生徒会主導の学園祭が終わりました。全体のプログラム、教室の割り当て、シアターでのパーフォマンスのプログラム作成・会場設営、司会進行など通常の運営と作業に加えて、今年は感染症対策、保護者の招待、QRコードによるチェックイン・アウトのシステム導入などが3年ぶりの規模の学園祭の準備にかぶさりました。
そして一週間後の土曜日の夜にはProm(高等部生が参加するダンスパーティ)がありました。この行事も生徒会の主催で開催されました。 Promが閉会すると楽しかった時間を思い出の袋にさっとしまい込んで、リーダーたちが黙々と会場の体育館の後片付けを始めました。90分で現状復帰をして、みんなで学校を出ました。駅までの道を一緒に歩きながらこの若者たちには “agency” があることを強く感じました。 The concept of student agency, as understood in the context of the OECD Learning Compass 2030, is rooted in the principle that students have the ability and the will to positively influence their own lives and the world around them. Student agency is thus defined as the capacity to set a goal, reflect and act responsibly to effect change. (OECD Future of Education and Skills 2030, 2019) OECDラーニングコンパス2030の文脈で理解されているように、student agencyの概念は、学生が自分の生活や周りの世界に積極的に影響を与える能力と意志を持っているという原則に根ざしています。従って、student agencyは、目標を設定し、反映し、変化に影響を与える責任を持って行動する能力として定義されています。 質問です。 ① 行事などでは、子どもたちに提案権や裁量権が与えられ、それに伴う責任を持つことが期待されます。学習活動や評価にそれと同じ程度の agency (参加、役割、責任) を子どもたちに提供することは可能でしょうか。実現すると、どのような可能性が広がるでしょうか。 ② 子どもたち、教職員、保護者、社会 (地域や企業) が共に参画する co-agencyは進める価値のあるものでしょうか。それを阻むものは何でしょうか。 昨日のOpen Dayでは、まさにボランティアの中高生と教職員のco-agencyでした。そして来校された小学生や保護者の感想から総合すると、「学校を売る」ことに一番得点をゲットしたのは中高生でした。 土曜日を犠牲にして参加してくれた子どもたちへのお礼のお菓子は、彼らの働きぶりとはまったく釣り合っていませんでした。
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子どもたちのいない教室を一つひとつ巡っていると、ある教室の後ろの掲示板に詩の作品が並んでいました。国語の時間に創作したものでしょう。ひとつの作品に目が止まりました。
授業中の空間は美しいと フィールドで元気よく遊ぶ姿は美しいと 帰りのチャイムの音は美しいと 友だちと帰る帰り道は美しいと 学校生活の中で目にする物事を「美しい」と素直に感じ取っているこの詩の作者は、2年間学校に通うことができませんでした。ところがこの4月から殻からねけ出たように突然通えるようになり、現在も元気な顔を見せています。久しぶりに見る当たり前の光景を美しいと感じ表現していることに、読んでいる自分がうれしくなりました。 質問です。 ① 子どもの行動や態度、成果や失敗を見た時に、私たちはどのように反応するでしょうか。どのような理由付けをするでしょうか。 ② たとえばこれまでできなかったことができるようになった時、できていたことができなくなった時、こちらの期待通りの行動や反応が見られなかった時に、その理由を探る際の教師の視点はどこから出ているでしょうか。 今週着るシャツにアイロンをかけながら聴いていたPodcastのゲストはAngela Duckworthでした。Duckworth教授は子どもの成功を、たとえば “Grit (根気・根性)” などのような言葉で片付けるべきではないと。CharacterとContext (環境、人間関係など様々な条件)が複合的に有機的に混ざり合ってあらわれた現象であるという指摘でした。 子どもたちの成果も失敗も、子どもたちの生活や人間関係にある複雑な迷路を通って表出しているという意識を持って客観的に眺めると、様々な読み取り方ができることに気が付きます。それは、良いとか悪いという二極では説明できない、断定できないものだという認識です。 それでは「成績」の場合にはどうでしょうか。学校が発行する成績証明書のような文書から「学力」という定義の曖昧な虚像をあたかも実像ととらえて読み取るものは、一体何でしょうか。読み取ったものはどのくらいその子どもを説明するものでしょうか。少なくとも、固定的な変化の少ないものというとらえかたではなく、その子の性格や環境によって変わるものという認識を持つことが大切なのでしょう。 2回にわたって時間について考えてきました。そして今回も時間について考えたいと思います。
