうか弱くなっているでしょうか。 Resilienceで思い出すのは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」です。肉体的にも精神的にも不屈の強さを願う詩は、いつも私たちに正面から向かって来るように感じます。没後に発見された手帳にあったこの詩の右上には11. 3と記されています。11月になると思い出すことの一つです。 2017年の6分の5が過ぎ、11月に入りました。Australiaでは大学受験の月です。今日から日本で言うところの「大学センター試験」が始まりました。
こちらの大学入学試験の仕組みは日本とは、大きく異なります。Western Australia州を例に挙げると、外国語を除く受験可能科目は42科目。外国語は27か国語、そこから家庭生活での言語とhigh schoolでの履修内容で母国語、準母国語、第2外国語に試験が分かれます。どの外国語の分類でも4領域(文科省は「技能」と表現しますが)の配点は4等分され、口答試験も含まれます。各科目の試験時間はほとんどが3時間の完全な記述式です。基本的に午前1科目、午後1科目という試験日程で4週間続く長丁場です。 受験生は4科目から6科目まで受験科目を選択できます。そのうち上位4科目の試験の得点と学校での成績が50%ずつ加算されて総合得点が算出され、その数字から希望大学の希望学部の合否が決まります。 大学進学を希望する生徒は11年生の履修科目を決める際に、大学入試科目を念頭に選択します。体育が好きで得意な生徒はPhysical Education Studiesという科目を履修します。学校での定期試験も大学入試も実技と理論の二本立てす。演劇、Dance、美術、音楽など芸術教科も同様です。創作活動を楽しみながら実技と理論を磨き審美眼を身につけます。能力のとらえ方、学問体系のとらえ方に豊かな人間性を感じます。 質問です。 ① 日本の大学入試改革の提案の中に現行と根本的に異なる革新的な内容を見いだすことができますか。 ② 高校生だった時の学習体験の中で何が今でも心に残っていますか。今の高校生は卒業の時、あるいは10年後高校での学習についてどんなことを思い出すでしょう。 こうして好きな科目を受験科目として選んで「学ぶこと」を楽しみながら後期中等教育を終えることの幸せは、あまりにも当然過ぎて、Australia人には実感がありません。しかも2015年の統計によると56%の大学入学者は大学入試を受けずに書類と面接で入学しています。平均で18%の学生が中退しますが、大学やそこでの学問が自分に合わなかったと認識して別の方向へ進むことはごく当然のことでしょう。高等教育機関の水準はこうして保たれます。毎年の学費が学生個人の納税番号に「借金」として載るので、何となく大学に通うことの経済的なriskを一番良く理解しているのは学生自身です。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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