学校が社会や当事者に対して責任を持つこと、説明をすることは当然のことですが、日本全国の学校が毎年実施しHomepageに公開している「学校評価」は果たして公平な評価として機能しているのか疑問に思います。自分たちがしたことを自分たちで採点する自己評価は、まさに内輪でする振り返りや反省会であり、学校評価という名称にふさわしい価値のある資料なのかどうか。
そしてこの作業を一層曖昧にしていることは、良い学校の定義や基準に普遍性がないこと、人によって学校観や教育観が異なる中で学校の質を公正に測る方法が共有されていないこと。さらにアンケート調査にあらわれる当事者の主観的、感覚的な満足度がそのまま評価に反映される現在の仕組みは、偏見や先入観をふるいにかけることをせずに調査結果として公表することになり、これが最善の方法なのかどうか。 学校評価に初めて携わって一番強く感じたことは、それらの制度や方法の欠陥から発生する問題点もさることながら、この毎年恒例の作業は年度の始めに1年後の実現可能な目標を立て、成功の基準を明確にして、具体的な方策を持たなければ、年度の終わりに相当な時間をかけて作業しても意味はないということです。 質問です。 ① 教えた教師がその生徒たちを評価する慣習から学校が抜け出ることができないのはなぜでしょうか。担当教師ではない別の人が生徒たちの学習の足跡や成果を評価するとどのような変化が生まれるでしょうか。 ② 良い学校の要素は何でしょうか。世の中が持つ良い学校の基準には普遍性があるでしょうか。良い学校の定義や認識が人によって異なるとすると、良い学校になるために努力をする際の目的や目標は何に準拠すると良いのでしょうか。 学校評価が少しでも客観性のある数字から判定されているという印象を与えるために、アンケート調査が使われます。けれども、良い結果が出やすいように質問や選択肢を操作することや、自由記述の設問を減らすなど傾向と対策を尽くして自分達に有利な結果が出るようにする例もあるでしょう。目標と成功基準について定量的な方法だけでなく、定性的な方法からも学校の実態を正確につかむことが必要なのだと思います。 私たち教師が子どもたちとかかわり学習活動をする中でも、学期や年度の始めに具体的な到達目標をたてて、その成功の例や基準を明確に描くことが重要であることを、学校評価の作業から再認識しました。 Daniel Pinkは「1年のうちに86回新しい物事を始めるきっかけがある」When (2018)と指摘しています。ちょうど今は新学年、新学期の始まりなので、何か新しいことを始めるのに絶好の機会かもしれません。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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