時間が豊富にあるという状況は子どもから大人まで、既にありえない現実になっているのかも知れません。学校で何か新しいことを始めようとする時、すぐに聞こえてくる意見は「時間がない」です。私たちは慢性的なTime poorの世の中で生活しているのでしょうか。 “The most obvious explanation for today’s time famine is that we simply spend more hours doing routine chores and working. But there is very little evidence that supports this idea. Some of the best time diary research suggests that in the United States, men’s leisure time has increased by six to nine hours a week over the past 50 years, and women’s leisure time has risen four to eight hours a week. And according to the OECD, in 1950, people in the U.S. worked an average of 37.8 hours a week; in 2017 they worked an average of 34.2 hours a week.” Ashley Whillans (2019) Time for Happiness 「現代の時間不足を説明するのに最もわかりやすいのは、単に日常的な家事や仕事に費やす時間が増えたというものです。しかし、この考えを裏付ける証拠はほとんどありません。最新のタイムダイアリー研究によると、米国では過去50年間に男性の余暇時間は週に6~9時間増加し、女性の余暇時間は週に4~8時間増加しています。またOECDによると、1950年アメリカの人々は週に平均37.8時間働いていましたが、2017年では週平均34.2時間の労働時間です。」 質問です。 ① 私たちは時間をかける物事に優先順位をつける習慣があるでしょうか。 ② これもあれもするというTo do listではなく、これもあれもしないというNot to do listの習慣を推し進めることは現実的でしょうか。 ③ 組織の中に長い間あった習慣や事柄を、効率性や必然性や価値という観点で「やめる」という決定をするのは誰であるべきでしょうか。 私はどの学校でも見られるような各教科が採用している副教材に大きな疑問を持っています。Whyの質問をしてみると、それに対して返ってくる説明はどれも私の疑問に対しての答えではなく弁解になっています。けれどもその弁解の中にしばしばあらわれる「時間」についての認識は、教育活動の根幹に関わる問題だと思います。 BYODの環境だが、生徒一人ひとりに正しいリサーチの方法を指導する時間がない。十分なリサーチに時間をかける余裕はない。これだけ多岐にわたる資料を子どもたちに提示するのは副教材がないと不可能だ。練習問題を作成する時間はとれない。 私の反論です。では、そのような「時間」を確保して深い学びを実現しなければ、一体子どもたちはどこでその能力と技術を身につけるのでしょうか。 12年間共に仕事をした校長は、保護者や教員からの不平不満や苦情にはすぐに応答をせずに相手を焦らす作戦に出る時がありました。そんな時に使った表現が “Let him stew on that.” 「ほっておこう」という意味ですが、直訳はその問題を煮込ませておけということで、おいしいシチューができるように本人が問題の解決を見出すかもしれないし、人によっては怒りが煮え立つかもしれません。
