夏休みを子どもたちは楽しんでいるでしょうか。大人たちはスイッチを切って休んでいるでしょうか。
東京から大阪へ向かう機内に小学校低学年の女の子二人が座りました。関西に住むおばあちゃんのところに行くそうです。これから始まるいろいろな楽しいことへの期待が最高点に達している二人の様子を見ながら、この子たちのお母さんやお父さんが同行しない理由について想像していました。もし四人で旅行ができたら二倍も三倍も楽しいだろうに。 質問です。 ① 日々の生活の中で、私たちは様々なしがらみをひととき断ち切って本来の自分に戻る時間を確保する努力をしているしょうか。もしできないとしたら、その理由は何でしょうか。 ② 日々の生活の中で、私たちが最も幸せに感じる時間はどんな時でしょうか。最近そのような瞬間があったのはいつ、どんな時だったでしょうか。 久しぶりにシャツにアイロンをかけながらpodcastを聴きました。私たちは仕事をするために生まれたのか、生きるために(生活するために)生まれたのかというテーマでした。Time tracking(自分が1日の中で従事した物事をたどること)をして幸せに感じた時はいつだったか、逆に嫌な気持ちがした時はいつだったかを分析してご覧なさいという話題で対話が進みました。 この調査をした研究者の分析によると、人々が一番幸せに感じた時間は家族も含めて人とつながる時間で、一方否定的に感じた場面は通勤・通学の時や仕事に関するメールをチェックする時などでした。 冷静に考えてみれば、この当たり前の研究結果を取り出すまでもなく、私たちは何が自分の心身の状態を安定させ、幸福感や充足感を導くかを知っています。問題なのは、それを拒む現実をどのように改善するか、どのように幸福要素を生活の中に散りばめるかにあると思います。 自分の判断や選択が及ばない事情も多くあるでしょう。例えば家から勤務先までの通勤方法やそこにかかる時間は、換えたくても換えられない事情がたくさんあります。けれどもその時間にSNSにいくのではなく(調査の結果ではnegative要因が多くありました)、別の生産的なことをして過ごすなどの賢い選択肢は無限にあります。 私はメールをチェックする時間を決めて、メールに振り回される現状を回避しています。肝心なことは何を優先するかということだと思います。 ご参考までに前述のpodcastのリンクはこちらです。残りの夏休みをごゆっくりとお過ごしください。
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学期最後の7年生のクラスで、春学期を振り返っていろいろ質問をしてみました。
一番おいしかったお弁当は。一番楽しかったクラスは。一番たいへんだった宿題は。問いかけごとにあちらこちらでにぎやかな声が上がりました。誰もが中学生としての通過儀礼を体験したようでした。 質問です。 ① もし時計の針を戻すことができたら、どこの時点に戻りたいですか。その理由は何でしょうか。 ② 自分のこれまでの人生を振り返って、何かしらの後悔の念がわいてくるのは過去にしてしまったことについてでしょうか。それともしなかったことの後悔でしょうか。 最後にどの時点に戻りたいかとたずねてみると、中等部の入学式の日に戻りたいと言う7年生がたくさんいました。その理由は、春学期にしたテストをもう一度やりなおすことができて、良い点が取れるからというものでした。 この回答を聞いて少し複雑な気持ちになりました。私たちの学校はそれほどまでに7年生にたくさんのテストをして、その結果を常に彼らの目の前にぶら下げるようなことをしているのだろうかと。さらに、中学生としての自分の成功や達成度がテストの点数や成績だけで決まると考えているのだろうかと。 学期末の振り返りの中で、7年生が持った後悔はするべきことをしなかった、あるいは不十分だったという反省でした。 “Action and inaction alike is to use the regret to improve the future. If we look backward with a specific intent of moving forward we can convert our regrets into fuel for progress.” Dan Pink (2022) The Power of Regret 行動したことも行動しなかったことも、同様に、後悔を未来への改善に役立てることです。前進するという具体的な意図を持って後ろを振り返れば、後悔を前進のためのエネルギーに転換することができるのです。 Pink氏のチームの調査によると、人は20歳を過ぎる頃から自分がしたことについてよりも、過去にしなかったことについて後悔することの方が多くなるということがわかっています。 夏休みの終わりに、あれもこれもしなかった、できなかったと後悔しないように、ひとつずつ実行していこうと思います。 教室に8年生が入ってきました。それぞれが座ると、教科書やノートを出し始めました。彼らの表情を見れば分かることですが、これらの動作でもこの日に何があるのかわかります。テストです。
