先日、7年生のクラスで「楽」と「楽しい」について話し合いました。「楽」なことは「楽しいこと」だろうか。「楽なことは必ずしも楽しいことではない」という結論にまとまろうとした時に、ひとりの子が、これは国語のクラスでやった「不便益」と同じことだとつぶやきました。私は不便益、英訳をするなら Benefit of inconvenience という言葉をはじめて知りました。
その翌日、偶然入った教室では7年生の国語の学習をしていました。ちょうど川上浩司著『「不便」の価値を見つめ直す』のまとめをしていました。教科書を貸してもらって、全文を読んでみました。 「必ずしもいつも「便利はよいこと」で「不便は悪いこと」というわけではなく、「便利」の中にもよい面と悪い面があり、「不便」の中にもよい面と悪い面があると考えるのだ。そうすると、「不便のよい面」と「便利の悪い面」という新しい視点が生まれる。」 質問です。 ① 意識をして観察してみると「不便のよい面」は身の回りにたくさんあることに気がつきます。このような視点を持つこと、逆説的な発想をすることの利点は何でしょうか。 ② 7年生のこの生徒はふたつの異なる教科の学習活動から内容の共通点を見出しました。この例は自発的、無意図的ものですが、ある概念や事象を多教科に渡って学習することは可能でしょうか。それを実現するためには何が必要でしょうか。 偶然にも生徒がつぶやいてくれたおかげで、私は新しい言葉とその意味を知ることができました。さらに、にぎやかに学習するこの子はこうやって学んだことを思い出し意味を自分なりに理解しているということについても知ることができました。 教科の特性、独自性、専門性などという意識が邪魔をして、なかなか壁を取り払うことができていませんが、世の中の課題は、そして学習活動はますます総合的、複合的な方向へ進んでいます。 さて、「不便益」に話題を戻すと、日本の社会にはたくさんの「不便」が存在していると感じていますが、そのお陰でたくさんの恩恵をいただいています。その中には、おそらく多くの人は始めから「不便」とは感じていないのではないかという予想も持っています。目の前のものが前時代的なもの、あるいは便利なはずのものがかえって不便を生み出しているということには気がついていないのかもしれません。 不便や便利という感覚、認識は私たちのWell-beingにも関係や影響がありそうです。来週の研究講座ではこれらの点についても考えてみたいと思います。
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卒業式の式辞を準備する時期になりました。昨年の原稿を書く際に集めた資料のメモに目を通しながら、テーマだった成功や失敗について再び考えました。
“How can we change the cultural narrative about rethinking? Can you imagine a world in which saying “I don’t know” is seen as a mark of confident humility instead of ignorance and “I was wrong”is viewed as an act of integrity rather than an admission of incompetence? “ Adam Grant (2021) Think Again 「どうすれば、考えなおすという習慣について文化的な認識を変えることができるのでしょうか。「わからない」と言うことが無知の印ではなく、自信に満ちた謙虚さの証とみなされ、「間違っていた」と言うことが無能を認めるのではなく、誠実な行為とみなされるような世界を想像できるでしょうか。」 質問です。 ① 学校生活や学習の中で、子どもたちは「わからない」「知らない」「間違っていた」という反応やつぶやきを正直に自然に口にすることができる環境があるでしょうか。そのような反応を理解力などの能力ではなく、態度として評価する習慣があるでしょうか。 ② 私たち大人の職場や人間関係の中で、「わからない」「知らない」「間違っていた」という反応を躊躇もなく示すことができる心理的安定性があるでしょうか。 大人でありながら、知らないことだらけの大海の中を小さなヨットで航海をしているような感覚を感じることはないでしょうか。それに対して、周りの人たちがやけに自信に満ちた様子に見えることはないでしょうか。 一方で子どもと接する際に、わからない、できないという言葉を口に出せない苦しみを感じる余裕が、私たちにあるでしょうか。子どもに謙虚に寄り添うやさしさや、言葉にあらわれないつぶやきを感じ取る繊細な感性があるでしょうか。 “There is a difference between not knowing and not knowing yet. I don’t like this yet: leaves room for change I’m not good at this yet: gives space for improvement.” Carol Dweck (2017) Mindset 「知らないことと、まだ知らないことは違います。私はまだこれが好きではない: 変化の余地を残しています。 まだ得意じゃない: 改善の余地を与えています。」 Dweckのこの文章を読むと救われるような感覚を持ちます。”Yet まだ”という言葉の力、可能性を私たち自身も信じる必要があるでしょう。 受験に失敗した自分を救ってくれた先生は、能力でなく態度をいつも評価してくれていました。 40年前の1984年1月24日にApple Macintoshが私たちの目の前にあらわれました。この出来事を分析する記事がありました。
“It turns out that designing for usability, efficiency, accessibility, elegance and delight pays off. Apple’s market capitalisation is now over US$2.8 trillion, and its brand is every bit associated with the term “design” as the best New York or Milan fashion houses are. Apple turned technology into fashion, and it did it through user experience.” Jacob Wobbrock (2024) The Conversation 「使いやすさ、効率性、利便性、エレガンス、そして喜びを追求したデザイン」が当時市場に出回っていたコンピュータとは確実に異なっていた要素でした。