ある種の流行語、常套句や紋切り型の表現を使うことは英語圏では避けるのが一般的ですが、逆に日本人は意識して使っているようにさえ感じます。
例えば「結果を出す」という表現。耳にするたびに、何を意味しているのだろうかと考えざるを得ません。一国の宰相が使う場合などは、共通認識に基づいた公の目標に対する結果ととらえるのが良心的で常識的な態度だとは思うものの、社会の状況が様々な課題であふれかえっている中で、何を指してそんな自信げな物言いができるのか疑問が湧いてきます。 誰が使うにせよ、結果は自然についてくるもので「出す」という他動詞を大げさに振り回す必要はないと感じます。日本人は様々な場面で自動詞を使う豊かな表現方法を知っている民族ですが、最近の無粋な他動詞の使い方には、そのDNAが過去のものになったという印象を受けます。 話題をもどしましょう。「結果」がすべてであるという認識は、当然のことながら、利益など数字で表すことが可能なものが成功の尺度であるという価値観に基づいています。その法則があてはまる事象がたくさんあると同時にそうでない分野が多くあることも事実です。 質問です。 ① 子どもたちにとって「結果」とは何を意味するのでしょう。 ② 学校や教師が学習や練習の「結果」を重視するのと同様に、その「結果」に対しても責任を持っていると言えるでしょうか。 世の中のすべてがあたかも経済活動であるかのように考えること、そしてそのように行動する風潮に対して慎重でありたいと思います。 ”if we're talking about nonmaterial goods and social practices such as teaching and learning or engaging together in civic life. In those domains, bringing market mechanisms and cash incentives may undermine or crowd out nonmarket values and attitudes worth caring about. “ Michael Sandel (2013) TED Talk : Why we shouldn't trust markets with our civic life 物事の最終的な到着点としての「結果」をみた場合にも、それに拘泥しないように十分注意を払いたいと思います。一般的な慣行となっている学期や学年ごとに総決算的に子どもの能力を判定するのではなく、学習活動の中で拾い上げた様々な証拠、多種多様な学習活動の中で現れた行動や能力などの「過程」を評価する仕組みを築く必要があるでしょう。 先週Kolbe Dayでミサが終わりに近づいた頃、生徒たちが誰に指示されたわけでもなく次々に壇上に上がってこの学校が好きな理由を述べ始めました。約1300人の心があたたかくなりました。 一人ひとりの成長の「過程」を大切にしてきた結果だと思います。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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