先日、日本の大学の先生から大学改革について意見を求められました。この大学が海外の機構の審査を受けて、改善するべき点として学生の対話能力の向上が指摘されたということでした。そこで改善案に盛り込まれたことが大学の「国際化」でした。その具体案としてあがった英語による会話や議論の能力を伸ばすための学習機会の拡充についてが質問の趣旨です。
質問です。
私は日本の教育行政や学校が改革するべきことは実質が曖昧な「国際化」やカタカナ語のグローバル化ではなく、教育の内容や方法、評価の「国際標準化」だと考えています。世界に視点を向けて教育課程を構成すること、諸外国の学校教育と同じ「ものさし」で教育の成果を測ること、教育研究や教職員研修を世界的な組織の中で進めること、研究や事例、動向などを世界と同時期に配信したり共有したりすることなどにあると思います。 これらは突飛な思いつきではなく、英語圏や英語を共通語としている国では通常の光景です。国際標準化をはばむものは、日本語だけに依存した日常生活が大きく影響しているように思います。 初代文部大臣の森有礼は日本の近代化の遅れの理由が日本語にあると考え、英語を国語とするべきだという私案を持ちました。司馬遼太郎さんは「幕末から明治にかけて欧米を見てしまったひとの病的な切迫感」(『言語についての感想』)と評しています。私は森大臣の考えに共感を持ちます。英語を国語ではなく共通語としてはどうでしょうか。北欧諸国の子どもたちは母国語とその文化のidentityを持ちながら英語を中心に複数の言語を流暢に使い分けます。そして大人たちや社会はidentityに誇りを持ちながら国際標準の平衡感覚を保っています。 ところで、本来日本固有のものが国際標準化した例はいくつかあります。Kaizen, Dashi, Umamiなどはどうでしょう。これらは日本企業や文化が持っている基準や標準が諸外国の人々にも理解され受け入れられたものだと思います。Umamiといえば世界のどこでも何のことかわかるということです。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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