毎年5月末から6月始めの週はReconciliation Weekと呼ばれ、先住民族とそうでない人種のすべてがお互いの尊厳や人権を認めあい、精神的な歩み寄りを祝い、今後の発展をめざします。そして全国で様々な行事が開催されます。
私たちの学校でも生徒会幹部がpodcastを配信し、縦割りのホームルーム Pastral Care Groupでは毎朝毛糸を編んで木に巻く飾りを作りました。ざっと数えても30以上の多様な文化的民族的属性を持つ人々が集う私たちの学習共同体の誇りのひとつは、どこを見ても同じ属性どうしが固まる一種のsub-cultureが存在しないということです。いろいろな色が混ざっている光景ほど将来の希望を与えてくれるものはありません 質問です。
遠藤周作さんは『女の一生 サチ子の場合』のあとがきに「電車のなか、バスのなか、あるいは駅前で、私は自分と同じ年頃の主婦を見るたびに何とも言えぬ親近感を急に感ずることがある。その親近感は自分たちが同世代であり、共に同じ歴史を生きてきたのだという事実から生まれている。」と記しています。 私は移民一世として、この国であきらかに移民一世と思われる人々と目が合う時、言葉を交わす時に一種の「親近感」を感じます。日本の街のコンビニで片言の日本語を話す店員さんとめぐりあった時もこの「親近感」を感じます。そして親近感は、その店員さんと目を合わさず言葉も交わさない無愛想な日本人客を見る時、共感に変わります。 Black Lives Matterはこの「共感」からうまれていると感じています。不正義、不平等への憤りがMatterという言葉に含蓄されているのではないでしょうか。報道機関の日本語訳「黒人の命は重要だ」や「黒人の命も大切」などの表現はあまりにも表面的すぎて憤りの共感が欠落しています。 さらに、「黒人」という言葉が差別語にあたるかもしれないという意識や感性がないこと、無感覚に使用している事実に社会の成熟度の低さを感ぜずにはいられません。
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Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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