Mail newsletterの中にあったやや挑戦的な論点に目がとまりました。そして実際の高校生はそのことについてどう感じているのかが気になり、11年生の探究学習のクラスに問いかけてみました。これがその主張です。
“School tests weaknesses. Life rewards strengths. Spending more time on our weakest areas is tempting, but life mostly rewards us for investing in our strengths.”Shane Parrish (2024) 「学校は生徒の弱さを測るが、人生は長所を評価する。苦手な分野に多くの時間を費やして克服することは魅力的だが、人生は強みに投資することで報われることがほとんどだ。」 質問です。 ① 学校で行われる評価はおそらく減点法が主流だと思われますが、加点法にならない根本的な理由は何でしょうか。 ② 社会に出て、長所を評価されたという経験はありますか。さらにご自分の強みに投資したという体験がありますか。 11年生(高校2年生)の反応を読んで、まさに学校というゲームの真っ只中にいるこの人たちは、私が予想した以上に物事の本質を捉えていると感じました。 「学校はテストを行なって生徒の弱いところを探るけれども、弱いところが見つけられたら学校で強めていけると思う。テストの成績の面で考えたら落ち込むこともあると思うけれど、人生という観点で考えてみれば、弱いところを探って上達させるということは、その人に強みを与えていることになると思う。」 「学校は、たくさん失敗をして、その失敗を活かして成長していく場所です。ミスをしても、学校はそれを良い経験として扱ってくれます。しかし、社会では失敗は許されません。勤務先でミスをしたら、責任を負わなければいけません。つまり、学校では失敗して自分の弱点を見つけ、それらを改善していくことができますが、社会では弱点が見つかれば、なぜ改善していないんだと詰められます。そのため人々は必然的に強みのみを使うようになるのだと思います。」 「苦手なことは足枷にならない程度までがんばれば良いという点は非常に共感できた。しかし、学校で習う程度のことは苦手であっても軽くこなせるようにならないといけないと思う。学校で教わることは基本的には専門的なものではなく、一般教養のレベルだと感じているので、専門性を求めるのであれば大学院などで自主的に伸ばせば良いと思う。そのため、学校が弱さを試し、どこがその人に欠けているのかを知らせることも重要だと思う。」 確かにここで紹介した11年生が主張する通り、学校では自分の弱い部分を認識する場所としての価値はあるという点には共感しました。一方で、日本の社会に、職場に、それぞれの人の長所を讃える文化が根付いているかどうか疑問に思いました。
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猛暑や異常気象の報道や情報に連日ふれている私たちは、あたかもこれが日本だけの出来事であるかのような錯覚を持ってしまいます。けれども今までにはない猛暑は世界的な現象で、各地で惨状が起きています。
日本の報道機関から発信される内容が著しく内向きであることが大きな要因のように感じますが、子どもたちの視野を広げること、意識や関心の範囲を広げるにはどうすれば良いのかということを考えています。 質問です。 ① ご自分の思考や判断の基準となる信頼性の高い情報源をどうやって探しましたか。それが本当に信頼できるものなのかをどうやって立証しましたか。子どもたちは、信頼性の高い情報源を探す方法や情報の質や正誤を見分ける知識をどこから、誰から得ているでしょうか。 ② 私たち教師は、学習活動を通して、教科書的な情報や知識を超えたさらに深く広いものをどのように提示しているでしょうか。個々の情報を線につなげることや総合化したり概念化したりする高次の学習機会を提供しているでしょうか。 この夏に骨太な本に巡り合いました。著者は概念化とは「事実、例、観察、経験を用いて、重要な概念や概念的関係の理解を構築すること」と定義し、さらに次のように述べています。 “When we talk about teaching students to think more conceptually, we're talking about teaching them to change the way they think about the factual information they acquire in class—to view facts not as content to be memorised but, rather, as raw material to use in constructing important understandings. Because the skill of "thinking big"—putting facts together to see larger concepts, connections, and relationships—can be challenging for students at first, it's a skill that needs to be practiced and scaffolded.” Jay McTighe & Harvey Silver(2020) Teaching For Deeper Learning 「生徒がより概念的に考えるように教えるということは、授業で得た事実情報に対する考え方を変えるように教えるということです。事実を暗記するための内容としてではなく、重要な理解を構築するための材料としてとらえるのです。事実を組み合わせて、より大きな概念、つながり、関連性を見出すという「大きく考える」スキルは、生徒にとって最初はむずかしいものであるため、練習と段階ごとのサポートを提供することが求められます。」 身近な体験から始まって、深く大きな学びに発展していく仕組みを、実際の学習活動の中にどのように組み込むかが課題でしょう。さらに、この「大きく考える」スキルは大人にも必要であることを強く感じました。 昨年の今頃少し書き始めて、そのままになっていたのがこの題名と次の一節です。
