先週の研究講座で先生方と「深い学び」について考察し話し合いました。
その中で特に強調したかったことは学習の科学を無視して深い学びは成立しないということ、そして学ぶ理由や目的を明確に持つ必要性でした。これは、多くの中学校や高校が何かを準備する場という機能のみに集中している現状批判でもあります。たとえば、子どもたちになぜ勉強しているのかとたずねれば、学期中にある試験のために、次の学校に進むための入学試験のためにしていると答えるでしょう。この残念な現実からです。もっとも、試験の準備は必ずしも浅い学習ばかりではありません。Open-endedの質問に論述で回答する場合の準備はとても深いものになるはずです。明らかなことですが、現実の日本の多くの学期末試験や入学試験はそういう内容ではありません。 さらに、学習の主体者である子どもたちをできる、できない、良い、悪い、などのような評価を単一的な浅い狭い基準で教師が決めてしまうという構図に対しての憤りでもあります。 質問です。 ① 子どもたちは毎日学校で深く学んでいるのでしょうか。その証拠をどこで、どうやって見つけることができるのでしょうか。 ② 私たち教師も学んでいるでしょうか。やらされていることではなく、純粋に自分の意志で学んでいることがあるでしょうか。それを続けることができるのはなぜでしょうか。それは浅い学びでしょうか、それとも深い学びでしょうか。 深い学びの実践研究者の組織が2019年に出した冊子に、深い学びを成立させる12の道筋が示されています。その7番目は「教科書をあたかも聖なる原典のように扱うな」年度末に教科書の最後のページに辿り着いたとしても何も賞は出ない。とありました。9番目には「評価は子どもたちの手にあるべきもの」なぜなら成功や失敗を決めるのは子どもたちではなく、常に教師が握っているからだ。深い学びが成り立たないのは教師や学校に非があることが明確になってきます。 この冊子の最後に出てくる文章を新年度の花向けとして贈ります。 You have never been more important to the lives of students than you are this very minute. You are not “just” a teacher. You shape the future. The vocation of education sets the table for every other vocation. The world needs the best you’ve got to give. New Pedagogies for Deep Learning (2019) Engage Secondary Students Because the Future Depends on it 「生徒の人生にとって、今この瞬間ほど重要なことはありません。あなたは「 ただの 」教師ではありません。あなたは未来を切り開いているのです。教育という職業は、他のあらゆる職業のテーブルを整えるものです。世界は、あなたが提供する最高のものを必要としているのです。」 この視点を失わずに、共にがんばっていきましょう。
0 コメント
8年生(中2)の今年度最後のクラスでみんなにたずねてみたいこと、というテーマでそれぞれがユニークな質問を作り2クラス合同の教室を動き始めました。
そんな様子を眺めている私のところにもやってきて「成長したことは何ですか」とか「何か変わったことがありますか」「できるようになったことは何ですか」などの質問を純粋な好奇心あふれる笑顔でたずねてきました。 まさに成長点の真っ只中にいるこの子どもたちにはたくさんの答えがあるでしょう。冬木のようにすでに枯れてしまっている自分は、まともに応答する事実が見つかりません。恥を忍んで「頭の髪の毛が薄くなったこと」とか「お弁当にいつも作るおにぎりは炊き立てがいちばんおいしいということに気づき、毎朝ごはんを炊いていること」などと応えました。 子どもたちはケラケラと笑い、髪ってどういう漢字だったけなどとお互いに確かめ合っていました。 今日の夕方、1週間分の具沢山の汁物を作りながら元同僚を思い出していました。彼女はHouseのHeadで理科の先生でした。いつも仕事を上手にこなし子どもたちからも先生方からも信頼の厚い人でした。この先生は5時を過ぎると4WDのTOYOTA Hiluxで「これからの時間は家族のためにおいしい晩ごはんを作ることに集中する」と言ってさっさと帰って行ってしまいます。そうして、毎晩おいしい夕食を家族4人で食べながらいろいろな話をして良い時間を過ごしていたのでしょう。 質問です。 ① この年度で成長したことは何ですか。変わったこと・換えたことは何ですか。できるようになったことは何ですか。 ② 仕事と生活にはっきりと線を引いて、豊かな時間を過ごす習慣が日常的にありましたか。それができた理由、できなかった理由は何でしょうか。 成長は成長期にある子どもたちだけの特権ではないはずだと思いました。たずねられて応えられなかったのは、その努力をしてこなかった自分の責任、怠惰なのではないかと感じました。 