ある中学校の教室に入ると正面の黒板の上に時計があり、そのすぐ下に「授業中この時計ばかり見ている人は集中していません」と書かれた紙が貼ってありました。
物事に集中して「時間を忘れる」経験は誰にもあることと思います。同時に集中していても時刻が気になることもあるでしょう。あと何分あるかな、お母さんはもう家に帰ってきたかな、などです。仮に、学習に集中できない生徒がその標語を目にすると、気分が入れかわり集中することができるのでしょうか。日本の学校には奇妙な精神論的な呪縛のようなものを感じることがあります。 別の中学校の教室には「生活五箇条」と書かれた模造紙に「挨拶、返事、姿勢、私語ゼロ、2分前着席」とありました。これらのことを心がけて生活し良い学級、良い学校をつくり、良い中学生になろうということでしょうか。確かに挨拶や返事は人間どうしの関わりを円滑にするうえで大切な素養ですが、誰かに言われることで挨拶をする習慣が身につくものか疑問に思います。同様に、姿勢、私語ゼロ、2分前着席についても、残念ながら根拠のない教師の都合を明文化した詭弁のように感じます。 質問です ① 学習に集中できるかどうかは学習の主体者である子どもたちの責任でしょうか。 ② 姿勢、私語、時間前着席を子どもたちに強要する前に、教師がしなければならない仕事は何でしょうか。 教師は安直に教室の理想像を子どもたちに目標や約束として押し付けるのではなく、むしろ、良い人間関係を築き、学習を成立させ、深い学びを実現し、学習活動そのものから楽しさを感じさせ、できるようになったとかわかったという喜びを体験させ、一人ひとりの様々な能力を伸ばすことに専念するべきだと思います。その努力を継続すれば、教室の子どもたちは自然に挨拶や返事をするようになり、机の上には必要な資料やノートを出して先生が教室に来るのを待っているようになり、学習に関係のないことを話すことさえ忘れて背筋を伸ばして学習活動に集中するようになるでしょう。 皮肉なことに19世紀的な「生活五箇条」を掲げていた学校は、21世紀の教育のあり方を意識した斬新な設計や意匠があふれる校舎を持っています。設計者や建築家の熱い願いや期待は、建物が完成してその使用者が使い始めた時に、受け継がれることなく消去されてしまったようです。いたるところにあるすてきな空間、座りたくなる階段、歩きたくなる廊下、陽を浴びて深呼吸をしたくなるような中庭、顔をつけてのぞきたくなる大きな窓などが誰からも見向きもされずにそこにあるだけです。子どもたちが自然にやりだすそのような行動は、恐らく、教職員の便宜上の理由からつぶされてしまっているのでしょう。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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