Earth, Wind & Fireの1978年のヒット曲 “September” には意味のわからない歌詞というかchantsが出てきます。
“Ba duda, ba duda, ba duda, badu, Ba duda, badu, ba duda, badu, Ba duda, badu, ba duda” この曲を作詞したAllee Willisのインタビューを2019年に車中のラジオで聞きました。彼女の答えは、その部分はE.W. & F. のメンバーのMaurice Whiteの「一瞬の思いつき」で、彼女は変更することを主張しますが、彼はこのままで良いと言い切ったそうです。 “If the melody, beat, and spirit are there then everyone will know–emotionally they will know–what you‘re saying…” 「メロディー、ビート、そしてスピリットがそこにあれば、誰もがあなたの言っていることを感じ取ることができる。」 質問です。 ① 今の社会の風潮として、そして仕組みとして人々に細かな説明を常に求めています。そして私たちも常に何かを立証しようと躍起になっていることに気がつくことがあります。何かを言葉ではない方法で伝え合い感じ合うことの良さは何でしょうか。その条件は何でしょうか。 ② 教室や家庭で、何かを直接「言わない」ことで良い結果を生むと言う体験はないでしょうか。 “Lyrics can be clunky sometimes because someone is trying to make too much sense, or fit in a four-syllable word when a two-syllable one feels better…” 「歌詞がぎこちなくなることがあるのは、誰かが意味を強調しようとしすぎたり、2音節の単語の方がしっくりくるのに4音節の単語を入れたりするからだと思う。」とWillsは語っています。 一歩入るとどのような文化や価値観を大切にしているのかが伝わってくるオフィス、病院、商業施設、公共施設があります。VisionやMissionという大袈裟な文言を見なくても、そこの組織や人や場所が大切にしている核心を直線的に感じることができます。 建物のデザイン、色、光、音、掲示物、子どもたちの表情や服装、周辺の植栽から、訪れる人にいつでも、誰にでも「静かに」しかも「確実に」主張するような学校や教室があります。 隣の教室で ”September” が流れているのを聞いて、そんなことを考えました。
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人は成長するにつれてなぜ質問をしなくなるのか、問いを持たなくなるのかということを先月の研究講座で先生方と考えました。
ジャーナリストのWarren Bergerは5つの理由を挙げています。”fear (恐れ)” “knowledge (知識)”, “bias (先入観)”, “hubris (傲慢)”, “time (時間)” “Though many young children start out as fearless questioners, they gradually get the message—from teachers, parents, other kids—that asking a question carries risks, including the risk of revealing what they don’t know and perhaps ought to know.” Warren Berger (2018) The Book of Beautiful Questions 40度に届くと思われる炎天下の歩道を歩いているとバスを待っていた年配の方から声をかけられました。「今、何時ですか。」 3時7分ですと応えたその瞬間に、子どもの頃、腕時計をするようになった中学生以前にはよく見知らぬ大人にたずねた質問の一つだったと思い出しました。そう考えてみると、5つの理由に加えて、technologyを身につけたことで直接人に尋ねるという行為が減ったと言えそうです。 質問です。 ① 最近誰かから良い質問を受けましたか。それはなぜ良い質問だったと言えますか。その逆に、誰かにじっくりと考えさせる問いを投げかけたことがありましたか。どのような仕掛けを考えましたか。 ② インターネットで検索する行為も答えを求めるという点では、人に対して質問をする行為と同じですが、根本的に異なる点は何でしょうか。 なぜ現代の人々にCritical thinking skills が欠けているのかという問いに経営改革が専門のBouyguesも同様に分析しています。 “I think one of the reasons why it’s more difficult in today’s day and age is that we live in a world of incessant distraction and technology is often to blame as well.” “And part of the necessity of critical thinking is having that ability to take a step back and actually think about your own thinking.” (2023) そして好奇心を持ち続け、「もし○○だったら」という問いを自分自身に投げかけることが批判的・構造的思考力を伸ばすために必要なことの一つと指摘しています。 人への問いかけを考察していくうちに、自分への問いかけの習慣も関連しているということに気がつきました。私は「なぜ今もここにいるのか」という問いを今学期自分に投げかけようと思います。 夏休みの第一週目、月曜から金曜日まで午前と午後の二枠、合計で十枠を提供し、自分たちがやりたいことを企画提案して参加者を募り、実際に運営してみんなと楽しむ。こんな簡単で単純な複合イベントを試してみました。題してFestival of Wonders。