私たちが仕事を通して関わり合う相手とのやり取りは、速く処理をすることを期待されている場合が多いのは事実でしょう。そして、速ければ速いほど相手からの評価が高くなるだろうという予想も持っています。けれども即答や意味のない謝罪を避けて、時間をかけて話し合うことや結論を導き出すことの大切さに気づくことがあります。久しぶりに ’stew’ に触れました。 “Just as a good stew takes time to simmer, a thoughtful conclusion or question may need space. Resist unnecessary urgency. Map a process that will allow you to solve a problem over several days or longer. Dig into it initially then reflect on what you learned and what you should have asked. The questions you formulate in quiet reflection may be more powerful than those posed in the moment.” John Coleman (2022) Critical Thinking Is About Asking Better Questions 「おいしいシチューが煮えるまで時間がかかるように、考え抜かれた結論や質問には時間が必要かもしれません。不必要に急ぐ必要はありません。数日またはそれ以上かけて問題を解決するためのプロセスを描く。そして、何を学び、何を問うべきだったかを振り返ります。静かな内省の中で立てた質問は、その場で立てた質問よりも強力なものになるかもしれません。」 質問です。 ① 時間をかけて丁寧に仕事をすることと、効率よく作業をして量をこなすことの両立は可能でしょうか。 ② 私たちは新しい物事を学習すると、それを自信をもって実行したり実際に使ってみたりするには一定の時間が必要なことを経験的に知っています。その当たり前の事実を、子どもたちの学習活動と評価にも応用しているでしょうか。とりわけ一連の学習活動と総括的評価の間に十分な時間を確保しているでしょうか。子どもによって定着に必要な時間が異なることを認識しているでしょうか。 映画館、劇場、コンサート会場で終わる直前や、終わるとすぐに席を立つ人がいます。家でStreamingで観る時はどんな行動をするのでしょうか。余韻というおまけがついているのにもったいないと感じます。 前述の校長さんからワインについていろいろなことを教わりました。そのひとつは、良質のワインを飲んだ後にはグラスに良い香りが残ることです。本当に良いものには、いつまでも心の中に余韻を残す力があります。それを感じるにはゆったりと過ぎる時間を持つことが必要でしょう。 学校の北の方角に見える山並みは、この時季になると毎日色を変えます。先々週は山桜のやわらかい色のかたまりが点在していました。先週からは木々の新緑の色の変化と斜面がふくれてくるような量の変化を眺めて楽しんでいます。
萌える春の光景は、今を大切にすること、今を楽しむこと、そして今しかできないことをすることを気づかせてくれます。 質問です。 ① 新学期に心がけていることは何でしょうか。新学期に毎年必ずすることは何でしょうか。新学期にしかできないことは何でしょうか。 ② 今を大切にすること、日常を丁寧に過ごすことを心がけると私たちの生活や仕事はどのように変わるでしょうか。今の時間を大切にすることに主眼に置くと、子どもたちの学習活動の内容や方法はどのように変わるでしょうか。 教室にいる一人ひとりの子どもたちとつながることの大切さは、たとえば新しい学校に転任すると強く感じます。昨年の今頃は、会話をしていてもこちらからの言葉が相手の心に届かずに上滑りしている感覚が常にありました。この学校に通っている子どもたちとつながっていないとすると、私はここにいる意味はありません。そして子どもたちのことを知る努力、つながる努力をしなければ、10代の子どもたちとの人間関係は築けません。 “if you have a humble eagerness to learn something from everybody, your learning opportunities will be unlimited. Generally, you can be humble only if you feel really good about yourself—and you want to help those around you feel really good about themselves, too.“ Clayton Christensen (2010) How Will You Measure Your Life? 「誰からも何かを学びたいという謙虚な気持ちを持てば、学ぶ機会は無限に広がります。謙虚になるには、自分自身のことを本当に良いと感じていること、そして周りの人が自分たちのことを本当に良く感じるようになってほしいと思うことが必要です。」 紛争が続くウクライナで今を大切にする努力を続けている先生方がいます。そのうちのひとりの先生がTEDの中で語られていた言葉が胸に響きました。 "As long as our children keep learning and our teachers keep teaching -- even while they are starving in shelters under bombardment, even in refugee camps -- we are undefeated," 今を大切にすることが、明日を大切にすることにつながり、希望につながるという連鎖があることに気がつきます。 学校が社会や当事者に対して責任を持つこと、説明をすることは当然のことですが、日本全国の学校が毎年実施しHomepageに公開している「学校評価」は果たして公平な評価として機能しているのか疑問に思います。自分たちがしたことを自分たちで採点する自己評価は、まさに内輪でする振り返りや反省会であり、学校評価という名称にふさわしい価値のある資料なのかどうか。
そしてこの作業を一層曖昧にしていることは、良い学校の定義や基準に普遍性がないこと、人によって学校観や教育観が異なる中で学校の質を公正に測る方法が共有されていないこと。さらにアンケート調査にあらわれる当事者の主観的、感覚的な満足度がそのまま評価に反映される現在の仕組みは、偏見や先入観をふるいにかけることをせずに調査結果として公表することになり、これが最善の方法なのかどうか。 学校評価に初めて携わって一番強く感じたことは、それらの制度や方法の欠陥から発生する問題点もさることながら、この毎年恒例の作業は年度の始めに1年後の実現可能な目標を立て、成功の基準を明確にして、具体的な方策を持たなければ、年度の終わりに相当な時間をかけて作業しても意味はないということです。 質問です。 ① 教えた教師がその生徒たちを評価する慣習から学校が抜け出ることができないのはなぜでしょうか。担当教師ではない別の人が生徒たちの学習の足跡や成果を評価するとどのような変化が生まれるでしょうか。 ② 良い学校の要素は何でしょうか。世の中が持つ良い学校の基準には普遍性があるでしょうか。良い学校の定義や認識が人によって異なるとすると、良い学校になるために努力をする際の目的や目標は何に準拠すると良いのでしょうか。 学校評価が少しでも客観性のある数字から判定されているという印象を与えるために、アンケート調査が使われます。けれども、良い結果が出やすいように質問や選択肢を操作することや、自由記述の設問を減らすなど傾向と対策を尽くして自分達に有利な結果が出るようにする例もあるでしょう。目標と成功基準について定量的な方法だけでなく、定性的な方法からも学校の実態を正確につかむことが必要なのだと思います。 私たち教師が子どもたちとかかわり学習活動をする中でも、学期や年度の始めに具体的な到達目標をたてて、その成功の例や基準を明確に描くことが重要であることを、学校評価の作業から再認識しました。 Daniel Pinkは「1年のうちに86回新しい物事を始めるきっかけがある」When (2018)と指摘しています。ちょうど今は新学年、新学期の始まりなので、何か新しいことを始めるのに絶好の機会かもしれません。 Andersenの童話『裸の王様』に登場する家来は、王様の衣装が見えないのは自分だけかもしれないという思い込みを持ちます。社会心理学では、実際には多くの人も同じように感じているけれども、自分が感じていることや考えは他の人とは異なっているだろうという錯覚を持つことを多元的無知 Pluralistic ignoranceと呼ぶそうです。
もうすぐ終わるこの年度の12ヶ月を振り返ると、良かったことも悪かったこともたくさん思い出されます。とりわけ最悪の感があることを引き出してみましょう。それは、目的の不明な会議に多く出席しなければならなかったこと、そのためにたくさんの時間を無駄にしたことです。膨大な量の会議資料の紙とそれを準備した担当の方の労力も考えると、無駄の連鎖は日本の教育現場の悲しい現実であることを認識しました。そしてこのような無駄に憤りを感じているのは自分だけなのだろうかという疑問です。 “This bias leads us to continue to schedule and attend meetings even when everyone secretly agrees that they’re useless, because we assume we’re the only one who thinks so.” The Psychology Behind Meeting Overload (2021) Harvard Business Review 「このバイアスは、誰もが無駄だと内心思っている会議でも、自分だけがそう思っていると思い込んで、予定を組んで出席し続けることにつながります。」 質問です。 ① 誰もが無益、あるいは無駄だと感じていることでもそれが継続されている理由は何でしょうか。