きょういくつテストがあるのと軽くたずねると、3つありますとか4つですという声が聞こえてきました。私たちの学校では、このような事態が起きないように「アセスメントカレンダー」を作って、教員がそこに予定しているアセスメントを記入するという仕組みを昨年から導入しているのにこの有様です。 この時間に8年生と一緒に考えようと思っていた課題をその瞬間にDeleteして、子どもたちに2つの選択肢をあげました。ひとつは教室でテスト勉強をする。二つ目は校庭に出て遊ぶ。豈図らんや、ほとんど全員が歓声をあげて校庭に出て、梅雨の合間の強い日差しをものともせず、どろけいで走り回りました。 質問です。 ① 教師をテストなどの評価に駆り立てるものは何でしょうか。なぜ学期の終わりにそのような評価が集中するのでしょうか。たとえば、単元の3分の4を終えた時点で評価をしたとすると、その結果から何を読み取ることができるでしょうか。 ② 総括的評価の必要性はありますが、形成的評価を効果的に実施することで総括的評価をなくすことは可能でしょうか。 そんなことを悶々と考えていた時、偶然この報告書に出会いました。 “Assessment must belong to them. If students immediately see you as someone who will evaluate and identify their shortcomings, who will determine their success or failure, you have already lost them. They will have checked out because they don’t own their success, you do. However, if you recognise their assets and deliberately shift to regular and effective use of student conferencing, peer and self assessment and descriptive feedback as your primary assessment strategies, they will own their next steps. You guide, they drive.” Michael Fullan et al. (2021) Engage Secondary Students Because the Future Depends on it 評価は彼らのものでなければなりません。もし生徒があなたを、自分の欠点を評価し、特定し、成功か失敗かを決定する人物とすぐに見なすなら、あなたはすでに生徒を失っているのです。なぜなら、彼らの成功は彼らのものでなく、あなたのものだからです。しかし、もしあなたが彼らの才能を認め、主な評価方法として、定期的かつ効果的な生徒との面談、相互評価、自己評価、記述式フィードバックに意図的に移行すれば、彼らは自分の力で次のステップに進むことができるのです。あなたが導き、彼らが動かすのです。 評価が子どもたちのものになるように努力していきましょう。 手品をかなり真剣に練習している10年生と話していると、手品には三つの鉄則があると教えてくれました。① これから何が始まるか言わない。② ねたを明かさない。③ 繰り返さない。なのだそうです。
これを聞いて気がついたことは、まさにあまり良くない学習活動の典型的な例ではないかということです。習慣として確実に欠けている要素は①と③で、これから何を学習して何ができるようになるのか伝えられていないことがよくあります。そして学習内容を先に進めることに集中するあまり、十分な振り返りや解説を繰り返す機会は少ないでしょう。②については多くの先生方が使命感を持って説明しているのが現実だろうと思いますが、「ねた」を「証拠」evidence, proof、あるいは「材料」materialととらえると、ある事象や公式がなぜそうなるのかという証拠をつきとめたり、深く考察する材料を提供する場面はもしかすると少ないかも知れません。 質問です。 ① 上記の手品の3つのきまりが、学校の中で一番明確にあらわれてくるのは評価の場面でしょう。もしテストの数日前に、何が始まるか(何が出るか)を伝え、ねた(解答を導く材料)を与え、もし会心の出来でなければやり直すことができるという機会を提供したら、子どもたちの中にどのような変化を生むでしょうか。そしてテストの問題はどのように変わるでしょうか。 ② 学習のまとめとしての総括的評価がそのような手順と内容に変わると、学習活動自体はどのように変化するでしょうか。 