10年程前に同僚が紹介してくれた作家の本を、学校の図書館の書架から偶然見つけました。
読んでみようと思いながらこれまで手に取って読んだことはなかったこの作家 Paulo Coelho の世界に突入しました。 あの時、同僚が引用したのが “Prague 1981” という短編でした。Coelhoは奥さんと真冬のプラハを訪れ、道で出会った画家とのやりとりがこの話の主題です。 “While I was waiting for him to finish the drawing, I realised that something strange had happened. We had been talking for almost five minutes, and yet neither of us could speak the other’s language. We made ourselves understood by gestures, smiles, facial expressions, and the desire to share something. That simple desire to share something meant that we could enter the world of language without words, where everything is always clear, and there is no danger of being misinterpreted.” 「彼が絵を描き終えるのを待っている間、私は奇妙なことが起きていることに気づいた。私たちは5分近く話していたのに、どちらも相手の言葉を話していなかったのだ。私たちは身振り手振り、笑顔、表情、そして何かを分かち合いたいという願望によってお互いを理解した。 何かを分かち合いたいという単純な欲求は、私たちが言葉のない言語の世界に入り込むことができることを意味した。」 質問です。 ① 私たちは対話の相手を、相手の感情や考えや価値観を、理解しようとして話し合っているでしょうか。少なくとも、お互いの言い分を感情や何かしらの基準を排除して聞こうとしているでしょうか。何かを分かち合いたいという純粋な欲望を持って対話する機会があるでしょうか。 ② 教室や家庭で、子どもたちの口から出る言葉を、私たち大人は子どもたちと何かを分かち合いたいという純粋な願望で拾い上げているでしょうか。 言葉のない言語の世界を大切にしている人もいます。一方で、言葉の持つ力を大切にしている人もいます。子どもでもその力を知っています。 関西の文化や言葉に縁のない私に、子どもたちがバリバリの関西の言葉や表現法で語りかけてくれる時、この上ない幸せを感じます。自分を同郷の仲間とまではいかなくても、同じ文化圏の仲間と認めてくれているような気がするからです。
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Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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