常識的な方法を用いずに絵を描く「芸術は爆発だ」、スマホでハッとする写真を撮る「スマホでフォート」、大切な人に花束を作る「フラワーアレンジメント」、商品として売れないオレンジを農園から譲り受けフレッシュジュースを作る「ジュースショップ」、最近校内で人気の麻雀を「麻雀は人生に似ている?」と銘打って遊ぶ、デジタル新聞創刊号の作成、七夕前夜祭コスプレ大会、ナゾとき大会、プログラミングワークショップなどの個性的なイベントが並びました。 質問です。 ① 選択肢の中から選ぶというのではなく、子どもたちが純粋に自分たちがやりたいことを提案し、準備し、実行する機会や場所を保証したら、どんなことをやり出すでしょうか。それが私的な場ではなく「学校」という公的な場所だったら可能でしょうか。それを拒むものは何でしょうか。 ② 子どもたちのAgency、物事の選択権や決定権を他のstakeholders(利害関係者)と同様に持ち、物事を企画・運営する裁量権を共有すること、をどのように認め共存していけば良いのでしょうか。 学校教育の主役である子どもたちがAgencyを持つことは当然のことであり、教職員や保護者の方々、さらに地域とCo-agencyを築くことは、OECDの提案にもあるように時代の趨勢でしょう。けれども、この必然性のある動向に共鳴して教育活動や運営のし方を改革している学校は少ないだろうと予想できます。この方向性が現実のものにはなりにくいのはなぜでしょうか。 まず、多くの学校には子どもたちも先生方も自由に使える時間がない。精神的にも余裕がないこと。そして、子どもたちがAgencyを共有する意義や目的は、学校が大切にしている物事の優先順位や価値観と一致しない、という理由が考えられます。さらに、十分に準備をして失敗のないようにという完璧主義、安全管理面での入念さも影響しているかもしれません。 今回実施に移るときに考えたことは、とにかくすぐに試してみるというagility すばやさでした。 “What can I do with what I have?,” it enables us to “bypass the paralysing trap of waiting to get more in order to do more." Scott Sonenshein (2017) 「今あるもので何ができるか」、それは「より多くのことをするために、より多くのものを手に入れるのを待つという思考停止の罠を回避する」ことを可能にします。 先生方と話していた時に、偶然話題がDialogueにすすみました。その語源は何だろうという単純な疑問が持ち上がりました。そのことが頭の片隅にあったので帰宅後に調べてみると、dia ‘through’ + logos ‘word’ というラテン語の語源が元になっていることがわかりました。そしてこの語源通りに、自分自身が言葉を通して考えたり表現したりすることをどれほど大切にしているかを振り返るきっかけになりました。
前回はmicro-aggressions (微小攻撃)について考えてみましたが、自身の意識の中にある偏見に気がつくという内省的な行為が大切であることが明らかになりました。日常的な行為として私たちはdialogue (対話)をしているでしょうか。 質問です。 ① 私たちの生活の中にdialogueを通してより良いものを創りあげる習慣やシステムが健全に働いているでしょうか。もし機能していないとすると、その理由は何でしょうか。 ② Monologue (独白、一人芝居)が独り歩きを始めてしまい、dialogueの成立を抑えている場面や実例を感じる場面はないでしょうか。 Debateの根本的なルールは、自分の主張を突き通して相手の主張や議論を崩すことにあります。今の私たちにそのような攻撃性が必要かどうか。正解がひとつではなく、どの選択肢も正解になり得る可能性がたくさんあることに気がつくと、ひとつの主張を推し進めることにほとんど価値がないことに気がつきます。それほどにOpen-endedな課題があふれているということは、社会に存在する課題が複雑化したこと、社会の多様性の度合いが進んだからかもしれません。 対話が成立しない理由、MonologueやDebateになってしまう理由を、最近考えています。今日は、ここ数週間の命題について考えていると奇しくもまったく異なる文献に心理学者Daniel Kahnemanの引用を見つけました。 “Overconfidence arises because people are often blind to their own blindness, sincerely believe they have expertise, act as experts and look like experts.” 「自信過剰が生じるのは、人は往々にして自分の盲点に気づかず、自分には専門知識があると心から信じ、専門家として振る舞い、専門家のように自分を見るからです。」 私たちが職業としての仕事に従事する中で、自分の経験や学びが限られたものであることを認識できるかどうか、その謙虚さを身につけることはむずかしいことです。さらにそれを他者に気づかせることはとてつもなくむずかしい技です。 自分が発した何気ない一言や誰かに言われた一言がいつまでも頭に残ることがあります。