まずテストで測ろうとする子どもの知識と技能が、単純な暗記で答えられるような問題ではなくなるはずです。学習したことをテストで再生産させるような問題ではなくなるはずです。 そうするとその題材・単元の学習内容と方法が完全に異なってきます。答え探しや反復練習のような作業から、物事の意味、法則、因果関係、応用を探る活動、読解だけでなく分析や表現への発展的な創作活動など可能性は無限に広がります。 To put it in an odd way, too many teachers focus on the teaching and not the learning. They spend most of their time thinking, first, about what they will do, what materials they will use, and what they will ask students to do rather than first considering what the learner will need in order to accomplish the learning goals. Grant Wiggins (2005) Understanding by Design 変な言い方をすれば、多くの教師は生徒が学ぶことではなく、教えることに重点を置いているのです。学習目標を達成するために学習者が何を必要とするかを考えるよりも、まず、自分が何をするか、どんな教材を使うか、生徒に何をさせるかを考えることにほとんどの時間を費やしているのです。 手品師と教師に共通している技は、注目を集めるということでしょうか。 生徒会主導の学園祭が終わりました。全体のプログラム、教室の割り当て、シアターでのパーフォマンスのプログラム作成・会場設営、司会進行など通常の運営と作業に加えて、今年は感染症対策、保護者の招待、QRコードによるチェックイン・アウトのシステム導入などが3年ぶりの規模の学園祭の準備にかぶさりました。
そして一週間後の土曜日の夜にはProm(高等部生が参加するダンスパーティ)がありました。この行事も生徒会の主催で開催されました。 Promが閉会すると楽しかった時間を思い出の袋にさっとしまい込んで、リーダーたちが黙々と会場の体育館の後片付けを始めました。90分で現状復帰をして、みんなで学校を出ました。駅までの道を一緒に歩きながらこの若者たちには “agency” があることを強く感じました。 The concept of student agency, as understood in the context of the OECD Learning Compass 2030, is rooted in the principle that students have the ability and the will to positively influence their own lives and the world around them. Student agency is thus defined as the capacity to set a goal, reflect and act responsibly to effect change. (OECD Future of Education and Skills 2030, 2019) OECDラーニングコンパス2030の文脈で理解されているように、student agencyの概念は、学生が自分の生活や周りの世界に積極的に影響を与える能力と意志を持っているという原則に根ざしています。従って、student agencyは、目標を設定し、反映し、変化に影響を与える責任を持って行動する能力として定義されています。 質問です。 ① 行事などでは、子どもたちに提案権や裁量権が与えられ、それに伴う責任を持つことが期待されます。学習活動や評価にそれと同じ程度の agency (参加、役割、責任) を子どもたちに提供することは可能でしょうか。実現すると、どのような可能性が広がるでしょうか。 ② 子どもたち、教職員、保護者、社会 (地域や企業) が共に参画する co-agencyは進める価値のあるものでしょうか。それを阻むものは何でしょうか。 昨日のOpen Dayでは、まさにボランティアの中高生と教職員のco-agencyでした。そして来校された小学生や保護者の感想から総合すると、「学校を売る」ことに一番得点をゲットしたのは中高生でした。 土曜日を犠牲にして参加してくれた子どもたちへのお礼のお菓子は、彼らの働きぶりとはまったく釣り合っていませんでした。 子どもたちのいない教室を一つひとつ巡っていると、ある教室の後ろの掲示板に詩の作品が並んでいました。国語の時間に創作したものでしょう。ひとつの作品に目が止まりました。