80年代に日本の学校や教育行政機関で一般的だった会議の形態が、本質的な改革や改善がなされずに今なお続いている理由は何でしょうか。 ② 現状に疑問を感じる人々が素直な感想や意見を伝える機会がないのはなぜでしょうか。あるいは機会があっても、改善を求めるような意見が現状を変えるきっかけにならないのはなぜでしょうか。 ある物事に対して疑問を感じた時、Pluralistic ignoranceを疑ってみることは意味があることかもしれません。自分だけでなく他の人もそのことについて同様の疑問を持っているかもしれません。その疑問を周囲の人と共有すると、何かが始まるかもしれません。 先週の金曜日にあった会議の内容と進行について不可解な印象を持っていました。今日の午後、別の会議でしたが同じメンバーに会いました。会議後に私が金曜日に感じたことを伝えると共鳴の輪が広がりしばらく率直な意見交換ができました。 これまでまったく繋がりを持たない人たちだと感じていましたが、今日の午後をきっかけにお互いの感覚に共通点を見つけることができました。 中央教育審議会の「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方という資料には「教師に求められている資質能力の再定義」があがっています。教職員の姿として「教職生涯を通じて学び続けている」「一人ひとりの学びを最大限に引き出す教師」「主体的な学びを支援する伴走者」とありますが、これらは昭和の時代も教師に求められていた資質であり、今後も求められる普遍的な態度でしょう。ところが具体例には「教師の資質・能力の向上」と主眼が「能力」に移っています。
教師に本当に求められているものは能力でしょうかそれとも態度でしょうか。組織の一員を採用する場合に応募者の中から探るべきものはどちらでしょうか。 “The company evaluates talent based on the proposition that who you are as a person counts for as much as what you know at any point in time.” “And the best way to build something special in the workplace is to hire for attitude and train for skill.” Bill Taylor (2011) Harvard Business Review 「(例としてあげている)会社は、ある時点で何を知っているかということと同じくらい、どんな人物であるかが重要であるという主張に基づいて人材を評価しています。」「そして、職場で何か特別なものをつくるには、態度で採用しスキルを教育するのが一番です。」 質問です。 ① 私たちが仕事をする際にattitude - 物事への態度や姿勢が大切なのか、それともskill - なすべきことをやり遂げる技術や能力がまず必要なのでしょうか。日本の教育現場で教員を採用する際の選考基準としてどちらが重視されているでしょうか。 ② 現在の職業に就いた時を振り返ると、その職や役職に必要とされるattitudeとskillのどちらを自分の強みとして持っていたでしょうか。 担当教科の専門的・学問的な知識と能力が高い教師たちの中に、教職をとおして教師の仕事の本質について学び続けていないために、子どもたちの学びを引き出すことができず、子どもたちの歩幅で共に学んでいく習慣がなく、子どもたちの苦しみや悲しみを感じる感性がない例を見ます。 一方で、人としての態度を構成する感受性やりん理観、責任感、価値観、行動力の優れた例を子どもたちの中から発見することがあります。 春休みの第一日目に自由参加で呼びかけたLeadership workshopにやってきた10年生や、先週の11年生の学年旅行のリーダーたちは、必要なMindsetや態度を持ち合わせていました。中核となるものがあれば、能力は二次的なものであることを認識しました。 OECD Scenarios for the Future of Schoolingは「未来像の仮説であり予想や推奨を含んでいない」と前置きがあります。