「アップルはテクノロジーをファッションに変え、ユーザー・エクスペリエンスを通じてそれを実現しました。」 この記事を読みながら、これらの要素や価値観、哲学を教育や学校に当てはめてみたらどうだろうとふと考えました。 質問です。 ① 「使いやすさ」は学びやすさ、わかりやすさ、活動しやすさに換えてみましょう。「効率性、利便性、エレガンス、喜び」はそのまま使えそうです。これらを学校教育に求めると、どんな学校が、学習活動が生まれてくるでしょう。 ② 学校教育の制度や運営、学校の日常の教育活動の中に “user experience” という考え方や意識が存在するでしょうか。もしあったとすると、どのような違いを生むでしょうか。 学校教育の場面で “user” といえば子どもたち、生徒、学生でしょう。Student-centred とか子どもを主体としたという言葉はよく目にしますが、“user experience” とは根本的に異なる次元、むしろ低いレベルでの議論のような気がします。これは Student agency に一番近い概念かもしれません。それでも “user experience” の方が子どもたちに寄り添っている印象を受けます。 学校や教師の都合で教育というゲームが展開されている現実を、大人たちは認識する必要があります。たとえば、一年のうちで一番寒いこの時期に入学試験を強要するということも、明らかに学校や教師の都合でしょう。学習の科学を無視した、各学期の中間試験も期末試験も、学校や教師の都合でしょう。 奇しくも、1月24日は国連が定めた “International Day for Education” です。人類の平和と発展に貢献する教育を祝う日です。本当に今日の学校教育が人類の平和と発展に寄与しているのか考えてみたいと思います。 2023年にめぐり合った本について振り返ると、「当たり年」でそれらの本から多くのことを学びたくさんの視点を得ました。私のBest5冊を紹介します。
Ron Ritchhart (2020) The Power of Making Thinking Visible “Teaching is not telling, and the delivery of content at a preprogrammed pace does not engender deep learning. Learning happens when students engage with ideas, when they ask questions, explore, and construct meaning with our guidance and support. Therefore, we need to make thinking visible because it provides us with the information we need to plan opportunities that will take students' learning to the next level and enable continued engagement with the ideas being explored. It is only when we understand what our students are thinking, feeling, and attending to that we can use that knowledge to further engage and support them in the process of understanding. Thus, making students' thinking visible becomes an ongoing component of effective, responsive teaching.” Tina Seelig (2015) Inside Out “The following letter to parents came with boxes of Legos back in 1974. This note recently went viral on social media as people remembered the days when this toy wasn’t sold with “one right answer”: To Parents: The urge to create is equally strong in all children. Boys and girls. It’s imagination that counts. Not skill. You build whatever comes into your head, the way you want it. A bed or a truck. A dolls house or a spaceship. A lot of boys like dolls houses. They’re more human than spaceships. A lot of girls prefer spaceships. They’re more exciting than dolls houses. The most important thing is to put the right material in their hands and let them create whatever appeals to them.” Tina Seelig (2019) What I wish I knew when I was 20 “In fact, real life is the ultimate open-book exam. The doors are thrown wide open, allowing everyone to draw on endless resources around them as they tackle open-ended problems related to work, family, friends, and the world at large.” Warren Berger (2018) The Book of Beautiful Questions “Having strong questioning skills has always been important. But in a time of exponential change, it’s a twenty-first-century survival skill. From an individual career