授業中の空間は美しいと フィールドで元気よく遊ぶ姿は美しいと 帰りのチャイムの音は美しいと 友だちと帰る帰り道は美しいと 学校生活の中で目にする物事を「美しい」と素直に感じ取っているこの詩の作者は、2年間学校に通うことができませんでした。ところがこの4月から殻からねけ出たように突然通えるようになり、現在も元気な顔を見せています。久しぶりに見る当たり前の光景を美しいと感じ表現していることに、読んでいる自分がうれしくなりました。 質問です。 ① 子どもの行動や態度、成果や失敗を見た時に、私たちはどのように反応するでしょうか。どのような理由付けをするでしょうか。 ② たとえばこれまでできなかったことができるようになった時、できていたことができなくなった時、こちらの期待通りの行動や反応が見られなかった時に、その理由を探る際の教師の視点はどこから出ているでしょうか。 今週着るシャツにアイロンをかけながら聴いていたPodcastのゲストはAngela Duckworthでした。Duckworth教授は子どもの成功を、たとえば “Grit (根気・根性)” などのような言葉で片付けるべきではないと。CharacterとContext (環境、人間関係など様々な条件)が複合的に有機的に混ざり合ってあらわれた現象であるという指摘でした。 子どもたちの成果も失敗も、子どもたちの生活や人間関係にある複雑な迷路を通って表出しているという意識を持って客観的に眺めると、様々な読み取り方ができることに気が付きます。それは、良いとか悪いという二極では説明できない、断定できないものだという認識です。 それでは「成績」の場合にはどうでしょうか。学校が発行する成績証明書のような文書から「学力」という定義の曖昧な虚像をあたかも実像ととらえて読み取るものは、一体何でしょうか。読み取ったものはどのくらいその子どもを説明するものでしょうか。少なくとも、固定的な変化の少ないものというとらえかたではなく、その子の性格や環境によって変わるものという認識を持つことが大切なのでしょう。 2回にわたって時間について考えてきました。そして今回も時間について考えたいと思います。
時間が豊富にあるという状況は子どもから大人まで、既にありえない現実になっているのかも知れません。学校で何か新しいことを始めようとする時、すぐに聞こえてくる意見は「時間がない」です。私たちは慢性的なTime poorの世の中で生活しているのでしょうか。 “The most obvious explanation for today’s time famine is that we simply spend more hours doing routine chores and working. But there is very little evidence that supports this idea. Some of the best time diary research suggests that in the United States, men’s leisure time has increased by six to nine hours a week over the past 50 years, and women’s leisure time has risen four to eight hours a week. And according to the OECD, in 1950, people in the U.S. worked an average of 37.8 hours a week; in 2017 they worked an average of 34.2 hours a week.” Ashley Whillans (2019) Time for Happiness 「現代の時間不足を説明するのに最もわかりやすいのは、単に日常的な家事や仕事に費やす時間が増えたというものです。しかし、この考えを裏付ける証拠はほとんどありません。最新のタイムダイアリー研究によると、米国では過去50年間に男性の余暇時間は週に6~9時間増加し、女性の余暇時間は週に4~8時間増加しています。またOECDによると、1950年アメリカの人々は週に平均37.8時間働いていましたが、2017年では週平均34.2時間の労働時間です。」 質問です。 ① 私たちは時間をかける物事に優先順位をつける習慣があるでしょうか。 ② これもあれもするというTo do listではなく、これもあれもしないというNot to do listの習慣を推し進めることは現実的でしょうか。 ③ 組織の中に長い間あった習慣や事柄を、効率性や必然性や価値という観点で「やめる」という決定をするのは誰であるべきでしょうか。 私はどの学校でも見られるような各教科が採用している副教材に大きな疑問を持っています。