大学生の頃、夏の季節は毎年Lifeguardをしていました。忙しい時は晴天日の一番暑い時間帯。そんな昭和の夏を思い出しながら、近くの市民プールをのぞいてみました。 公園の中にあるそのプールは夏の間だけ営業され、豊かな木々に囲まれていて外からは見えませんが、プールからの歓声は聞こえてきます。ところが今日、一番暑い時間帯の散歩の途中にプールの方へ向かって歩いていても子どもたちの歓声が聞こえません。週末にプールが休みとは残念なことだと思いながら入口まで歩くと、何と営業中でした。 令和の人々は暑い最中にはプールには行かないことが常識的なルールなのかもしれません。 ひと泳ぎしてうつ伏せになって、体から流れる水滴に映る青空や太陽の光を見るのが好きでした。学校には冷房設備がありませんでしたが、みな汗をかいて夏を乗り越えていました。 ここまで書いてやめました。そして1年後、さらに厳しい夏を過ごしています。 質問です。 ① 明らかに新しい夏の概念に直面している中で、従来通りの学校行事や地域のイベントを継続する意味や安全性を再考し、何らかの変更をしている実例があるでしょうか。 ② 気候変動の人的要因に意識を向けて、行動や習慣を変える人々が増えるには何が必要でしょうか。 “Most people are interested. Few are truly committed. Interested people act when it's convenient; committed people act no matter what. Interested people do the minimum; committed people push beyond limits. Interested people wait to be told; committed people take the initiative. Fully committing is the key to accomplishment.” Shane Parrish (2024) 「ほとんどの人は興味を持っている。けれども本当に専念している人は少ない。興味がある人は都合の良い時に行動し、献身的な人は何があっても行動する。関心を持っている人は最低限のことだけをする。一方コミットしている人は限界を越えてまでやろうとする。興味を持つ人は言われるのを待つが、コミットしている人は率先して行動する。完全にコミットすることが達成への鍵なのです。」 今日は午後に夕立がありました。久しぶりの雨のお陰で、ちょっと前まで荒れ狂うような熱気が充満していたのが落ち着いて、さわやかな外気が広がっていました。 11年生(高校2年生)のField Study Tripを引率しました。各地の訪問、そこでの交流や体験はすべてが大成功で、参加した生徒たちにはたくさんの学びがありました。
一方、私は10代後半の生徒たちの行動に関心がありました。観察をするまでもなく、Generation Zの行動形態はSmartphoneを媒体に現実世界とvirtual spaceやゲームの世界を常に行き来していることに気がつきました。それは、ぼんやりしている時間がまったく無いということで、たとえばA地点からB地点への乗り物を使った移動中には、車窓からの風景を眺めことには従事せず、Smartphoneの画面を注視するか寝ることに集中するという行動パターンがあきらかになりました。 これらの行動は、実際に起こっていることがつまらないからしているのではなく、いつの間にか習慣としてこの人たちの頭脳に組み込まれ、当然の習慣として動作にあらわれているようです。 質問です。 ① あなたは何もすることがない時、退屈な時に巡り会うことがありますか。そのような時に何をしますか。Smartphoneが手元になかったら何をしますか。 ② Smartphoneに自分の行動が支配されている、操られていると感じることはありますか。子どもたちは、そのようなことを感じることがあるのでしょうか。 数週間前のDr Laurie SantosのPodcastにBoredom 退屈を扱ったEpisodeがありました。何もすることがない時には、手持ち無沙汰で落ち着かないという時間帯を過ぎると、質の高い豊かな心持ちの時間帯が訪れること。 さらに、家事などの日常の作業、たとえば清掃に関わっている時には、作業をしながらMind wondering 頭の中でいろいろな物事を考える時間が生まれていること。研究によると、私たちが思いつく新しいアイデアの約20%はその時間帯に生み出されているということ。 確かに、自分の生活を振り返ってみると、掃除機をかけている時にいつもたくさんのアイデアが出てきています。 しかしながら、これらのすべての有効な結果を得るための条件は、もうお気づきかもしれませんが、Smartphoneを使わないこと、持っていない時のことなのです。 Roger Federerが6月にあったDartmouth Collegeの卒業式で祝辞スピーチをしました。すぐにSNS上で話題になったのですが、この週末にようやくそのスピーチのすべてを聞き、読む機会がありました。人々を感動させたのは次の部分です。