As Vladimir Horowitz, the virtuoso pianist who kept performing into his eighties, put it, “If I skip practice for one day, i notice. If I skip practice for two days, my wife notices. If I skip practice for three days, the world notices.” Daniel Coyle (2010) The Talent Code 80歳を過ぎても演奏活動を続けた名ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツは、「1日練習をサボると、私が気づく。2日間練習をサボれば、妻に気づかれる。3日間練習をサボれば、世界が気づく。」と話しています。 Once the mind has accepted a plausible explanation for something, it becomes a framework for all the information that is perceived after it. We’re drawn, subconsciously, to fit and contort all the subsequent knowledge we receive into our framework, whether it fits or not. Psychologists call this “cognitive rigidity”. The facts that built an original premise are gone, but the conclusion remains—the general feeling of our opinion floats over the collapsed foundation that established it. Ryan Holiday (2013)
「一旦、何かについてもっともらしい説明を受け入れると、それがその後に知覚されるすべての情報の枠組みになってしまいます。(中略)心理学者はこれを「認知的硬直性」と呼んでいます。最初の前提を築いた事実はとうになくなっても、結論は残ります。私たちの意見の総体は、以前それをつくり上げた壊れた土台の上に浮いているのです。」 質問です。 ① 自分自身の行動、考えや提案に対して、他人から受ける反応や意見が常に先入観や誤った認識から来ていると感じることはありませんか。相手側に、こちらが伝えようとしていることを理解するスイッチが完全に切れていると感じることはないでしょうか。 ② 子どもたちの物事の感じ方や考え方に、硬直性を感じることはありませんか。どうすれば、頑なに思い込んでいることをほぐすことができるのでしょうか。 ある種の体験や思い込みから先入観を持つのでしょうか、状況や文脈が変わっていても、適切な説明を受けても、常に同じ反応を示す人がいます。たとえば、政治家の論争もそれに似ていて、イデオロギーという色眼鏡をかけて対立する立場の政治家を見るので、究極的にはお互いに同じ目的を念頭に置いて議論しているにもかかわらず不毛の論争を展開します。 組織の中で常に同じような批判や反応を繰り返す人の、認知の硬直性を崩す手立てはあるのでしょうか。 Steve JobsはSmart phoneを開発、生産することには当初から強く反対していました。けれどもその考えの硬直性を壊した時にAppleの画期的な成功への道筋ができました。彼には再び考えるという思考回路があったのでしょう。 Confirmation bias (確証バイアス) は、自分に都合が良い情報だけを集めて、相反する考えや情報を否定します。すでに自分の中にある考えに固執するという点で認知の硬直性と同じ行動形態と言えるでしょう。このバイアスから抜け出ることができない例もよく目にします。 アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ と手帳に書いた宮沢賢治のことを思い出しました。 歴史のテスト勉強がやばいんですと話してきた8年生に、何がやばいの?と聞き返すと、覚えなければならないことがたくさんあるからという答えが返ってきました。テスト範囲内の時代に起きた出来事について、その原因や結果を説明できるのかたずねると、それはできると自信気に答えました。