standpoint, continued success will depend on having the ability to keep learning while updating and adapting what we already know. We must continually invent or reinvent the work we do every day. None of this is possible without constant questioning.” David Epstein (2019) Range “The challenge we all face is how to maintain the benefits of breadth, diverse experience, interdisciplinary thinking, and delayed concentration in a world that increasingly incentivises, even demands, hyperspecialisation.” 「私たちすべてが直面している課題は、過度の専門分化をさらに奨励し、要求さえする世界において、幅の広さ、多様な経験、異分野間の思考、ひとつのことに集中することを遅らせるという利点をいかに維持するかということです。」 2024年も ”Learn, unlearn and relearn” の学習サイクルを続けていく中で、Epsteinが述べているような幅や多様性を豊かに持ち続けることを意識していきたいと思います。 Adam Grantの新著の中に「文化」を構成する3つの要素があげられていました。Practices 習慣・慣行、Values 価値観、Underlined assumptions 期待感。
私たちの学校の2023年最後の登校日の晩に、生徒会主催のWinter Ballが校内で開かれました。参加者がダンスをして楽しむ通常のBallとは異なり、個々のパフォーマンスが続く発表会です。 例年のイベントで、誰でもステージにあがって楽しむべきだという価値観があり、個性あふれるパフォーマンスがあっておもしろそうだという期待感がみなぎる、まさに先ほどの三要素で構成された「文化」です。 年末の挨拶メールをオーストラリアの前任校の同僚に送ると、その返事にこの年度末 (オーストラリアでは1月に学年が始まり12月に終わる) に17人が異動する知らせがありました。昨年度末にも相当な教員が転勤したので、私が辞めてわずか3年で総教員数の半分以上が入れ替わったことになります。これもオーストラリアの私立学校の文化のひとつです。 質問です。 ① 教員が同じところに留まらずに別の学校へ転勤する意義や利点は何でしょう。一方で問題点や課題があるとすると何でしょうか。 ② 日本の私立学校では教員の異動が少ないのはなぜでしょうか。勤務が必ずしも順調でなくても、あるいは不満があってもその学校に留まる教員が多いのはなぜでしょうか。 自主的な異動の習慣が少ないことだけではなく、日本の学校や社会の根底に「変えない」「変えようとしない」文化があるように感じます。文化と表現するべきかどうか疑問が出るかもしれませんが、それが習慣であり、価値観であり、期待感であるという文化の三要素にあてはまるのです。 自分にとってより良い条件や環境は何であるかを考えること、それらを探し求めること、そして新しい選択肢を選ぶことは、良い仕事をして幸福感を増す条件でしょう。学校にはそのような「変える文化」が必要で、どうやって育めば良いのかが目下の課題です。 “I believe that culture is the hidden tool for transforming our schools and offering our students the best learning possible.” “In reality, curriculum is something that is enacted with students. It plays out within the dynamics of the school and classroom culture. Thus culture is foundational. It will determine how any curriculum comes to life.” Ron Ritchhart (2015) Create Cultures of Thinking 「私は、文化こそが学校を変革し、生徒たちに最高の学びを提供するための隠れたツールだと信じています。」「現実には、カリキュラムは生徒とともに実践されるものです。それは、学校や教室の文化のダイナミクスの中で展開されます。従って、文化は基礎となるものです。どのようなカリキュラムがどのように実現されるかは、文化によって決まるのです。」 週末は週のうちに空っぽになった頭に知のエネルギーを注ぎ込む時間です。久しぶりに Harvard Project Zeroを創設したメンバーのひとり、David Perkinsの文章を読み漁りました。
“We give those tests. We evaluate those tests. But that makes for shallow learning and understanding. … You cram to do well on the test but may not have the understanding. It unravels.”Instead, we should be moving away from an understanding of something — the information on the test, the list of state capitals — to an understanding with something.” David Perkins (2015) What’s Worth Learning in School? 「私たちはテストを行います。そしてそのテストを評価します。しかし、それでは学習も理解も浅いものになってしまいます。テストで良い結果を出そうと詰め込みますが、理解はできていないかもしれません。テストに出題される情報、たとえば州都のリストのような何かを理解することから抜け出して、何かもとにして理解することに向かうべきなのです。」 質問です。 ① an understanding of something ではなく an understanding with something を実現する学習活動や評価を考えてみたことがあるでしょうか。それはどのような実践になったでしょうか。 ② 子どもの理解を判定する方法は紙ベースのテストだけでしょうか。