“In tennis, perfection is impossible... In the 1,526 singles matches I played in my career, I won almost 80% of those matches... Now, I have a question for all of you... what percentage of the POINTS do you think I won in those matches? Only 54%. In other words, even top-ranked tennis players win barely more than half of the points they play.” 「テニスの世界で完璧であることは不可能です。私が選手時代にプレーした1526試合のシングルスのうち、私はそのほぼ80%に勝っています。では、みなさんに質問です。その試合で私が獲得したポイントの割合はどれくらいだと思いますか?わずか54%です。言い換えれば、トップクラスのテニスプレーヤーでさえ、プレーしたポイントの半分を獲得するのがやっとだということです。」 質問です。 ① 子どもたちが学ぶ教室で、私たち教師が「完璧」を求めていないことがあるでしょうか。学習の過程では、子どもたちに寄り添う姿勢を示していても、評価になると豹変して ’all or nothing’ になってしまっている慣習に気がつくことはないでしょうか。 ② 専門職の教師として仕事に向かう際に、私たちはどの程度の完成度に到達することを意識しているでしょうか。常に完璧であることを目指しているでしょうか。 私たちは「うまくいって当たり前」とか「問題や事故がなくて当たり前」の環境の中で生活をしています。それだけ精度の高い社会であることが、良くも悪くも現実であり、私たちの意識でもあります。しかしながら、現実は非常に危うい偶然の連続の上にかろうじて成り立っているということを認識する必要があります。とりわけ、子どもたちの生活や学習の過程が完璧なはずはないでしょう。 そして、私たちの仕事も常に完璧に進めば良いのですが、そうではないことの方が多いのです。その時にその事実をどう認めるか。そして、どうやって前に進むか。Federerの言葉を借りると、 “The best in the world are not the best because they win every point... It’s because they know they’ll lose... again and again… and have learned how to deal with it.” 「世界最高の選手は、すべてのポイントに勝つから最高なのではありません。彼らは負けることを知っているからなのです。何度も何度も、それに対処する方法を学んできたからです。」 私たちにとって、失敗や期待通りに進まなかった時の対応策は何でしょう。 先月のことになりますが、Bertrand Russellの文章を久しぶりに目にする機会がありました。この哲学者の文章はSomerset Maughamなどと並んで、私が大学受験の準備をしている頃によく読んだものでした。
正確には、通っていた予備校にAll Roundという英語講読の講座があり、担当の先生が編纂された小冊子には珠玉の短編が詰まっていて、そこで毎週名文を読んでいたという説明が適切です。受験に出るから読むのではなく、そこに書かれていることに興味がわいて夢中になって読んでいました。後にも先にも学校でこのような英文の読み方も講義も経験したことはなく、高校生時代にクラスの底辺にいた自分が優れた英文を読むことの深さと魅力に引きつけられるきっかけになりました。 質問です。 ① 高校から大学へすぐに進むことができなかったことで、図らずも得ることができた私の極めて個人的な知的体験ですが、目の前の子どもたちに人生の選択肢を多様に持つこと、それを勧めることは学校では不可能なことでしょうか。 ② 学習活動の過程で子どもたちに質の高い学習体験と、学習後も持続する興味や関心を育むことがむずかしいのはなぜでしょうか。 All Roundを担当されていた先生とは大学に入ってからも時々お目にかかる機会がありました。私がAustraliaの学校で働いている時には、旅行の途中に奥様と遊びに来られたこともありました。 “If the matter is one that can be settled by observation, make the observation yourself.” 観察で解決できる問題なら、自分で観察すれば良いのです。 “If an opinion contrary to your own makes you angry, that is a sign that you are subconsciously aware of having no good reason for thinking as you do.” 自分の意見に反する意見にあなたが腹を立てるのは、自分の考えに正当な理由がないことを無意識のうちに自覚している証拠なのです。 “A good way of ridding yourself of certain kinds of dogmatism is to become aware of opinions held in social circles different from your own.” Bertrand Russell ある種の独断的な思考を排除する良い方法は、自分とは異なる社会的サークルの意見を意識することです。 私たちの学校で開催されたDebateの国際大会の地区予選会で審査員をしました。英語で思考し議論する能力や語彙量が勝敗を決めると言っても過言ではないので、通常の学校で学習する教科としての英語とは相当離れています。発信型の英語、生活や学習言語として英語を使っていることが必然的に出場条件になると思われますが、たくさんの中高生が連休の一部を諦めてやってきました。