暗記することを勉強と勘違いしているわけですが、子どもたちは受け身の作業を学習と同義にとらえていることが多いように感じます。与えられている課題自体も作業である場合が多いと感じます。放課後の図書館で集中している子どもたちをのぞき込むと、反復作業に没頭しているという例が少なくありません。 質問です。 ① 教師が子どもたちに受け身(passive)の学習や作業を強いるのはなぜでしょうか。そして多くの子どもたちはそのような作業をすることに集中し、満足感を得るのはなぜでしょうか。 ② 受け身(passive)の学習や作業の対極にある学習形態は何でしょうか。その学習形態は学校の教育活動の中では依然として二次的なものなのでしょうか。 ある学校のWebinarで発表者の先生が active learningは学習動機の弱い生徒に向いている、active learningを一部導入したために受験指導が遅れた、active learningをするとノートを取らせにくいという感想を述べられていました。この先生に限らず、この学校の先生方の一般的な理解として、active learningの定義と実践可能な範囲を非常に狭くとらえていることがわかります。 学ぶことの意味、子どもたちが究極的に学ぶべき内容、習得するべき能力、そして学習の科学的な分析について、教師の専門性を高めなければ受け身の学習はなくならないでしょう。 さらに、学習者も認識を変える必要があるようです。大学生の学習効果に関する研究で、active learningの方が講義よりも学習の効果が上がっているという結果があるにも関わらず、学生は座って聞いているだけの典型的な講義の方がよく学べているという正反対の認識があることが明らかになりました。 the study shows that it’s important to ensure that neither instructors nor students are fooled into thinking that lectures are the best learning option. “Students might give fabulous evaluations to an amazing lecturer based on this feeling of learning, even though their actual learning isn’t optimal,” he said. “This could help to explain why study after study shows that student evaluations seem to be completely uncorrelated with actual learning.” The Harvard Gazette (2019) 「この研究は、講師も学生も、講義が最高の学習オプションであると騙されないようにすることが重要であることを示しています。」 学生にとっては、座って聞いているだけが一番楽だということでしょうか。 初めて新しいものに触れた時の驚きや感動はいつまでも心に残っています。初めて家に来たステレオのスピーカーから流れてきたSimon & Garfunkelの曲の立体感のある歌声とギターの音。それ以前には電話が家にひかれた時、テレビが届いた時など我が家の一大イベントでした。
自分でモノが買えるようになって手に入れたSONYスカイセンサー、Walkman、Toshiba Rupoにも大きな感動があり、使い込みました。最近ではiPod touch, iPad, iPhone, Apple Watchなどで小躍りしました。 Information helps you to see that you’re not alone. That there’s somebody in Mississippi and somebody in Tokyo who all have wept, who’ve all longed and lost, who’ve all been happy. So the library helps you to see, not only that you are not alone, but that you’re not really any different from everyone else. There may be details that are different, but a human being is a human being. Maya Angelou (2010) 「情報は、あなたが一人ではないことを教えてくれます。ミシシッピにも東京にも、泣いたことのある人、憧れや喪失感を抱いたことのある人、そして幸せな気持ちになったことのある人がいるのです。」 この文章を読んだ時、前述の自分自身が様々な「情報」に初めて触れた時のことがよみがえり、その感動と重なりました。 作者はこの文章をNew York Libraryに寄稿しているので、ここに出てくる”information”は図書文献を指しているのだと思いますが、確かに図書館にある「情報」、たとえば物語や詩を通して他の人の感情に共感して、自分は一人ぼっちではないことに気づかせてくれます。 今、ICTが生活も仕事もそのものと言えるほど当然の道具になってしばらく経ちますが、得られる情報から、ひとりではないという他の人々との連帯感や人の温かみを感じることがどれほどあるでしょうか。 質問です。 ① 今月は、Society 5.0やEducation 4.0などのようなテーマを掲げた記事が目につきました。たとえば、Society 2.0の予想が初めて世の中に出てきた時の衝撃度や話題性に比べると、5.0にはすでにそれほどの発信力や影響力がないのはなぜでしょうか。 ② World Economic Forumが提案するEducation 4.0に新鮮度や共感度が鈍く感じられるのはなぜでしょうか。 数字が持つ連続性のために、人々に誤った感覚や印象を与えてしまうことがあると感じます。とりわけ前述の例は、私たちの学校は現在のところEducation 2.5だとは表現できないほど定義や境界線が曖昧です。しかも、Education 4.0が定義する基準で状況を観てみると、実際には日本では3.0どころか2.0も達成したかどうかあやしいところです。 クリスマス直後のごみ収集日に海まで歩いていると、収集車が持ち上げるごみ箱の上に運転手へのクリスマスプレゼントが載っていました。この家の人(実は教え子の家ですが)は毎年こうして感謝の気持ちを伝えています。1980年代にAustraliaに渡った頃は、ゴミ収集車の後ろに2人の大人がしがみついていて、一軒ごとに降りてはブリキのごみ箱を持ち上げて中の物を空にして庭先に置くという作業を繰り返していました。この光景はすぐになくなり、車体の左側にアームをつけたトラックが収集して回るようになりました。
今日、住んでいる辺りに収集車が来ましたが、30年以上も前のAustraliaで見られた方法が続けられています。 年末のChatGPT騒ぎが続く中、最先端のテクノロジーが集まるCES2023では様々なロボットが並びました。単純な作業や肉体に負担の多い作業、就労人口が減って人手が不足している分野の作業をロボットが担う範囲がさらに広がっています。当然の成り行きでしょう。 質問です。 ① 日本の社会には改革を続けて作業の効率を上げることや生産性を上げることに成功している例と、そのような革新からは完全に取り残されている領域との二分化が著しいのはなぜでしょうか。 ② 学校組織の構造や運営、物事を決める過程と方法に課題があることが明確であるにも関わらず、なぜ改革を進めることができないのでしょうか。19世紀型の教材観・学力観を捨てて、人間の能力を広く豊かに育てる学習活動を広げることができないのはなぜでしょうか。 Pennsylvania 州のある地区の教育長が新年のnewsletterに投稿していました。 For those parents who have had children in the district for several years, you know that we have faced similar concerns in the past when implementing new initiatives, such as our one-to-one device program and our eSchool@GarnetValley program. Each of these advances has required us to adapt and rethink the way we approach education, including homework, assessments, and even entire bell schedules. We expect that ChatGPT and other emerging technologies will continue to challenge us to evolve and improve the way we educate our students. It is our responsibility to embrace these challenges and use them as opportunities to better prepare our students for their futures. 「これらの課題を受け入れ、生徒たちの将来への準備をより良くするための機会として活用することが、私たちの責任です。」 何が問題なのかしっかりと見極める力と習慣、問題の解決を探る根気と実行力、努力を続ければ明日は今日よりも良くなるという楽観性を持っていきたいと思います。それらは、使命感と責任感を持って革新的な仕事をしてきた人や組織の共通の要素のように感じます。 Elon Muskも創設に加わったOpenAIが11月末にChatGPTを発表しました。SiriやAlexaのように質問に答えるだけでなく、様々な条件をつけた小論文を書くことも、raspberry piを目的通りに作動させるためのPython codeを書くこともできます。その高度な機能のために多くの反響を呼んでいますが、とりわけ教育関係者や学校教育を考える人々の見解が続きました。それらは、これからの学校教育や学習活動はどうなるのかと言う不安や動揺、ついにここまで来たぞという警鐘が共通点のように感じました。
