この時期は春の運動会があちらこちらの学校で開催されたことでしょう。子どもたちの入退場の時にかかる行進曲は運動会の思い出そのものです。先日学校に向かう車中でかけていたFM局からSousa作曲の行進曲Washington Postが流れてきました。この曲は1889年にWashington Post新聞社が主催した第1回子ども作文Contestの表彰式のために作曲されたものです。6月15日に25000人もの観衆が見守る中で11人が優秀賞を受賞しました。新聞購読が家庭に浸透することをねらった広報宣伝事業であることは明らかですが、その規模に驚かされます。さらに、mass communicationの時代の到来を誇らしげに謳歌する新聞社の勢いも感じます。
128年も経つと新聞社に往時の姿を見ることはありません。情報源としての新聞の役割は激減しました。私は紙の新聞を読んでいた時は教育面に必ず目を通していましたが、たいていの場合一社の朝刊に限られていました。今では世界中から毎日届く教育に関する記事や情報を処理することが仕事のひとつです。多様な情報源とそこから発信される情報を取捨選択し、理解し判断し、さらに効率的に保管する能力は知的生活のための必要条件になりました。 Australiaでは書店が姿を消してからしばらくたちますが、日本はたいていの街に書店がありたくさんの本や雑誌であふれています。書店数や発行数が国民の知性を測る指標になるのか私にはよくわかりませんが、新刊の中に質の高い読み応えのある書籍がどの程度あるのか疑問に思う時があります。新聞、公共放送の報道も果たして公平で正確な情報だと信用する価値があるでしょうか。 質問です。 ① 教師として知的、専門的な読書や情報の収集を習慣的に実践していますか。 ② 教師どうし、あるいは生徒たちや保護者と本や記事を共有する習慣がありますか。 書籍を扱う図書館のあり方も意味も大きく変化しています。Australiaの図書館は利用者が必要としているものや望んでいる室内環境を敏感に察知してすばらしい施設を地域住民に提供しています。この間、校内研究会を依頼されて都内の学校に向かいました。時間に余裕があったので近くの図書館で準備を整えることにしました。10人がけの長い机でlaptopを開いて仕事を始めると、係りの人がやってきて「ここではパソコンは禁止されています。」と注意を受けました。WifiもなくICT機器も使えない図書館での知的活動は限られてしまいます。 今年もどこかの学校の運動会で行進曲Washington Postに合わせて行進をした子どもたちがいたことでしょう。ちなみに1889年の表彰式で受賞した11人のうち8人は女の子だったそうです。思い出の糸をたどると、小学生の頃から作文が上手だったのは女の子ばかりでした。不思議とその子たちはどんな文章でも書き方、構成、言葉の使い方を会得していて、しかも語彙が豊かでした。そういう級友たちは別世界の人間のようにも見えました。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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