一組ごとのdebateを審査しているうちに、この理解力、表現力、論理的思考力、知識・情報量、心理的・感情的安定性が試される戦いは、見方によっては相当酷い活動であることを感じました。そして、勝敗を明らかにすることにどれほどの意味があるのかという、以前から感じている疑問がさらに大きくなりました。表現を換えれば、協調性や'Dialogue' 対話が大切にされる時代に、このような形態の議論の必要性はどのくらいあるのかどうか、論破する能力を持つことがこれからの社会に必要とされているのかという疑問です。 質問です。 ① ある問題や提案について賛成、反対、無関心という3つの見解があらわれた時、考えの違いを明確にするのではなく、共通点を探し出すことに労力をかけたらどのような成果があがるでしょう。3者が歩み寄ることのできる可能性の高い提案を出すことを試し合うのはどうでしょうか。 ② 実際の生活の中で議論を通して支持する案を押し通す場面と、妥協案や折衷案を導き出す場合と、その頻度の割合はどのくらいでしょうか。白黒をはっきりさせず、中間点に着陸することは話し合いの成果という点では「負け」でしょうか。 3人1組の出場チームのうち、それぞれが違った制服を着ている男子チームが教室に入って来ました。Debateが始まる前の「作戦」の話し合いや各発言者の間の打ち合わせも効果的に進んでいないようでした。惨憺たる結果で終わり、一方のチームが退出した後に声をかけてみました。 この3人組は毎週 Online debate 講座に参加している「知り合い」どうしだそうで、今回初めてこの大会に参加することにしたのだそうです。けれどもお互いが初対面で要領がつかめず苦戦したとのことでした。 他県から参加するメンバーがいるので、会場に一番近い所に住んでいるメンバーの家に3人が前日から泊まって準備したことも話してくれました。2日目も3人はそれぞれの制服を着てやって来ました。彼らには目指すべき具体的な目標が明確になった機会だったことでしょう。学校で学ぶ英語とはまったく異なる「道具としての英語」を試しにこの大会に参加した、彼らの勇気と情熱に励ましの言葉を贈りました。 今日読み終わった本の中に、忘れていた考え方・ものの見方に気付かされた箇所がありました。
“go slow to go fast.” Build a few successes, then take another tiny step. Michael Fullan (2023) The Principal 2.0 世の中のすべてと言っても過言ではないほどに、速さと効率と成果を弾き出すことが要求される中で、この当たり前の原則、急がば回れ、を一体どこに置き忘れてしまったのかと自問しました。 質問です。 ① 昨年度の子どもたちとの学習活動や課外活動、学校生活の中でゆっくり丁寧に時間をかけたことで、大きな成果を生んだ事例があるでしょうか。その逆に、急いでしまったことで、やり終えたものの期待を越える成果はあがらなかったという事例があるでしょうか。 ② 私たちの仕事、日々の業務や個人的な暮しの中で、丁寧に時間をかけたことは何でしょうか。この新しい年度にゆっくり進むことを心がけている物事は何でしょう。 自分の時間と仕事に携わる時間の境界線がぼやけてしまっている現実、対応の速さという一元的な評価と期待が横行する組織。少し斜に構えてみようかと考えています。 Fullanは学習評価に関しても、go slow to go fastの哲学と同じ本質的な課題提起をしています。 “Assessment is a window into both learner development and teacher practice.” “Assessment is not based on a deficit model but rather a diverse strengths-based approach leveraging portfolios and other rich qualitative assessments.” Michael Fullan (2023) The Principal 2.0 「学習評価は、学習者の知的発達と教師の実践の両方を見る窓です。」 「学習評価は不足モデルに基づくものではなく、ポートフォリオやその他の豊富な質的評価を活用した多様な学習者の『強み』に基づくアプローチなのです。」 減点法で点数をつけるのではなく加点法で、これを理解している、これができているという証拠を拾い上げて点数をつけることで、目の前の子どもたちの能力や可能性が完全に違って見えてくるはずです。そしてその結果、教師としての自分の仕事の質の良し悪しにも視点が向くはずでしょう。 先日、7年生のクラスで「楽」と「楽しい」について話し合いました。「楽」なことは「楽しいこと」だろうか。「楽なことは必ずしも楽しいことではない」という結論にまとまろうとした時に、ひとりの子が、これは国語のクラスでやった「不便益」と同じことだとつぶやきました。私は不便益、英訳をするなら Benefit of inconvenience という言葉をはじめて知りました。