質問です。 ① AIの技術が進歩すると同時に学習内容や方法は変化するのでしょうか。学校の存在理由は変わるのでしょうか。すでにAI技術を活用しているという触れ込みの商品を見かけますが、それらに子どもたちの学習支援や教師の仕事の内容に本質的な革新性はあるのでしょうか。 ② 教育に関する仕組みや業務の中で、技術の進歩や社会の変化に影響を受けるもの、受けないものという分別は可能でしょうか。可能だとすると、それを分ける基準や要素は何でしょうか。 学校の教室では、教師が出す質問に子どもたちが正解を探し出すことが「学習活動」になり、その正解を覚えることが子どもたちが意味する「勉強」になり、正解を再生産することの作業が「宿題」になり、正解を特別な条件のもとで再生産させることが「評価」になり、その結果は評定となって子どもの「能力」として定義されます。 ChatGPTのようなAIを子どもたちや教師が容易に使うことができると、学校や教師が本来の仕事として続けてきたそれらの過程に直接に影響を与え、必然性や意味についての疑問が湧いてきます。この記事の筆者の問いかけに共感を持ちます。 “The question isn’t “How will we get around this?” but rather “Is this still worth doing?” 問題は、「どうやって(生徒がAIを使って小論文を書くことを)回避するか?」ではなく、「それでも記述式の課題をやらせる価値があるか」です。 It has also been argued that the core curriculum only prescribes the essential knowledge and skills and should be the foundational knowledge and skills a child needs, thus it is not the ceiling, rather the floor. Unfortunately, due to the differentiated status and stakes, the floor usually becomes the ceiling. The basic becomes the ultimate goal. This is what has been referred to as curriculum narrowing. Yong Zhao (2012) World Class Learners 基礎的な知識や技能は本来はさらに高度な学習の基礎(床)となるべきものが、現実には目的(天井)となっているというZhao教授の指摘は、AI技術の進歩に直面して一層意味を持っていることを感じます。学習活動をより深いもの、高度なものにする転機になるからです。 Australiaの学校ではChristmas前の1週間はKris Kindleという教職員の遊びがありました。同じことを現任校ではSecret Santaと呼んでいて、今年もたくさんの方々が参加しました。担当から知らされた自分のsecret partnerに月曜日から木曜日まで小さなプレゼントを贈り、最終日の金曜日には一番大きな物を贈るという約束になっています。
今年の私のお相手は、秋から事務室で仕事を始められた方でした。きちんと話しをすることもなく12月まで来てしまったので、この方とつながる上で願ってもない機会でした。 月曜日から金曜日までどのようなテーマで何を贈るかを考え、カードも作って実行に移りました。一方、私の名前を引いたSecret Santaさんは、余程私が疲れていると感じられたのか、月曜日から木曜日まで異なった種類の入浴剤を、私が席を外している間に机の上に置いていってくださいました。金曜日には、これも単身赴任の貧しい夕食を察したのか、上等な2種類の出汁をいただきました。 質問です。 ① 私たちは他人から物や好意をいただいた時に幸せや喜びを感じるのでしょうか。それとも、誰かに何かをあげる時により多くの幸福感や喜びを感じるのでしょうか。 ② 子どもたちの中に、職場の中に、あるいは地域の活動の中に、ひたすら他の人たちのために働いている人々がいることに気がつくことがあります。その人たちを動かす原動力は何でしょうか。 私たちの学校では16日が今年最後の日でした。この日の放課後に生徒会が企画・運営してWinter Ballが開催されました。その数日前に生徒会のメンバーが、牛乳を温めてココアを作り参加者に出すことを提案してきました。手間がかかるので出来合いの物を買ってきてそれを温めて提供することを勧めましたが、彼らは前日に材料を購入しBallの間あたたかいココアを振る舞いました。手作りのココアのおいしさをみなが体感し、提供したメンバーも忙しいながらも成就感を得ました。 Give and takeというと、人間生活や社会の約束事のような認識がありますが、実はGiveの方には義務ではなく、幸福の種が潜んでいるようです。 Christmasにちなんで、おもしろい引用です。私は3の時が一番幸せだったように感じます。 4 stages of life
表日本と裏日本、山陽と山陰のような対比は昭和の時代には一般的で、社会科の学習でもよく使われていました。一方、上り(下り)線・上京する、登(下)校するのような表現は現在でも使われますが、私はどちらかと言うと使いたくない言葉です。
