「先生たちにもDress codeがあるんですか。」と8年生の男の子がRoboticsの作業中にたずねてきました。質問の意図を直感しましたがあらためて確かめると、「気楽な服装でいる先生たちがいるから。」と答えが返ってきました。
制服の必要性についての議論は別にして、制服が存在し正しい着用を要求しているのなら教職員も制服に準じた服装をすることは当然の道理でしょう。現実は、教職員の間に拡大解釈が蔓延しています。子どもたちに窮屈なtieをしめさせ、先生たちは快適なpoloで過ごしている光景は子どもたちに不条理だという意識を持たせることにならないでしょうか。 担当の先生が不在の際には空き時間のある別の先生が代替として入ります。空き時間を失うことにReactして、教室の子どもたちにやるべきことを伝えると、一切の関わりを拒むようにlaptopをひろげて自分の世界に入り込む先生がいます。一方でProactiveの態度を無意識のうちに選択し、他の先生の教室の様子や雰囲気、子どもたちの学習意欲や習慣など、たくさんの情報を集める機会ととらえることができる先生もいます。 質問です。
教師になった1年目のある日、教頭先生から通勤時に通学路を歩く時は子どもたちが歩く側を歩くようにと指導されました。反対側の方が人通りが少なく速く歩けるのですが、子どもたちと同じことをすることの意味を知りました。 Global Teacher Status Index 2018という報告書が先日発表されました。教師の社会的地位や教職の社会的認識に関する調査結果の国際比較で、目を引いたのは教師や教職が社会的に尊敬されているかどうかの数値化の方法でした。自分の子どもに将来教師になることを勧めますかという質問の回答から「尊敬度」を割り出しています。日本は回答者の10%という結果でした。 教師を尊敬するか教職が尊敬されているかという判断基準は個人的な体験がもとになっていて、職業の選択肢とは異なる次元の心情的なものではないでしょうか。学校の中や外で子どもたちが見る先生の言動のすべての副産物、先生が子どもたちにする仕事のすべての副産物が「尊敬」なのだと思います。
0 コメント
返信を残す |
Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
Categories |