“Scenarios are fictional sets of alternative futures. They do not contain predictions or recommendations.” けれどもここにあがっている4つの未来の学校像を観ると、かなりの確率でその方向に動くだろうという可能性を感じます。たとえば、1の学校像は学校教育の構造と過程は変わらないという点でおそらく日本(の教育行政)が継続させる方向性でしょう。一方で、国際的な協働や個別的な学びがひろがるという点では、学校教育の目的の幅が狭い傾向の日本では、体系的な実践を実現するのは容易なことではないと予想がたちます。2の学校像は、日本では教育産業が新たな市場開発と公教育に対抗して優位な立場を獲得するために展開するbusiness modelのように感じます。 質問です。 ① OECDが描く未来像は今後20年間の幅を想定しています。20年前の日本の学校と現在の学校の仕組み、目的、機能、教育内容・方法を比較するとどのような進歩や発展があったでしょうか。 ② 現在の学校で子どもたちがかかわる学習活動の中に、本当に学ぶ価値のある内容として共感できる知識、能力、資質は何でしょうか。 ③ 未来の学校では、学ぶ価値のある内容として取り上げられるものは現在の学校で扱っている内容とは異なるでしょうか。 3の未来の学校像のprototypeは世界の各地の学校にあらわれています。今でも強烈な印象と共に思い出すのはDenmarkの小さな港町にある中等教育学校です。入口から入るとすぐに地域の人々も集うカフェテリアがあります。在校生は10代の若者から70代の年配の方まで多種多様な「学生」で構成されています。 Australiaの大学は生涯学習の場としての機能を持っているので、社会人が多く学んでいます。そのためにキャンパスの様子も日本の大学で見るような同一年代の学生が集まる光景とはまったく異なっています。 4の学校像はOnlineで学ぶ機会を提供している大学やLearning platformですでに展開されています。The Open University、Cousera、edX、Udemy、Udacityなどでは世界中から受講生を集め、入門コースから大学院レベルまで受講できます。それらは日本の大学の通信教育課程にはない柔軟性と多様性を備えています。 未来の学校の姿を想像すると一種の期待と興奮が込みあがってきますが、日本の社会にはまだ「教育先進国」の水準に達していない未成熟さを感じることも事実です。 私たちは、この現在から同一線上に未来があると認識している場合が多いような気がします。新学年の準備や話し合いをしていく中で、今年度の内容や方法を継続するという判断に至る場合も現在(今年度)と未来(来年度)はつながっているという意識が根底にあるように思います。
継続は力という表現があらわすように続けることで安定が生まれ確実な成果につながりますが、一方で、潜在的な課題に気づかずに、解決せずに、あるいはさらに良いものを追求するという意識を持たずに現状を安易に維持する可能性も高いことに気づく必要があります。 昨年のWorld Economic ForumのAgendaにAndreas Schleicherがあげていた問いかけの一部から選んだ質問です。 ① How do we reconcile new goals with old structures? 新しい目標と古い構造をどう調和させるか。 ② How do we support globally minded and locally rooted students and teachers? 世界的な視野を持ち、地域に根ざした生徒や先生をどのように支援するか。 ③ How do we foster innovation while recognising the socially highly conservative nature of education? 教育のあり方が社会的にかなり保守的であることを認識しつつ、どのようにして革新を生み出すか。 ④ How do we leverage new potential with existing capacity? 既存の能力で新しい可能性をどう導き出すか。 ⑤ In the case of disagreement, whose voice counts? 意見が対立した場合、誰の声が重要か。 どれもがこの一年間に直面し解決策を模索し続けた課題ですが、教育に何らかの革新を生み出そうとすると、その営みは構造上や社会的な矛盾の上で展開しなければならないことに気がつきます。 学校現場ではとりわけ③の質問にあるように、人々の思考や行動形態が保守的であると同時に振り返りの習慣が弱いので新しいことを始めることがむずかしい現実があります。たとえば、目的や意味、価値が不明確であったり、明らかに時代の枠組みから外れた学習活動を繰り返しやらせている例を目にします。 ある日の放課後図書館である課題に取り組んでいるグループが2、3ありました。一見すると皆が集中して努力している理想的な学習風景ですが、そのうちの一人に声をかけると、一言「作業です。」 来週はOECDが仮説としてあげている未来の学校のシナリオと、学校では何が本当に学ぶ価値のあるものなのかについて考えてみたいと思います。 |
Author萩原 伸郎 Archives
4月 2024
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