Whyの質問をしてみると、それに対して返ってくる説明はどれも私の疑問に対しての答えではなく弁解になっています。けれどもその弁解の中にしばしばあらわれる「時間」についての認識は、教育活動の根幹に関わる問題だと思います。 BYODの環境だが、生徒一人ひとりに正しいリサーチの方法を指導する時間がない。十分なリサーチに時間をかける余裕はない。これだけ多岐にわたる資料を子どもたちに提示するのは副教材がないと不可能だ。練習問題を作成する時間はとれない。 私の反論です。では、そのような「時間」を確保して深い学びを実現しなければ、一体子どもたちはどこでその能力と技術を身につけるのでしょうか。 12年間共に仕事をした校長は、保護者や教員からの不平不満や苦情にはすぐに応答をせずに相手を焦らす作戦に出る時がありました。そんな時に使った表現が “Let him stew on that.” 「ほっておこう」という意味ですが、直訳はその問題を煮込ませておけということで、おいしいシチューができるように本人が問題の解決を見出すかもしれないし、人によっては怒りが煮え立つかもしれません。
私たちが仕事を通して関わり合う相手とのやり取りは、速く処理をすることを期待されている場合が多いのは事実でしょう。そして、速ければ速いほど相手からの評価が高くなるだろうという予想も持っています。けれども即答や意味のない謝罪を避けて、時間をかけて話し合うことや結論を導き出すことの大切さに気づくことがあります。久しぶりに ’stew’ に触れました。 “Just as a good stew takes time to simmer, a thoughtful conclusion or question may need space. Resist unnecessary urgency. Map a process that will allow you to solve a problem over several days or longer. Dig into it initially then reflect on what you learned and what you should have asked. The questions you formulate in quiet reflection may be more powerful than those posed in the moment.” John Coleman (2022) Critical Thinking Is About Asking Better Questions 「おいしいシチューが煮えるまで時間がかかるように、考え抜かれた結論や質問には時間が必要かもしれません。不必要に急ぐ必要はありません。数日またはそれ以上かけて問題を解決するためのプロセスを描く。そして、何を学び、何を問うべきだったかを振り返ります。静かな内省の中で立てた質問は、その場で立てた質問よりも強力なものになるかもしれません。」 質問です。 ① 時間をかけて丁寧に仕事をすることと、効率よく作業をして量をこなすことの両立は可能でしょうか。 ② 私たちは新しい物事を学習すると、それを自信をもって実行したり実際に使ってみたりするには一定の時間が必要なことを経験的に知っています。その当たり前の事実を、子どもたちの学習活動と評価にも応用しているでしょうか。とりわけ一連の学習活動と総括的評価の間に十分な時間を確保しているでしょうか。子どもによって定着に必要な時間が異なることを認識しているでしょうか。 映画館、劇場、コンサート会場で終わる直前や、終わるとすぐに席を立つ人がいます。家でStreamingで観る時はどんな行動をするのでしょうか。余韻というおまけがついているのにもったいないと感じます。 前述の校長さんからワインについていろいろなことを教わりました。そのひとつは、良質のワインを飲んだ後にはグラスに良い香りが残ることです。本当に良いものには、いつまでも心の中に余韻を残す力があります。それを感じるにはゆったりと過ぎる時間を持つことが必要でしょう。 学校の北の方角に見える山並みは、この時季になると毎日色を変えます。先々週は山桜のやわらかい色のかたまりが点在していました。先週からは木々の新緑の色の変化と斜面がふくれてくるような量の変化を眺めて楽しんでいます。