自分が言った言葉の場合には、果たしてそれが適切であったか、相手を傷つけていないかなど、一旦気になり始めると居ても立っても居られない状況にさえなります。一方、誰かに言われた(書かれた)場合には、相手の真意を探る過程でたいていは否定的な結論にたどり着き、苦い後味が残ります。 助詞一つの使い方をあやまっただけでも意味が完全にひっくり返る可能性があることを意識すると、学校や教室の中では一体どのような状態なのでしょうか。 “One criticism of discourse about microaggressions is that our society has become “hypersensitive” and that casual remarks are now blown out of proportion.“ Ella Washington (2022) Harvard Business Review 「マイクロアグレッション(微小攻撃)に関する議論の批判として、私たちの社会が「過敏」になり、何気ない発言が大げさに扱われるようになったというものがあります。」 質問です。 ① 私たちが子どもたちと交わす会話の中に、攻撃的な要素があったと振り返って感じることがあるでしょうか。 ② 様々な人との関わりの中で、相手に対して攻撃的であったり尊重していないと感じた時、私たちはどのような軌道修正の方法を取ると良いのでしょうか。 学習活動の中で担当の先生の表現の仕方や言葉遣いが生徒たちを傷つけていると、クラスの代表として直接その先生に直訴した生徒がいました。大人の世界では、攻撃的な言動があまりにも日常的に起こるので感受性が鈍っていますが、子どもに対しては本当に気をつけなければならないということをあらためて認識しました。 “Ultimately, getting better at noticing and responding to microaggressions — and at being more aware of our everyday speech — is a journey, one with a real effect on our mental health and well-being at work. Microaggressions affect everyone, so creating more inclusive and culturally competent workplace cultures means each of us must explore our own biases in order to become aware of them.” Ella F. Washington 「結局のところ、マイクロアグレッションに気づき、対応できるようになること、そして日常会話にもっと意識を向けることは一種の旅であり、職場のメンタルヘルスと幸福に実際に影響を与えるものです。マイクロアグレッションはすべての人に影響を与えるので、より包括的で文化的能力の高い職場文化を作るには、私たち一人ひとりが自分の偏見に気づき、それを探る必要があります。」 偏見や思い込みに気がつくということが自分の言動から棘を抜くためにとても重要な要素だと思います。 先月私立中学校フェアという学校説明会がありました。親子4人組の番になりましたが、対面には椅子が2脚しかありません。その時、受験生の弟さんらしき幼児が私の椅子の隅にちょこんと座りました。ご両親は申し訳なさそうにしていましたが、あまりにも自然な早業だったのですぐに肝心の質疑応答に入りました。
やがてこの幼児から体温が伝わってくると、子育てをしていた頃の体験や体感が甦ってきました。 家から学校までの道に、Australiaの家の庭にあるものと同じ種類の植物が3軒の庭にあることをこちらに越してきてすぐに見つけました。昨日の朝はそのうちの1軒で満開でした。自分の庭にあるその木のことを想像しました。 質問です。 ① 私たちは五感を通して伝わってくる情報から何かを認知するだけでなく、自分の意識や思い出にある物事との接点を探り出します。その瞬間の感性や心持ちは、どのような状態なのでしょうか。 ② 子どもの感情を私たちは五感を使って感じ取っているでしょうか。わからない、できないという苦しみに共感する感受性や謙虚さを常に持っているでしょうか。 Steve Jodsが自分に宛てたmailがあります。 "I grow little of the food I eat, and of the little I do grow I did not breed or perfect the seeds. I do not make any of my own clothing. I speak a language I did not invent or refine. I did not discover the mathematics I use. I am protected by freedoms and laws I did not conceive of or legislate, and do not enforce or adjudicate. I am moved by music I did not create myself. When I needed medical attention, I was helpless to help myself survive. I did not invent the transistor, the microprocessor, object oriented programming, or most of the technology I work with. I love and admire my species, living and dead, and am totally dependent on them for my life and well being.” Email sent on September 2, 2010. 「私は、生きている人も亡くなった人も、人間を愛し、賞賛し、自分の生活と健康を彼らに完全に依存しています。」 晩年のSteve Jobsが自身の感覚を通して、自分と自分を取り巻く環境との関係を謙虚に見つめている様子が伝わります。 昨日の花屋さんはとても混雑していました。レジの行列の中に塾のカバンを背負った小学生が3人並んでいました。それぞれが1本のカーネーションを持っています。母の日のプレゼントなのでしょう。しばらくして、きれいな袋をさげて店から出てきました。
