私たちの学校で開催されたDebateの国際大会の地区予選会で審査員をしました。英語で思考し議論する能力や語彙量が勝敗を決めると言っても過言ではないので、通常の学校で学習する教科としての英語とは相当離れています。発信型の英語、生活や学習言語として英語を使っていることが必然的に出場条件になると思われますが、たくさんの中高生が連休の一部を諦めてやってきました。
一組ごとのdebateを審査しているうちに、この理解力、表現力、論理的思考力、知識・情報量、心理的・感情的安定性が試される戦いは、見方によっては相当酷い活動であることを感じました。そして、勝敗を明らかにすることにどれほどの意味があるのかという、以前から感じている疑問がさらに大きくなりました。表現を換えれば、協調性や'Dialogue' 対話が大切にされる時代に、このような形態の議論の必要性はどのくらいあるのかどうか、論破する能力を持つことがこれからの社会に必要とされているのかという疑問です。 質問です。 ① ある問題や提案について賛成、反対、無関心という3つの見解があらわれた時、考えの違いを明確にするのではなく、共通点を探し出すことに労力をかけたらどのような成果があがるでしょう。3者が歩み寄ることのできる可能性の高い提案を出すことを試し合うのはどうでしょうか。 ② 実際の生活の中で議論を通して支持する案を押し通す場面と、妥協案や折衷案を導き出す場合と、その頻度の割合はどのくらいでしょうか。白黒をはっきりさせず、中間点に着陸することは話し合いの成果という点では「負け」でしょうか。 3人1組の出場チームのうち、それぞれが違った制服を着ている男子チームが教室に入って来ました。Debateが始まる前の「作戦」の話し合いや各発言者の間の打ち合わせも効果的に進んでいないようでした。惨憺たる結果で終わり、一方のチームが退出した後に声をかけてみました。 この3人組は毎週 Online debate 講座に参加している「知り合い」どうしだそうで、今回初めてこの大会に参加することにしたのだそうです。けれどもお互いが初対面で要領がつかめず苦戦したとのことでした。 他県から参加するメンバーがいるので、会場に一番近い所に住んでいるメンバーの家に3人が前日から泊まって準備したことも話してくれました。2日目も3人はそれぞれの制服を着てやって来ました。彼らには目指すべき具体的な目標が明確になった機会だったことでしょう。学校で学ぶ英語とはまったく異なる「道具としての英語」を試しにこの大会に参加した、彼らの勇気と情熱に励ましの言葉を贈りました。
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Author萩原 伸郎 Archives
8月 2024
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