それ以外の方法が汎用化されないのはなぜでしょうか。 ③ 何かを理解していること、何かができることの関連性の中でより大切なことはどちらでしょうか。 子どもを大人の価値観の型にはめ込んでいく世間一般の動向や早期教育に真向から反論している本も読みました。 “learning itself is best done slowly to accumulate lasting knowledge, even when that means performing poorly on tests of immediate progress. That is, the most effective learning looks inefficient; it looks like falling behind.” David Epstein (2019) Range 「学習そのものは、持続的な知識を蓄積するためにゆっくりと行うのが最善です。つまり、最も効果的な学習は非効率的に見えるのです。」 必然性のない進度に従って、言葉を換えれば、目の前の子どもたちの一人ひとりの特性を顧みずに機械的な学習が続いていったとしたら、そして2学期の成績がその似非学習活動の集大成だとしたら、私たち教師はどのような説明責任を果たすことができるでしょう。 何かを学習して定着するまでには一定の時間が必要なこと、その時間は一人ひとり異なるというような学習の科学の基本中の基本を教師が理解するには時間がかかりそうです。 2008年からiPod touchなどのMobile devicesを活用した学習形態の実践研究を始めました。これまで教室の中だけで行われてきた学習活動の概念を打ち破る革新的な可能性に興奮したことを思い出します。その頃によく使われた表現がAnytime, Anything, Anywhereでした。その同じ時期に、文脈は少し異なりますが、いつでもどこでもというICTの特徴に黄信号を出していた人がいたことを最近知りました。
“Continuous partial attention is an always on, anywhere, anytime, any place behavior that creates an artificial sense of crisis. We are always in high alert. We are demanding multiple cognitively complex actions from ourselves. We are reaching to keep a top priority in focus, while, at the same time, scanning the periphery to see if we are missing other opportunities. If we are, our very fickle attention shifts focus. What’s ringing? Who is it? How many emails? What’s on my list? What time is it in Bangalore?” Linda Stone (2009) Beyond Simple Multi-Tasking: Continuous Partial Attention 「連続性部分注意力とは、人工的な緊張感を生み出し、いつでも、どこでも、どんな場所でも、常に注意を払い続ける行動のことです。私たちは常に厳戒態勢にあって、私たちはいくつもの認知的に複雑な行動を自分自身に要求しているのです。」 Stoneは、Muti-taskingは生産性や効率を上げたいという欲求がもとになっている行動だと定義し、連続性部分注意力(CPA )とは区別しています。 質問です。 ① 子どもたちにとってCPAの典型的な行動の一例として、家庭学習の際に常にSNSをチェックしながら課題に向かうということが挙げられるかも知れません。学習や生活の障害になっていることは今日的な事実ですが、正しい学習・生活習慣を身につけるという観点から何らかの指導や働きかけは必要でしょうか。誰が責任を持つべきでしょうか。 ② 大人も車を運転している時、作業や仕事をしている時にCPAが常習的になっている人がいます。このタイプ人たちはいつ、どの場面でその悪習から抜け出ることができるのでしょうか。 5年ぶりにFinlandの学校を訪問して気がついたことは、Smart Phoneを禁止するサインが教室や廊下に必ずあることでした。5年前に地元の校長先生たちと談話をしている時に、SNSが原因で子どもたちの中で起こる問題の処理に多くの時間がかかっていると指摘されていたことを思い出しました。 CPAの問題は、人がdeviceを手にしているかどうかよりも、何を見ているか、何とつながっているのか、何を意識しているのかが他の行動と区別されるところであり、そこに危険性が潜んでいるようです。 10月22日のThe New York TimesにAdamGrantの評論がありました。この中で、Finlandの小学校では同じ担任の先生が複数年受け持つことの利点が米国の制度と比較して述べられていました。
“But in the data, looping actually had the greatest upsides for less effective teachers — and lower-achieving students. Building an extended relationship gave them the opportunity to grow together.” Adam Grant (2023), The New York Times 「調査データによると学級担任の持ち上がりは、実は指導力に欠ける教師や伸び悩んでいる子どもの双方にとって一番好ましい成果があるということがわかりました。長い時間をかけて築く人間関係は共に成長する機会を与えるということです。」 質問です。 ① 日本の学校では子どもたちと教師、保護者と教師の間柄を肯定的で心理的な距離感も近いものにするために、ポリシーや制度として意図的にデザインする慣習があるでしょうか。 ② 先生方が子どもや保護者、同僚と良い人間関係を築く方法を学ぶ場や機会があるでしょうか。それらの大切な要素は大学の教員養成の課程に含まれているでしょうか。 先週の月曜日からHelsinki EducationWeekに参加しました。学校を訪問すること、そこで先生方、子どもたちから直接話を聞くことを楽しみにしていましたが、その期待は裏切られませんでした。世界中からの訪問者に向けて特別なことをするのではなく、先生方も子どもたちも普段通りの姿で迎えてくれました。