“At the turn of the millennium, technology companies based on the West Coast of the United States created a set of world-changing products that took advantage of the rapidly growing internet. There was a widely shared sense of techno-optimism; these products made life easier, more fun, and more productive. Some of them helped people to connect and communicate, and therefore it seemed likely they would be a boon to the growing number of emerging democracies. Coming soon after the fall of the Iron Curtain, it felt like the dawn of a new age. The founders of these companies were hailed as heroes, geniuses, and global benefactors who, like Prometheus, brought gifts from the gods to humanity.” Jonathan Haidt (2024) The Anxious Generation
「これらの製品は、生活をより簡単に、より楽しく、より生産的にする、というテクノロジーへの楽観主義が広く浸透していた。」 The Anxious Generationの全編には、決して看過することはできない脆弱な世代の現状が克明に記されています。この本を読み始めてすぐに、序文にある「テクノロジーへの楽観主義」という表現を目にした時、共感と共に反省や諦観が混ざった感情が湧いてきました。Haidt氏が提示しているデータには2010年から10代の子どもたちの心と体の変調が急増していることが明らかになっています。まさにこの時期から世界中で教育機器としてのテクノロジーの1:1の必要性・必然性が一気に議論されるようになりました。私もその渦中にいました。 質問です。 ① 学校現場や教員が抱いていたテクノロジーの楽観主義の本質とはどのようなものだったでしょうか。 ② ICTの供給側が主張していたテクノロジーの万能性や有用性とはどのようなものだったでしょうか。 ③ 学校現場、IT企業、教育行政、保護者がそれぞれICTに期待していたことと現実にどんな隔たりがあったのでしょうか。 ④ 学校が提供する教育の質はICTの活用によって深く豊かなものになったのでしょうか。子どもたち、教職員、保護者のWell-being度は増したのでしょうか。 私は学習活動にICTを活用することで教育の質は上がること、子どもたちの集中度や習熟度は上がることを実例として知っていますが、学校というparadigm、学習評価や入試制度に見る慣習的な手順、教科の枠組みや学習内容を変えることはまだ達成できていないと感じます。つまり、ICTは教育を改革する上で本当に必要な条件ではないだろうというのが私の考えです。 私たちは保守的で閉塞感のある学校、子どもたちが学ぶ意味を感じることのできないカリキュラム、一方通行の講義や教え込み、学習した内容の暗記力と再生力だけを確かめる評価、わからない・できないと苦しむ子どもに寄り添えない教師。学校制度が始まってからずっと存在しているこれらの課題をICTが解決してくれるだろう、解決してくれるはずだと単純に信じ込んだことがまさに楽観主義の本質だったのではないかと思います。 2010年代の初めの頃に、子どもたちが持っているデバイスを「値段の高い筆箱にするな」と警鐘をならしていた教育者がいました。子どもたちはデバイスを持って教室に来ますが、その使われ方はPuentedura教授が提唱したSAMRモデルの”Substitution 代用”の域を超えていないのが多くの学校の実情でしょう。
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Author萩原 伸郎 Archives
12月 2024
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