その翌日、偶然入った教室では7年生の国語の学習をしていました。ちょうど川上浩司著『「不便」の価値を見つめ直す』のまとめをしていました。教科書を貸してもらって、全文を読んでみました。 「必ずしもいつも「便利はよいこと」で「不便は悪いこと」というわけではなく、「便利」の中にもよい面と悪い面があり、「不便」の中にもよい面と悪い面があると考えるのだ。そうすると、「不便のよい面」と「便利の悪い面」という新しい視点が生まれる。」 質問です。 ① 意識をして観察してみると「不便のよい面」は身の回りにたくさんあることに気がつきます。このような視点を持つこと、逆説的な発想をすることの利点は何でしょうか。 ② 7年生のこの生徒はふたつの異なる教科の学習活動から内容の共通点を見出しました。この例は自発的、無意図的ものですが、ある概念や事象を多教科に渡って学習することは可能でしょうか。それを実現するためには何が必要でしょうか。 偶然にも生徒がつぶやいてくれたおかげで、私は新しい言葉とその意味を知ることができました。さらに、にぎやかに学習するこの子はこうやって学んだことを思い出し意味を自分なりに理解しているということについても知ることができました。 教科の特性、独自性、専門性などという意識が邪魔をして、なかなか壁を取り払うことができていませんが、世の中の課題は、そして学習活動はますます総合的、複合的な方向へ進んでいます。 さて、「不便益」に話題を戻すと、日本の社会にはたくさんの「不便」が存在していると感じていますが、そのお陰でたくさんの恩恵をいただいています。その中には、おそらく多くの人は始めから「不便」とは感じていないのではないかという予想も持っています。目の前のものが前時代的なもの、あるいは便利なはずのものがかえって不便を生み出しているということには気がついていないのかもしれません。 不便や便利という感覚、認識は私たちのWell-beingにも関係や影響がありそうです。来週の研究講座ではこれらの点についても考えてみたいと思います。 卒業式の式辞を準備する時期になりました。昨年の原稿を書く際に集めた資料のメモに目を通しながら、テーマだった成功や失敗について再び考えました。
“How can we change the cultural narrative about rethinking? Can you imagine a world in which saying “I don’t know” is seen as a mark of confident humility instead of ignorance and “I was wrong”is viewed as an act of integrity rather than an admission of incompetence? “ Adam Grant (2021) Think Again 「どうすれば、考えなおすという習慣について文化的な認識を変えることができるのでしょうか。「わからない」と言うことが無知の印ではなく、自信に満ちた謙虚さの証とみなされ、「間違っていた」と言うことが無能を認めるのではなく、誠実な行為とみなされるような世界を想像できるでしょうか。」 質問です。 ① 学校生活や学習の中で、子どもたちは「わからない」「知らない」「間違っていた」という反応やつぶやきを正直に自然に口にすることができる環境があるでしょうか。そのような反応を理解力などの能力ではなく、態度として評価する習慣があるでしょうか。 ② 私たち大人の職場や人間関係の中で、「わからない」「知らない」「間違っていた」という反応を躊躇もなく示すことができる心理的安定性があるでしょうか。 大人でありながら、知らないことだらけの大海の中を小さなヨットで航海をしているような感覚を感じることはないでしょうか。それに対して、周りの人たちがやけに自信に満ちた様子に見えることはないでしょうか。 一方で子どもと接する際に、わからない、できないという言葉を口に出せない苦しみを感じる余裕が、私たちにあるでしょうか。子どもに謙虚に寄り添うやさしさや、言葉にあらわれないつぶやきを感じ取る繊細な感性があるでしょうか。 “There is a difference between not knowing and not knowing yet. I don’t like this yet: leaves room for change I’m not good at this yet: gives space for improvement.” Carol Dweck (2017) Mindset 「知らないことと、まだ知らないことは違います。私はまだこれが好きではない: 変化の余地を残しています。 まだ得意じゃない: 改善の余地を与えています。」 Dweckのこの文章を読むと救われるような感覚を持ちます。”Yet まだ”という言葉の力、可能性を私たち自身も信じる必要があるでしょう。 受験に失敗した自分を救ってくれた先生は、能力でなく態度をいつも評価してくれていました。 |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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