萌える春の光景は、今を大切にすること、今を楽しむこと、そして今しかできないことをすることを気づかせてくれます。 質問です。 ① 新学期に心がけていることは何でしょうか。新学期に毎年必ずすることは何でしょうか。新学期にしかできないことは何でしょうか。 ② 今を大切にすること、日常を丁寧に過ごすことを心がけると私たちの生活や仕事はどのように変わるでしょうか。今の時間を大切にすることに主眼に置くと、子どもたちの学習活動の内容や方法はどのように変わるでしょうか。 教室にいる一人ひとりの子どもたちとつながることの大切さは、たとえば新しい学校に転任すると強く感じます。昨年の今頃は、会話をしていてもこちらからの言葉が相手の心に届かずに上滑りしている感覚が常にありました。この学校に通っている子どもたちとつながっていないとすると、私はここにいる意味はありません。そして子どもたちのことを知る努力、つながる努力をしなければ、10代の子どもたちとの人間関係は築けません。 “if you have a humble eagerness to learn something from everybody, your learning opportunities will be unlimited. Generally, you can be humble only if you feel really good about yourself—and you want to help those around you feel really good about themselves, too.“ Clayton Christensen (2010) How Will You Measure Your Life? 「誰からも何かを学びたいという謙虚な気持ちを持てば、学ぶ機会は無限に広がります。謙虚になるには、自分自身のことを本当に良いと感じていること、そして周りの人が自分たちのことを本当に良く感じるようになってほしいと思うことが必要です。」 紛争が続くウクライナで今を大切にする努力を続けている先生方がいます。そのうちのひとりの先生がTEDの中で語られていた言葉が胸に響きました。 "As long as our children keep learning and our teachers keep teaching -- even while they are starving in shelters under bombardment, even in refugee camps -- we are undefeated," 今を大切にすることが、明日を大切にすることにつながり、希望につながるという連鎖があることに気がつきます。 学校が社会や当事者に対して責任を持つこと、説明をすることは当然のことですが、日本全国の学校が毎年実施しHomepageに公開している「学校評価」は果たして公平な評価として機能しているのか疑問に思います。自分たちがしたことを自分たちで採点する自己評価は、まさに内輪でする振り返りや反省会であり、学校評価という名称にふさわしい価値のある資料なのかどうか。
そしてこの作業を一層曖昧にしていることは、良い学校の定義や基準に普遍性がないこと、人によって学校観や教育観が異なる中で学校の質を公正に測る方法が共有されていないこと。さらにアンケート調査にあらわれる当事者の主観的、感覚的な満足度がそのまま評価に反映される現在の仕組みは、偏見や先入観をふるいにかけることをせずに調査結果として公表することになり、これが最善の方法なのかどうか。 学校評価に初めて携わって一番強く感じたことは、それらの制度や方法の欠陥から発生する問題点もさることながら、この毎年恒例の作業は年度の始めに1年後の実現可能な目標を立て、成功の基準を明確にして、具体的な方策を持たなければ、年度の終わりに相当な時間をかけて作業しても意味はないということです。 質問です。 ① 教えた教師がその生徒たちを評価する慣習から学校が抜け出ることができないのはなぜでしょうか。担当教師ではない別の人が生徒たちの学習の足跡や成果を評価するとどのような変化が生まれるでしょうか。 ② 良い学校の要素は何でしょうか。世の中が持つ良い学校の基準には普遍性があるでしょうか。良い学校の定義や認識が人によって異なるとすると、良い学校になるために努力をする際の目的や目標は何に準拠すると良いのでしょうか。 学校評価が少しでも客観性のある数字から判定されているという印象を与えるために、アンケート調査が使われます。けれども、良い結果が出やすいように質問や選択肢を操作することや、自由記述の設問を減らすなど傾向と対策を尽くして自分達に有利な結果が出るようにする例もあるでしょう。目標と成功基準について定量的な方法だけでなく、定性的な方法からも学校の実態を正確につかむことが必要なのだと思います。 私たち教師が子どもたちとかかわり学習活動をする中でも、学期や年度の始めに具体的な到達目標をたてて、その成功の例や基準を明確に描くことが重要であることを、学校評価の作業から再認識しました。 Daniel Pinkは「1年のうちに86回新しい物事を始めるきっかけがある」When (2018)と指摘しています。ちょうど今は新学年、新学期の始まりなので、何か新しいことを始めるのに絶好の機会かもしれません。 |
Author萩原 伸郎 Archives
6 月 2022
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