8年生と「偏りと偏見」について考える過程で、それらの言葉を挙げて何を感じるか問いかけました。子どもたちの反応や話し合いは活気に欠けていました。問いかけていく中で、このGeneration Z たちは、表や裏、上や下という文字や表現に違和感を感じていないということに気がつきました。私自身が違和感を持っていることは子どもたちも同様に感じているだろうと誤った予想を持っていたのです。 奇しくも子どもたちと「偏りと偏見 bias and prejudice」について考え、気づいてもらおうと準備する中で、私自身がbiasを持っていたことに気がつきました。 組織心理学者のAdam GrantがPodcastの中で似たような体験を述べています。 “One day, a colleague came to watch me teach a class, and pointed out that the first 7 students I called on were white men. I was stunned. I hadn’t even noticed. Everyone has some form of bias. Some biases are conscious and intentional. But for many of us, biases hide below the surface. If I was inadvertently favouring white men, I was limiting the participation and development of women and students of colour.” (2021) 「ある時、私の講義を見に来た同僚が、最初に指名した7人の学生は白人の男性だったと指摘しました。私は愕然としました。まったく気がついていなかったからです」 質問です。 ① 他の人の言動の中に無意識のうちにbiasが潜んでいると気がついたことがあるでしょうか。自分の言動にbiasを発見することがありますか。 ② 学校の仕組み、慣習、校則、あるいは教師の発言や記述にbiasがあることに気がついた場合、どう行動するのが良いでしょうか。 成績表の所見欄に「好きなことには集中することができます」「苦手なことにも積極的に取り組んでください」などの表現があります。ここには「理想の生徒bias」が潜んでいるように感じます。嫌いなことには集中できないし、苦手なことには消極的になるのは当然の反応で、大人にも無理な注文です。学習や教育そのものを科学的・心理学的にとらえると意味がないだけでなく、子どもに対して厳しい要求であると感じますがどうでしょうか。 私たちの学校は年間を通して編入生を受け入れるので、世界各地の学校が出した成績表に目を通し、世界各地の先生方が書いた所見を読みます。
この作業を通してこんなことを感じています。 ① どの学校も成績表が大切な公的文書と認識し、最大限(?)の工夫をして作成している。 ② しかし、多くの場合それらを隅々まで読んでもその子どもの全体像はなかなか見えてこない。(学校によっては十数ページのBookletになっている場合さえある。) ③ 教科担当や学級担任の所見は、漠然とした全体像を語っているか、ある小さな出来事を拾い上げて一般化していることが多い。今後どのように学習を進めるべきかというようなfeedbackや、その生徒が日本の学校で学ぶ際に留意するべきことなどの申し送りの要素はほとんどない。 ④ 海外にある日本人学校が発行しているものは押し並べてお粗末なものが多い。 質問です。 ① 学校が定期的に出す成績表の形態や表記の内容などについて、子どもたちや保護者の視点に立ってどうあるべきかという議論や改善があるでしょうか。 ② 学校で勤務を始めてから、より良いfeedbackの出し方、commentの書き方について体系的、系統的に学ぶ機会があったでしょうか。 入学・編入書類の仕分け作業をしていく中で感じたことは、世界中のいたるところの学校で仕事をする先生方は、成績表に書く所見欄にどのような視点で何をどう書くべきかという研修や練習をしていないのだろうということです。 けれども時折、目の覚めるような、あたたかく、丁寧で、微笑みながら書かれたのだろうと直感できるような所見に遭遇することがあります。そのような輝く所見を読みながら、この先生は教室でも一人ひとりの子どもたちを大切にしながら、すばらしい学習活動を提供されているのだろうと容易に想像できます。 どのような職であっても、専門性や仕事への誠意というものは、何が大切なことなのかを直感的に理解している人で、この場合受け手が誰であっても、つまり、直接会う可能性があってもなくても丁寧な仕事をする人なのだろうと思います。 ところで、Australiaの学校に勤務し始めた頃、自分が書く所見に自信が持てませんでした。ある時ある同僚の所見を目にして、その差に愕然としました。それ以来、彼の所見をArchive室でひたすら写しました。模倣も専門性を上げる一つの方法だと思います。 |
Author萩原 伸郎 Archives
6月 2023
Categories |