11月になるとJacarandaの花が咲き始めます。そして遠目に紫色の塊が目に入ると、あそこにもJacarandaがあったのかという発見があります。
このことは、私たちが学校で毎日接している子どもたちの中からいつもとは異なる行いやつぶやきに気がついたり、表に出てくることのなかった能力や可能性の一片を見つけたりすることと似ているようです。観ているようで見落としていること、花という形で現れないと存在に気がつかないことが多いという私たちの目や感性、記憶の不確実性を紫の花が静かに伝えてくれているように感じます。 11月は試験の月でもあります。92科目(そのうち42科目は外国語)8週間に及ぶ大学入学共通試験も終わりました。今年は新しい「規則」が加わりました。すべての腕時計を試験場に持ち込まないという規則です。そこから波及して、各学校での定期試験でも腕時計は禁止になりました。 質問です。
今日の試験制度や方法は学校教育制度が整って以来、目的や意味、信頼性についての分析や検証、必然性についての議論がなく続いています。効率的に個人の能力、とりわけ世間一般で言う「学力」、が測定できるという確信に基づいていますが、実際のところ結果の数字が示すことは純粋な「学力」ではなく理解度や定着度、性格や習慣などの二次的な要素が大きく含まれていることを認識する必要があるでしょう。 一般的な試験は教師が教えた内容の再生産を子どもたちに要求するので、そこから判明することは理解力ではなく理解の程度ではないでしょうか。指導を担当した教師だったら期末試験前に誰がどのくらいの点数を取るか予想がつきます。それでも日程通り試験を実施し成績をつけてしまいます。 物事を学習すること、理解すること、何かができるようになるということを科学的にとらえると、紙とえんぴつの試験以外の方法でないと子どもの能力を正しく測ることはできないことに気がつきます。 たとえば、様々な職域の技能検定では道具を持ち込んで自分の技を披露します。同様に学校の教科でも子どもたちに、自分が必要だと思うすべての物を持ち込んで、もちろんInternetや機器も、何ができるかどんな課題が解けるかという「試験」の機会を提供したらどうでしょう。きっと目を引く美しい花を咲かせるだろうと思います。
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Author萩原 伸郎 Archives
10月 2024
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