『デジタル教科書、変わる授業』のような新聞記事の見出しがありました。本当でしょうか。
「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」とは教育実習の際に言われたことがあります。「を」と「で」の助詞の入れ替えで意味が異なるような錯覚を与えますが、実際のところどちらも教科書を学習の中心においてそこに記載されている事実や知識を理解させる教師主導の一斉指導であることに気がつきます。平板で一元的な教科書を必須の媒体として、構造的で発展性のある深い学習活動や個々の能力や興味関心に応じた多様な学習活動が可能になるのでしょうか。 教師にとって教科書はどのような意味があるのでしょう。自分の教材観を反映させたり核となる内容を重点的に扱うなどの自由度や柔軟性はあるでしょうか。教科書と一対になっている指導書の指示を批判的に読み、目の前の子どもたちに一番適切な方法と内容と順序を探し出す習慣はあるのでしょうか。 質問です。
自分が使った小学校から大学までの教科書やノートが入った段ボール箱を開ける機会がありました。当時の小学校低学年の教科書を手にとると、たとえば社会科は意図的に描かれた絵がページいっぱいに広がっています。様々な事象の典型的な情景を表現していて、決して引きつけられるようなワクワクするようなものではありませんが、説明や指示がないのでそれらの絵から自由に読み取ることができます。おおらかな時代だったことがうかがわれます。 一方、今の子どもたちが使っている教科書は過保護なほど丁寧に編集されているので、順に読み進んでいけば考えたり疑問を持ったりすることなく教科書にある内容を頭に入れることは可能だと思います。デジタル教科書はその点が一層「便利」になって「わかりやすく」なっているのでしょう。ますます学習は受け身になって、主体的で深い学習はさらに遠のくでしょう。授業がかわる(改善される)と予想することは極めて困難なことに思われます。 デジタル教科書の出現で、各教科で競うように使っていたドリルや資料集などがデジタル化されて付いてくるので、その点だけを見れば授業が「かわる」と言えるでしょう。
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Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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