“Mother is a verb. It’s something you do, not just who you are.” という表現があります。自分が育ててもらった事実を思い起こすと「してもらった」という受動態の動詞ばかりが思い出されます。一方、子育ての経験を振り返ると、「した」という動詞の過去形が並びます。 母親から自分に向けられた動詞の種類と頻度が多ければ多いほど、そしてその影響力の認識が深ければ深いほど、母の日への感謝の気持ちが大きくなるのでしょう。 質問です。 ① Teacher is a verb. と言えるでしょうか。 ② Student is a verb. とも言えるでしょうか。 教師という名詞が職務を決めるのではなく、教師が子どもたちや学校共同体に何かを働きかけることで、仕事の「意味」や「価値」が生まれてくるのでしょう。一方、生徒については、自分や他者からの定義で受け身の行動を選択するのではなく、自らが興味や関心のある物事に働きかけたり行動したりすることで、生徒としての存在意義が生まれ、様々な領域で成果をあげる個人に成長するのでしょう。 母親、教師、生徒という立場や役割を各自が動詞としてとらえると、するべき仕事や責任が明確になってきます。そこに向かう意識も強くなってくるように感じます。この内発的な力の強さが成果に差を生むのではないでしょうか。 ところで、その動詞は時と場合によって増えることも減ることもあります。先日の新聞に、ある作家が子どもの成長を通して持った複雑な感情を綴っていました。 “My daughter has booked in her driving test and I know if she passes, it will mean she’ll borrow my car without me in it. And as much as I want her to pass, I’ll also miss the hours we’ve spent, sitting side by side, learning something new about each other.” Nova Weetman (2023) The Guardian 「娘が運転免許の試験を予約しました。もし合格したら、私が乗っていない私の車を借りることになります。娘に合格してほしいのは山々ですが、並んで座り、お互いの新しい事を知りながら過ごした時間が恋しくなります。」 親として子にする「動詞」が減ることはうれしいことでもありさびしいものでもあります。 Debateの世界大会の地区予選が学校で開催されているので見に行きました。対する2つのチームには提示されたstatementについて15分間の準備時間を与えられます。Device (internet) を使ってリサーチすることも可能なので、両チームは賛成か反対の立場でどのように議論を展開するかを考え、適切で説得力のあるデータや資料を懸命になって集めます。
この15分間にgenerative AI を使っていたチームはありませんでしたが、もし使うとすると強力な道具になるはずです。そうすると人間がdebate大会で挑戦する目的は何になるのでしょうか。 “The dilemma for educators is that routine cognitive skills, the skills that are easiest to teach and easiest to test, are exactly the skills that are also easiest to digitise, automate and outsource.” Andreas Schleicher (2018) 教育者にとってのジレンマは、最も教えやすく、最もテストしやすい定型的な認知能力は、まさにデジタル化、自動化、アウトソース化しやすい能力であるということです、という指摘通りの状況になりました。 けれども学校や教育行政は、この現実に直面せずに、より正確に表現すると、教育や学習の本質的な目的を直視せずに、ICTの活用を試験などの場面で規制するという方法でごまかしてきたように感じます。 一方、ICT推進派の議論も怪しいものです。ある教育研究団体のAI活用についての白書のまとめにはこうありました。 “Ultimately, AI can help create a more equitable, effective, and enjoyable learning environment for all students.” Getting Smart (2023) 質問です。 ① 10数年前から各学校で本格的に始まったICTの導入で「より公平で効果的で楽しい学習環境 」をどの程度実現しているでしょうか。評価基準となる共通の指標があるでしょうか。 ② 学校で「より公平で効果的で楽しい学習環境 」が十分に実現されていないとすると、その要因は何でしょうか。 ③ AIを教育に活用して「より公平で効果的で楽しい学習環境 」を具現化するという表現は、単なる宣伝文句でしょうか。どのような方法が可能でしょうか。 さて、先週World Economic Forumが発表したThe Future of Job Report 2023には恒例のTop 10 Skillsや職種の将来像などがありました。ここから、これまでにはない変化を読み取ることができました。これも一過性のtrendでしょうか、それとも本当に社会がその方向に動いているということでしょうか。 入学して1か月、7年生との学習活動の終わりに次週の予定を説明しようとした瞬間に、ゴールデンウィークであることに気がつき、来週はないから再来週にと言うと「ゴールデンウィークなんかいらない。」と叫んだ子どもがいました。そして周囲の子どもたちも同調しました。