そして両者は自然な学校生活のパートナーとしての関係が顕著にあらわれていました。 案内をしてくれた子どもたちや先生方からは謙虚な自信が伝わってきました。自分たちの学校や教育制度に誇りが持てるということはすばらしいことだと思います。同時に心理的、経済的な安心感があるからこそ表出してくる態度だろうと予想がつきます。 “Great education systems create cultures of opportunity for all.” Adam Grant (2023) 教員養成課程、採用基準、待遇、生活と仕事のバランスなど、多くの国が抱えている教職の課題が、この国ではそれらが課題になる以前に必要条件として勘案された優れた制度と文化をつくりあげたことで成果が上がり、さらに強みになって良い成果をあげるという連鎖を起こしているのでしょう。 すべての人に平等に機会を提供するという理念は社会の様々な場面で見られます。木曜日の午後に駅の近くにある図書館に行ってみました。この施設もその理念が隅々に具現化されていました。 10年程前に同僚が紹介してくれた作家の本を、学校の図書館の書架から偶然見つけました。
読んでみようと思いながらこれまで手に取って読んだことはなかったこの作家 Paulo Coelho の世界に突入しました。 あの時、同僚が引用したのが “Prague 1981” という短編でした。Coelhoは奥さんと真冬のプラハを訪れ、道で出会った画家とのやりとりがこの話の主題です。 “While I was waiting for him to finish the drawing, I realised that something strange had happened. We had been talking for almost five minutes, and yet neither of us could speak the other’s language. We made ourselves understood by gestures, smiles, facial expressions, and the desire to share something. That simple desire to share something meant that we could enter the world of language without words, where everything is always clear, and there is no danger of being misinterpreted.” 「彼が絵を描き終えるのを待っている間、私は奇妙なことが起きていることに気づいた。私たちは5分近く話していたのに、どちらも相手の言葉を話していなかったのだ。私たちは身振り手振り、笑顔、表情、そして何かを分かち合いたいという願望によってお互いを理解した。 何かを分かち合いたいという単純な欲求は、私たちが言葉のない言語の世界に入り込むことができることを意味した。」 質問です。 ① 私たちは対話の相手を、相手の感情や考えや価値観を、理解しようとして話し合っているでしょうか。少なくとも、お互いの言い分を感情や何かしらの基準を排除して聞こうとしているでしょうか。何かを分かち合いたいという純粋な欲望を持って対話する機会があるでしょうか。 ② 教室や家庭で、子どもたちの口から出る言葉を、私たち大人は子どもたちと何かを分かち合いたいという純粋な願望で拾い上げているでしょうか。 言葉のない言語の世界を大切にしている人もいます。一方で、言葉の持つ力を大切にしている人もいます。子どもでもその力を知っています。 関西の文化や言葉に縁のない私に、子どもたちがバリバリの関西の言葉や表現法で語りかけてくれる時、この上ない幸せを感じます。自分を同郷の仲間とまではいかなくても、同じ文化圏の仲間と認めてくれているような気がするからです。 Earth, Wind & Fireの1978年のヒット曲 “September” には意味のわからない歌詞というかchantsが出てきます。
“Ba duda, ba duda, ba duda, badu, Ba duda, badu, ba duda, badu, Ba duda, badu, ba duda” この曲を作詞したAllee Willisのインタビューを2019年に車中のラジオで聞きました。彼女の答えは、その部分はE.W. & F. のメンバーのMaurice Whiteの「一瞬の思いつき」で、彼女は変更することを主張しますが、彼はこのままで良いと言い切ったそうです。 “If the melody, beat, and spirit are there then everyone will know–emotionally they will know–what you‘re saying…” 「メロディー、ビート、そしてスピリットがそこにあれば、誰もがあなたの言っていることを感じ取ることができる。」 質問です。 ① 今の社会の風潮として、そして仕組みとして人々に細かな説明を常に求めています。そして私たちも常に何かを立証しようと躍起になっていることに気がつくことがあります。何かを言葉ではない方法で伝え合い感じ合うことの良さは何でしょうか。その条件は何でしょうか。 ② 教室や家庭で、何かを直接「言わない」ことで良い結果を生むと言う体験はないでしょうか。 “Lyrics can be clunky sometimes because someone is trying to make too much sense, or fit in a four-syllable word when a two-syllable one feels better…” 「歌詞がぎこちなくなることがあるのは、誰かが意味を強調しようとしすぎたり、2音節の単語の方がしっくりくるのに4音節の単語を入れたりするからだと思う。」とWillsは語っています。 一歩入るとどのような文化や価値観を大切にしているのかが伝わってくるオフィス、病院、商業施設、公共施設があります。VisionやMissionという大袈裟な文言を見なくても、そこの組織や人や場所が大切にしている核心を直線的に感じることができます。 建物のデザイン、色、光、音、掲示物、子どもたちの表情や服装、周辺の植栽から、訪れる人にいつでも、誰にでも「静かに」しかも「確実に」主張するような学校や教室があります。 隣の教室で ”September” が流れているのを聞いて、そんなことを考えました。 |
Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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