子どもたちのいない教室を一つひとつ巡っていると、ある教室の後ろの掲示板に詩の作品が並んでいました。国語の時間に創作したものでしょう。ひとつの作品に目が止まりました。
授業中の空間は美しいと フィールドで元気よく遊ぶ姿は美しいと 帰りのチャイムの音は美しいと 友だちと帰る帰り道は美しいと 学校生活の中で目にする物事を「美しい」と素直に感じ取っているこの詩の作者は、2年間学校に通うことができませんでした。ところがこの4月から殻からねけ出たように突然通えるようになり、現在も元気な顔を見せています。久しぶりに見る当たり前の光景を美しいと感じ表現していることに、読んでいる自分がうれしくなりました。 質問です。 ① 子どもの行動や態度、成果や失敗を見た時に、私たちはどのように反応するでしょうか。どのような理由付けをするでしょうか。 ② たとえばこれまでできなかったことができるようになった時、できていたことができなくなった時、こちらの期待通りの行動や反応が見られなかった時に、その理由を探る際の教師の視点はどこから出ているでしょうか。 今週着るシャツにアイロンをかけながら聴いていたPodcastのゲストはAngela Duckworthでした。Duckworth教授は子どもの成功を、たとえば “Grit (根気・根性)” などのような言葉で片付けるべきではないと。CharacterとContext (環境、人間関係など様々な条件)が複合的に有機的に混ざり合ってあらわれた現象であるという指摘でした。 子どもたちの成果も失敗も、子どもたちの生活や人間関係にある複雑な迷路を通って表出しているという意識を持って客観的に眺めると、様々な読み取り方ができることに気が付きます。それは、良いとか悪いという二極では説明できない、断定できないものだという認識です。 それでは「成績」の場合にはどうでしょうか。学校が発行する成績証明書のような文書から「学力」という定義の曖昧な虚像をあたかも実像ととらえて読み取るものは、一体何でしょうか。読み取ったものはどのくらいその子どもを説明するものでしょうか。少なくとも、固定的な変化の少ないものというとらえかたではなく、その子の性格や環境によって変わるものという認識を持つことが大切なのでしょう。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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