この子どもたちが、これから先いつまで休みより学校に行く方が良いと思い続けるだろうかとぼんやり考えました。そして、来年の今頃にはそんなことは言わなくなるだけでなく、感じることさえもなくなるのだろうかと予想するとさびしく感じました。 質問です。 ① 朝学校に来る時、教室に入ってくる時に、子どもたちはどんな表情をしているでしょうか。学習活動が始まる時に子どもたちは笑顔でしょうか。明るい表情をしているでしょうか。こちらをしっかりと見つめているでしょうか。 ② 学校や教室の中で、学ぶ意欲や知ることの楽しみやできることの喜びを奪い取っている可能性のある要因は何でしょうか。 ③ 子どもたちは学校にとっての顧客という視点を持って、WhatやHowについて話し合うことは可能でしょうか。 Schools everywhere are organised on the assumption that there is only one right way to learn and that it is the same way for everybody. But to be forced to learn the way a school teaches is sheer hell for students who learn differently. Indeed, there are probably half a dozen different ways to learn. Peter Drucker (2005) どこの学校でも、正しい学習方法は1つしかなく、誰にとっても同じ方法であるという前提で組織されています。しかし、学校が教える方法で学ぶことを強制されることは、異なる学び方をする生徒にとって地獄のようなものです。実際、学習方法は半ダースもあるのです。 Druckerはこの文章の後に学習者自身が “How do I learn?”と問いかけることが、まず最初の質問であるべきだと主張しています。中高生に自分の学び方をMeta-cognitiveにとらえ、教師に伝える機会を持ち、そして教師がそれに応えるというシステムができれば、子どもたちの表情は良くなるのではないでしょうか。それが学校や学習のCo-agencyという理念の基本にあるように思います。 さて、世間擦れして純粋さがやや濁ってきている私は、ゴールデンウィークには学校に行かずに好きなことができることを楽しみにしています。新学期の1か月で頭や心の中がすでにからっぽになりかかってきているので、十分に補填しようと思っています。 この時期は日毎に景色が変わることを、3回目の日本の春の中にいて感動しています。そのためか、北の方角に連なる山や学校にある木々にあらわれる変化を見落とさないように、見過ごさないように意識しているようなところがあります。
Positive psychologyのonline courseの中に私たちのAttention (注意、関心、興味)について説明がありました。 Bottom-up attention: Attention that is a allocated effortlessly/automatically to salient stimuli in the environment 周囲の刺激に無理なく、自然に反応する注意 Top-down attention: attention that is allocated effortfully and consciously based on our current goals or prior knowledge 現在の目標や前もって得た知識に基づいて、努めてかつ意識的に振り分けられる注意 質問です。 ① 私たちが無意識のうちに反応して注意したり関心を持ったりしていることは何でしょう。仕事場や教室であらわれている実例は何でしょうか。 ② 子どもたちとの関わりや学習活動の中で意識的に注意していることは何でしょうか。あるいは、努めて拾いあげることを意識しなければ見逃してしまう可能性があるものは何でしょうか。 学校の教育活動、組織や物事の手順の中にTop-down attentionを払わなければ、深い学びにはつながらないこと、問題や事故につながる可能性が高いものがたくさんあります。そしてそのことに気がついていない人的なBlack spotsの実例も多くあるように感じます。 その一例として、子どもたちが学ぶことの目的・目標は何かという本質的な問いから離れて、教師自身が描く教えること(教え込むこと)の目的が第一義にあってその意識から離れられない現実があります。 The goal is student learning and satisfaction in learning not curriculum coverage. Dylan Wiliam 目標は生徒の学習と学習における満足度であり、カリキュラムを網羅することではありません。 そして、カリキュラムを網羅することが学習と主張することができた時代は終わっています。 The dilemma for educators is that routine cognitive skills, the skills that are easiest to teach and easiest to test, are exactly the skills that are also easiest to digitise, automate and outsource. Andreas Schleicher 教師にとってのジレンマは、最も教えやすく、最もテストしやすい定型的な知識・技能は、まさにデジタル化、自動化、アウトソース化しやすい領域であるということです。 こうして見てくると、ここにもTop-down attention が必要なことに気がつきます。 |
Author萩原 伸郎 Archives
6月 2023
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