連休の中日の朝、70名ほどの子どもたちが海岸に集まりました。これから海岸や海岸周辺の道路、公園、bush (雑木林や森)を歩いてゴミ拾いをします。
私の仕事はスクールバスで各グループを作業開始地点まで連れて行き、その後周囲を巡回して子どもたちを見守ることです。それからしばらくの間、朝陽を浴びて嬉々として作業をする子どもたちを運転席から見続けました。 自分が彼らと同年齢の頃、地域のため、世の中のために手を汚し汗をかいたことがあっただろうかとふと思いました。恥ずかしながら、中高生の時にそのように時間を使ったことはありません。学校の掃除当番さえまともにやり遂げたことはありません。 私たちの学校の子どもたちは、放課後に地域のホームレスの人々に食べ物を届けたり、高齢者の住宅の庭仕事をしたり、様々な理由で住む家を失った女性たちが集まる家の修繕をしたりと人々のために働いています。作業をしながら常に明るい表情をしています。 質問です。
最近の日本人が使う日本語では説明が難しく、そのような感性ももしかすると弱くなっているかもしれないと思われる対の言葉、Empathy (the ability to understand and share the feelings of another) と Sympathy (feelings of pity and sorrow for someone else's misfortune) の違いについて考えることがあります。私たちに行動を起こさせるのは “Empathy” の方です。”Once empathy is activated, compassionate action is the most logical response.” (Dr. Helen Riess) SDGsを入口として各地で大人や子どもたちが学習活動や自主的な行動をしている様子を目にします。誰もが変革者としての意識を持って行動することは、人類の未来にとってすばらしいことで喜ばしい社会的行動だと思います。しかしながら同時に、哀れみの感情に支配された Sympathy からEmpathyの域まで感情と思考を練り上げていけるか、論理的に現実的に問題を掘り下げることができるか、解決策を直感する能力があるか、そのような「筋肉」を鍛えることが最重要だと感じています。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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